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【調べ学習】右と左という意味のヘブライ語

 日本語の聖書を読んでいていつも気になっていたのは神さまの右の手という言葉です。     主よ、あなたの右の手は力に輝く。 主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。 出エジプト記15章6節(聖書協会共同訳) 右の手ということではなくとも、羊は右で山羊は左という話があったり、 イエスさまはどこにお座りになっているのかと言えば 父なる神の右ということで 「右」というものはなにか特別な感じがします。 上の出エジプト記15章6節の「右の手」という言葉は יָמִין  Strong's Hebrew 3225 ヤミンです。   あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう。創世記13章9節(聖書協会共同訳) 創世記13章のアブラハムとロトの話、右に行くか左に行くかという話ではロトが右に行ったような気がしますが、単なる「右」ではなく、「右を選んで行く」という単語もあって、それは   יָמַן  Strong's Hebrew 3231 ヤマンです。   イザヤ書の30章21節の   あなたが右に行くときも、左に行くときも あなたの耳は、背後から 「これが道だ、ここを歩け」と語る言葉を聞く。(聖書協会共同訳)   に登場する「右に行く」は  אָמַן  Strong's Hebrew 541 アマンです。 ちなみにアーメンはアマンと同じ文字列です。 אָמֵן  Strong's Hebrew 543 そういえば、英語で右のことをrightといいますが、rightとは右であると同時に、正しいという意味でもありますよね。何か関係があるのでしょうか。   ヤマン、アマン、アーメン これらに共通して含まれている文字列は מן  Strong's Hebrew 4478 天から降ってきた「マナ」です。what?でもありますが。         じゃあ左は? 創世記13章9節 あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私...

【調べ学習】s音とsh音は大違い

食器棚にヘブライ語の創世記1章1節を書いた紙を貼りつけてあります。 2年前、日本語の聖書しか知らなかったころには、聖書を読むと、その都度「段落」が、「文」が、そしてそれぞれの「単語」が、自分の経験したことのある何がしかと、結び付けられるか置き換えられるか、ということを瞬間的に考えて、「わかった」「理解できた」と思っていました。 たとえば、創世記1章1節を読んだときには、 はじめに神は天と地とを創造された。 「はじめに」と書いてあったら「終わりではなく最初のあたりに」 「神は」と書いてあったら「目には見えないけれど何かパワーを持った存在は」 「天と地を」と書いてあったら「空と大地を」 「創造された」と書いてあったら「誰も作ったことのないものを初めて作った」 という具合。 自分なりの言い換え、言葉の置き換え、辞書的な理解 で、ストーリーの流れを追っていく。 なんとかという名前の人が登場して、その人が何をやってどうなった、それを知る、そういう読み方をしていました。 で、わからない「ことば」に出会ったら、辞典を見るか注解書を見るか。 注解書を見るあたりで、「かなり勉強した、理解できた」という気分になって、「あとは実生活にどう適用していくか」と考えていました。 が、ヘブライ語を眺めるようになって1か月もたたずに気付いたのは、 ヘブライ語聖書は、日本語の単語を対応させただけでは翻訳しきれない部分を持っているということです。 「そりゃあなた、古代の言語としてまだまだ未知の部分があるのだから訳しきれないでしょう」 と言われるかもしれませんが、私の言いたいのはそういうことではないのです。 今朝も台所で「創世記1章1節」のヘブライ語を眺めていて、 もう2年間もこの一文を毎日毎日眺めて台所仕事を続けているのですが、 文字を眺めていて「今朝」思いついたことは、 (シャマイムって、シェムが入ってるんだ。え、シェムって一文字足したらシャマァ、シェマァだわ。あ、それに、シュムでもあるんだ。)ということでした。 そういうようなことを見るたびにいろいろ思わされるわけです。 【今朝の私の脳内】   シャマイムとは שָׁ מַיִם で、シェムとは שֵׁ ם そして、シャマァとは שָׁ מַע そしてシュムは שֻׁ ם   シャマイムという...

【調べ学習】悔いているのか、いないのか

神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。 コリント人への第二の手紙7章10節(口語訳)     今日はⅡコリ7:10をコンコルダンス等で調べます。 怖さと恥ずかしさで誰にも言えませんでしたが、40年前から何度読んでもわからなかった箇所です(笑) まあ、前からの流れを読みとれば言いたいことをつかめないこともないし、パウロの言葉はトーラーの注解なのだ、と考えればそれほど深刻にならなくても?よいのですが、「悔いのない救を得させる悔改め」という日本語、わかりにくすぎやしませんか? 口語訳はきっと古いからわかりにくい日本語なんだわ、と思って聖書協会共同訳聖書を開いてみましたが、   神の御心に適った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ、この世の悲しみは死をもたらします。 (;´Д`A ```   「神の御心に適った悲しみ」は「救いに至る悔い改めを生じさせ」るということはわかるのですが、「悔いのない」という語はどこにかかるのでしょう。口語訳から聖書協会共同訳となり、変更されたのは「悔いのない」という言葉の後の「、」です。ここに「、」が付いたということは「悔いのない救い」と読んではいけないということでしょうか? だとすると「悔いのない」は「救いに至る悔い改め」にかかるということですか? 「救いに至る悔い改め」という言葉は「悔い改め」という行為が「救いに至らせるもの」であることの説明で・・・「救いに至る」は「悔い改め」を修飾しているわけですよね?・・・じゃあ修飾語をそぎ落として骨組みだけ残したら「悔いのない悔い改め」になっちゃいますよね・・・ 悔いのない救いであっても悔いのない悔い改めであっても良いですが・・・ ・・・いや、全然良くないですよ。意味わからない。   なので、まずギリシャ語を調べました。 「悔い改め」はStrong's Greek 3341  μετάνοια ですが、 これは「悔い改め」ですから、クリスチャンとして意味は分かります。 問題は「悔いのない」と日本語に訳し続けられている言葉です。   「悔いのない」に該当するギリシャ語は  Strong's Greek 278  ...