闇
「闇」という言葉 חשֶׁךְ は、dark、 darkness、 obscurityと英訳されています。 たしかに、闇の中におれば視覚が効かなくなりますから、五感のうちの一つが失われたとすれば「曖昧、難解」となるのでしょう。 今我々は得体のしれない闇と向き合っております。 いや、闇の中に頭を抱えて座っているのかもしれません。 最近、出エジプト記の13章14章を読みながら、あらためて、 「すべての出来事は主の手中にあるのだ」ということを思いました。 14章4節で主は、ご自身がファラオの心をかたくなにするとおっしゃいました。 ファラオの心をかたくなにすることがモーセをはじめとするイスラエルをどういう気分にさせるのかと考えれば、ファラオにはかたくなになってほしくはないわけですけれども、しかし主はそうされました。 もっと言えば、13章17節において、イスラエルに近道を歩ませるのではなく荒野に向かわせた主。 どちらについても当事者であれば主よどうしてですか??と問いたいことでありましょう。しかし主はそうされたのです。 私たちに信仰心があるのならば、「どうして??」ではないのです。 主がそうされたのならばそれが最善なのですから。 「どうして??」と私たちが問いたい思いになる時、 それは、目の前に起こり続ける「現象」だけに目が行っている時です。 全ての出来事がもれなく神さまの御手のうちにあるのだ、と信じることがからし種ほどであれ出来るのならばその「現象」の向こうに神さまの御手を見ることができるはずです。 しかし、現象に心を奪われ恐怖を感ずるとき、私たちはこんな言葉を発するのです。 「…荒れ野で死ぬよりはエジプト人に仕える方がましです」 闇がエジプト全土を覆いつくしたとき、主はご自身の愛する民のところにだけは光を与えてくださいました。エジプトを出発したあと、不安な夜道では、主の愛する民の前を火の柱は離れることなく「あり」ました。 たとえ、闇が私たちを覆いつくそうとしたとしても、私たちが闇に気を取られるのではなく、闇を裂く前を行く火の柱に目を向けるとき、闇の中でも私たちは迷わず進むべき方向に進むことができるのです。 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、...