2025年3月27日木曜日

箴言30章2節を読んでみた 

 כי בער אנכי מאיש ולא בינת אדם לי׃

箴言30章2節を眺めようと思います。(本日も日本語の聖書は特に断らないときは口語訳聖書から引用しています。)
まず出だしのכי
自分にとって、この言葉を一番印象深く記憶させられたのは創世記。
たびたび出てくるכי טובキ トウブという言葉です。
神さまがご自身でお造りになられたものをご覧になって「はなはだ良い」とおっしゃっているあのところがכי טובキ トウブで、何度も何度も繰り返し現れるこのセリフ、何度も何度も眺めているうちに、私の脳内ではエクスクラメーションマーク付きの喜びに満ちた「キィ~ト~ブ」という声になっていきました。そして、やがては「マジでこれいいじゃん最高~!」という日本語の感情が心の中に現れるようになり・・・
というכיキが二節の頭にあります。
そして
二つ目の単語はこれです。
בערバアル
昨日の記事には見落としゆえに書いてありませんがバアルですから[au]という音を持っている単語です。これはバアル神のバアルではありません。バアル神のバアルはבעלと書き、最後の文字がרレーシュではなくלラメドです。

そうそう、רレーシュという言葉を書いて思い出したのですが、
かなり昔、YouTubeの動画か何かでとある講演会の様子を見たことがあったのですが、そのなかで講演者が「文語訳のエゼキエル書の38章にはロシアが出てくる」と話されていて
なんだなんだ?と思ったので文語の聖書を見たらエゼキエル書38章の2節と3節にこう書いてあったわけです。

38:2
人の子よロシ、メセクおよびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグに汝の面をむけ之にむかひて預言し

38:3
言べし主ヱホバかく言たまふロシ、メセク、トバルの君ゴグよ視よ我なんぢを罰せん
ロシというのがロシアだとその講演者は言っていたのです。
で、ヘブライ語聖書にアクセスできる今となり、この箇所をヘブライ語で見ると
ロシはこう書いてあって
ראשロシュ
BIBLE HUBでStrong'sの辞書を見ると

Usage: 
ヘブライ語の「ロシュ」は、主に人や動物の「頭」を意味しますが、比喩的にグループの「長」や「リーダー」、山の「頂上」や「頂上」、一連のものの「始まり」や「最初」を意味することもあります。これは、物理的および比喩的な卓越性や優位性を伝えるために使用される多目的な用語です。

 Cultural and Historical Background:

古代近東文化では、「頭」(ロシュ) の概念はリーダーシップや権威と関連付けられることが多かった。頭は知性と意思決定の座であると考えられており、そのため「ロシュ」はリーダーシップと階層構造を象徴するようになりました。イスラエル社会では、当時の家父長制を反映して、部族や家族の「長」が大きな権威と責任を担っていました。
で、もしかしたらロシアという国名にロシュ「リーダー」という概念があるのかもしれないと思って調べてみましたがWikipediaにはこうあって
ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)
で、ルーシという言葉の意味は「舟をこぐ人」という説があったりしましたが、はっきりとはわかりませんでした。

