創世記1章1節(6)ואת

 בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ

今日もまた創世記1章1節を眺めておりました。

今日はシャマイムの次にあるוヴァヴの付いたStrong's Hebrew853番את

ואתに目が行きました。

そして思ったのは、なぜוヴァヴが853番אתについているのか。


אתは該当するような外国語が無いし、それをスルーしたからといって取り立ててどうのこうのと目くじらを立てるほどの言葉たいした意味はなく・・・ん~例えるなら、「マジで~」が「めっちゃ~」に変わったところでそれほど気にしなくてもいいのと同じ?ような
私たち異邦人が知らなくてもよい言葉なのであったとするならば

創世記の著者はוヴァヴをהארץハ・アレツ つまり「地」という単語の前に直接付けただろう、と思ったのです。
この状態こそが日本語で言えば、翻訳聖書の言っている通りの「天と地」になります。

しかし、そうではなくてואת

つまり、日本語でこれを忠実にあらわすと、少なくとも「と地」というところは「と地」ではなくてこうなっているわけです「とאת地」

分かりにくいので、もう少しきちんと言いますね。

創世記の著者は

בראשית ברא אלהים

「初めに 作った 神さまが」

と、ここまで書いたあとに  

 את השמים ואת הארץ

これで「天と地」という意味として私たちは翻訳聖書で読んでいるわけですが、

「天השמיםと地הארץ」「と」に当たる部分がוヴァヴなので
ヴァヴの後にあるאתに何か意味がないとおかしなことになります。「と」と「地」の間に意味のない謎の隙間ができてしまう。


翻訳された「天と地」という日本語を読んだ私たちに残る印象は、

ただ単に二つのものがそこにあるという印象を残す「パンと牛乳」というものとは異なり、

自分は大地に立ち、そこから見える大空、
歩いても歩いても夜の空に輝く月が追いかけてくるように、自分を取り囲み自分から離れることのない大空、
右を見ても左を見ても前を見ても後ろを見てもそこにあり、上を見れば、地にあるすべてのものを覆いつくす大空、
晴れた昼には青く、時として雲が現れて水を降らせ、新月の夜には地にあるすべてのものを闇で覆ってしまう

という
まさにוヴァヴ(幕屋の幕を留めるフック)による接合、
否、接合などというものではない一体のもの、
継ぎ目などない一体のものであって隙間などどこにもない、
それが「天と地」というものです。

しかも、現代に生きる私たちともなれば、天体としての地球、宇宙空間にある地球をイメージできるわけですから、
「天と地」がどのような状態であるのか、
もっと言えば、
天という言葉を「神さま」に置き換えて考えてみればクリスチャンにはわかる。
主はどこか遠く離れたところにおられるのではない、私たちと共にいて下さるお方なのだ、と。
だとしたら「天と地」の間に無意味な隙間があるはずがない。
「とאת地」のאתとは無視してはいけない何かであると考えるほうが自然ではありませんか?
著者は何かを言っている。
אתによってあらわされる何らかのものがある。


もう一度この言葉を眺めてみましょう。
את השמים ואת הארץ

「天השמים地הארץ」に当たる部分がוヴァヴなのですから
ヴァヴの後のאת

少なくとも前の単語であるהשמים「天」に関係するものではなく、
天とוヴァヴで接合する「地」を意味する הארץの側にかかわりがあるということになる。

つまり、「地」という単語と一緒あってに何かを言ってるのです。
「地」を修飾する言葉なのか、「地」を説明する言葉なのか、
とにかく「地」とは離すことのできない何かであることは確かです。

そして、אתは実際には
השמים「天」の前にも置かれているわけです。
つまり、こうなっている

את 天השמים את 地הארץ」


ヘブライ語聖書をノートに書き写し始めたころ、
天という単語の前につけられたאתは一つ前の単語である
אלהיםエロヒムに関係あるのかと思いました。
神さまを表すאアレフという文字には「音が無い」という事を知ったころだったので、
アレフという文字の特殊性に関係する、つまり、神さまご自身に関連する不明語なのかと思ったのです。しかし、書き取りが進むにつれて、
אתという単語が必ずしもאלהיםエロヒムとセットに登場しているわけではないことに気付いたのと、1章1節のואתの存在から、אתは直後に置かれた単語とかかわりがあるのではないかと考えるようになりました。


ただ、言葉というものは移り変わるものなので、

たとえば古語と現代語の意味が全く違うとか

また、ミルトス(ギンバイカ)についての記事に書きましたけれども

エステル記において、
ハマンの名前がヘブライ語で考えると「善人」のように見える良い文字を使っているにもかかわらず、エステルの名前があまり好ましくない文字を使っているというような
著者の立場や書物が長く置かれ続けた環境によって「改ざん」?も無いとは言えないので、(個人の感想です)

言葉を考えるにあたってはその書の書かれた年代や保存にかかわった人の思想も考慮しなければならず本当に大変だとは思いますが、

少なくともトーラーについては
どうにかしてאתのあらわす内容を具体的に知りたいと願っています。

(→今のところこんなふうに考えています

ネットで検索すると

やはり英語圏の方々は言葉のハードルが低いためかいろんな考えを表明しておられます。

前置詞として後に続く言葉を強調しているのだ、という説をとる方や

これは受肉前のキリストを表している、と言っている方がいましたけれども

創世記の辺りだけならば受肉前のキリストというのもありですが、
とにかく登場頻度がものすごいのと(Englishman's Concordanceによれば11050回)意味的に受肉前のキリスト説はちょっと合わないかも、というものも少なからずあるので、

そういう事を言ってドヤ顔をしている指導者の言うことは聞かない方がいいような気がします。

それにしても、 

Strong's Hebrew853番את以外にもスルーされている言葉が無いとは言えず

言葉は悪いですが、そういうことを無視して翻訳された聖書を

真剣に一字一句間違わないように引用していたことにむなしさを思える今日この頃です。

まあね、「著作物の引用」にあたっては正確に引用するべきなので、一字一句間違わないように引用することは当然のことなのですが、「聖書だから」という思いで40年も大切に読み続けてきたわけですから、その意味で心の整理が難しい日々です。

ユダヤ教徒であれば、変化するのは当然のことであり、むしろそのために学ぶわけですが、

クリスチャンは護教の意識が強く、少しでも外れたら異端ですからね、

秋の夜長に聖書の比較」の記事を書いて以来

考え込むことが多くなりました。


「とにかく救いに至る事が出来ればいいじゃないか?」とおっしゃる方もいますが、


・・・聖書のみという信仰

しかも万人祭司ですから頑張れるところまで頑張らねば。


そのうち改宗するしかなくなるような気がする今日この頃。

・・・(。´・ω・)ん?

なにきょうにかいしゅうすればよいのかしら??