だからと言って彼を全否定するつもりはありません。預言書というものは深いので、国名はともかくとして流れとして結果としてそうなるという可能性が無いとは言えないかもしれないからです。
あと、聖書ギリシャ語でローマ(ローマ帝国)のことをῬωμαϊκόςと書くわけですが
最初二文字、つまり、我々の言葉で言うところのカタカナの「ロ」ですね、なんか気になります。ロシアもローマも「ロ」で、Rの音ですよね。ヘブライ語のרレーシュもRというか巻き舌で発音するような気がしますが・・・あれ、ロシア語も巻き舌だったような気が・・・
・・・Rの付くロシア語を探していたら、魚という単語が英語のアルファベット表記だとRybaリバだということがわかり、でも発音がわからなくて・・・と、そこにウクライナ語の魚が現れて、それは英語のアルファベットで表記するとRibaリバで、
ご時世なのか、こちらは発音がすぐわかり巻き舌でしたよ!
1900年以前は、旧ソ連にユダヤ人はたくさん住んでいた・・・というか、地続きですからねえ、フェニキア文字を眺めてもいろいろ思いますし、
そう、エロヒムの語尾のイムは絶対複数ではないと、実はヘブライ語など全く知らない時代から強く思いこんでいたのですが、なぜそういう発想になったのかというと、教会に通っていた頃に経験させていただいた韓国人クリスチャンたちの表現
韓国語で聖書の神さまのことを「하나님」と言う、とことを知ったからなのです。韓国語におけるイムという音のもつ意味やそれを話す人の気分を知った時に、
大陸だからきっとどこかでつながってる、だから絶対複数ではない、と、感じたのです。

「感じた」と書きながら思いましたが、
これがAIにはできない事ですね(笑)
データから論理的に推測する事は出来ても無から有は生み出せない。
われわれ人間は、創造主の被造物は無から有を生み出せる。
え?材料が無ければ作れない?
いやいや、רֹאשׁロシュ頭 にはできる。
無限に広がる大海原、何にもないように見えるけれども、釣り糸を垂れていると、ぼうずの日もあるけれどもポンと魚が現れることもある、
大海原が大脳であり、釣り糸を垂れる行為が思考であると私は考えておりますが
大海原のようないくらでも何かが出てきそうな、大きな可能性を秘めたコンピュータどころではないものを私たち人間は神さまから与えられている。

だから、「思い込みで」
小さい頃から刷り込まれた「勝手な決めつけで」
自分の限界を決めて思考することを放棄してはいけないし

洗脳のような宗教は 
それがたとえユダヤ教であれキリスト教であれ
創造主が好まれるところではないのだ、と思っています。



(。´・ω・)ん?
あれ、何の話してたんだっけな。

(加齢なのか病なのか、最近は舟をこぎ出すと止まれなくなって見知らぬ異国でわれに返るというようなことが多々ございます。失礼いたしました)




あ、30章2節の二つ目の単語
בערバアル。(;´Д`A ```
これは「燃やす」「燃える」という意味があります。そして、「燃やして除去する、取り除く」という意味があります。
神さまの義のゆえに不純物を除去するというような重い意味です。


そういう意味から、「取り除きたくなってしまうような人々」のことを表現するときにも、わずかですが、使っている気配を感じます。

口語訳聖書 詩篇94:8では「愚かで、心が鈍く、受け入れがたい」
民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
口語訳聖書 エゼキエル21:31「非人間的で残酷で野蛮な人々」
わたしの怒りをあなたに注ぎ、わたしの憤りの火をあなたに向けて燃やし、滅ぼすことに巧みな残忍な人の手にあなたを渡す。


続いて三つめの単語

אנכיアノキ

これは「わたし」という意味の単語です。

「わたし」という意味の単語にはこのアノキともう一つאֲנַיアニというのがあるわけですが、

ヘブライ語聖書で「わたし」という言葉が登場するのは、アニにしろアノキにしろたいてい重い場面のような気がします。重大な局面において登場人物が語る「わたし」という言葉なのです。
物事の責任の所在をはっきりしているというか、出来事の関係者を際立たせるというか、そういう場面で登場人物が語るのが「わたし」という言葉のように思っています。

特にアノキについてはכカフ(手のひらでつかむような感じ)が付いている分アニよりも重い感じがしていたのですが、それは私だけの感想かもしれないので調べてみます。

BIBLE HUBで見られる
Brown-Driver-Briggsでは

ヘブライ語以外のセム語族の言語では、どちらかが残ってどちらかが消えるということになったけれども、ヘブライ語ではアニとアノキ両方が共存した状態で、場合によっては区別なく使われることもある、というようなことが書いてありました。



で、Brown-Driver-Briggsが言及してたのは、
ある部分では「rhythmical considerations」リズム上の考慮によって、
または後代の各書の作家たちの間でאֲנִיが好まれるようになったことによって云々・・・

と「言っている人がいる」という話。

ヘブライ語聖書におけるリズム上の考慮というのはものすごく感じます。そらんじるための配慮もあるのでしょうか。
そういうことを考えると、

私は例えば脱力系ラップのジョイマンがとても好きなのですが、彼らのネタを直訳したらよくわからないというのと同じような現象がヘブライ語聖書でも起こっている可能性は高いですね。

(と言われてもわからない人が多数いそうな私の文章(;´Д`A ```)



せっかくなので今日は少し丁寧にアノキの用例を見てみようと思います。
トーラーのすべては大変なので、今日は聖書ヘブライ語の教科書のようにすら思えるベレシート「創世記」から拾います。


聖書の中で初めて登場するアノキは創世記3章10節のところで

彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

アダムが神さまに弁解をする場面。日本人が読むとたぶんこの「わたしは」という言葉に重さは感じないと思うわけですが、「場面」を考えると相当重いわけです。


そして二度めにアノキが使われているのは創世記4章9節のところで

主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

 


三度めは創世記7章4節、神さまがノアに洪水のことを伝える場面。

七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。


 

四度目と五度目は神さまがアブラハムに現れてくださる場面で

創世記15章1節

これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。

創世記15章2節

アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。

 

 六度目はサライ七度目はハガル
アノキを追っていくと、聖書の重要人物が次々に登場します。

というか、ここで書いているアノキの登場箇所はコンコルダンスを見ながらもれなく書いておりますので、これ以外のところにはアノキは登場していないのだ、ということは是非記憶してください。アノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。

では続けます。


創世記16章5節

そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。

創世記16章8節

そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。


八度目はソドムとゴモラを滅ぼす話題のところで、アブラハムが神さまとやり取りをしている場面です。

創世記18章27節

アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。

九度目はロトの言葉です。

創世記19章19節

しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。

十度目と十一度目はアビメレクに対する神さまの御言葉の中にありました。

(書きながら気づいた「日本語の」ことですが、「何度目」という言葉は英語でteenが付く数字になるあたりからはあまり言ったことがない感じがしますwそこまで度々になると数えないw私だけの印象かな。
あ、あとアビメレクという名前はアブ(父)とメレク(王)という言葉が合体した名前です余談です)

創世記20章6節

神はまた夢で彼に言われた、「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。

十二度目と十三度目はアブラハムとアビメレクのやり取りの中でのそれぞれの言葉の中に登場します。

創世記21章24節

アブラハムは言った、「わたしは誓います」。

創世記21章26節

しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。

十四度目はアブラハムがサラを葬るために土地を購入する場面

 創世記23章4節

わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。

そして創世記24章にはアノキが9回も登場します。(何度目か数えるのが大変になりましたので以降御言葉の引用のみといたしますww)

創世記24章3節

わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。

創世記24章13節

わたしは泉のそばに立っています。町の人々の娘たちが水をくみに出てきたとき、

創世記24章24節

彼女は彼に言った、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」。

 創世記24章27節

言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。

 創世記24章31節

そこでその人に言った、「主に祝福された人よ、おはいりください。なぜ外に立っておられますか。わたしは家を準備し、らくだのためにも場所を準備しておきました」。

創世記24章34節

そこで彼は言った、「わたしはアブラハムのしもべです。

創世記24章37節

ところで主人はわたしに誓わせて言いました、『わたしの住んでいる地のカナンびとの娘を、わたしの子の妻にめとってはならない。 

創世記24章42節

わたしはきょう、泉のところにきて言いました、『主人アブラハムの神、主よ、どうか今わたしのゆく道にさいわいを与えてください。

創世記24章43節

わたしはこの泉のそばに立っていますが、水をくみに出てくる娘に向かって、「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と言い、

創世記25章22節

ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。


創世記25章30節

エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。

創世記25章32節

エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。

 

創世記26章24節

その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。

創世記27章11節

ヤコブは母リベカに言った、「兄エサウは毛深い人ですが、わたしはなめらかです。

創世記27章19節 口語訳聖書ではアノキが省略されています。「長子エサウ」という言葉の前に「わたしは」という言葉がヘブライ語聖書にはあります。

ヤコブは父に言った、「長子エサウです。あなたがわたしに言われたとおりにいたしました。どうぞ起きて、すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください」。

 創世記28章15節

わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

創世記28章16節

ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

創世記28章20節

ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、


創世記29章33節 

彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。

שִׁמְעוֹןシメオンという名前の綴りの中はשָׁמַעシャマ=聞くという単語が含まれています。あと、この節には謎ワード ליが含まれています。ליはこの箴言30章2節にも2回あり、しかもStrongの辞書の中で番号もつけられていない言葉であるため、同じ謎ワード仲間である853番のようBIBLE HUBを利用できないので、後日検討するためにピックアップしておこうと思い、あえてここで言及しました。

創世記30章1節

ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。

創世記30章2節

ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。

創世記30章3節

ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。

創世記30章30節

わたしが来る前には、あなたの持っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました。主はわたしの行く所どこでも、あなたを恵まれました。しかし、いつになったらわたしも自分の家を成すようになるでしょうか」。

 創世記31章5節

彼女らに言った、「わたしがあなたがたの父の顔を見るのに、わたしに対して以前のようではない。しかし、わたしの父の神はわたしと共におられる。

 創世記31章13節

わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。

べテルとはベツレヘムのベツ(家)とエロヒムのエル(神さま)をあわせた言葉で
神の家という意味

創世記31章38節

わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。

創世記31章39節 後半にある「わたし」と前半の「自分」あわせて一つのアノキ

また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。

創世記32章11節(新共同訳では12節)これはヤコブの祈りの箇所です。

どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。

創世記37章16節 「兄弟たちを探している」の前にヘブライ語聖書では「わたしは」という言葉があります。

彼は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてください」。

創世記38章17節 ヘブライ語聖書では「群れの中から子山羊を送ろう」の主語としてアノキがあります。

ユダは言った、「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」。彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。

創世記38章25節

彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。

創世記43章9節

わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。

創世記46章4節 日本語にはありませんが「また必ずあなたを導き上るであろう」というところの主語としてアノキという言葉が書いてあります。

わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。

創世記47章30節 日本語にはありませんが「あなたの言われたようにいたします」というところの主語としてアノキという言葉があります。

わたしが先祖たちと共に眠るときには、わたしをエジプトから運び出して先祖たちの墓に葬ってください」。ヨセフは言った、「あなたの言われたようにいたします」。

創世記48章21節

イスラエルはまたヨセフに言った、「わたしはやがて死にます。しかし、神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。

創世記50章5節

『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます』」。

創世記50章21節

それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。

創世記50章24節

ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。


かなり長くなりましたが、

アノキとはそういうところに登場する言葉なのだ、という事を踏まえた上で

כי בער キ バアル

のあとに

אנכיアノキが来るという事を考えましょう。

上の方にも書きましたが

Englishman's Concordanceによるとアノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。

そう、謎ワードなのでスルーされ訳されてもいないStrong’s Hebrew 853番は一万回以上登場するわけですからねwww それを考えればかなり少ない言葉で、

後世の作家の好み云々ということがあったからそうなったのだとしても、

やはりアノキと書くときには、平常とは異なる「何らかのストレス」がかかる言葉のような気がするわけです。創世記では主要な登場人物の語る重いアノキが多数みられましたし。

で、わたしとしては

出エジプト記20章2節

わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。

 אנכי יהוה אלהיך אשר הוצאתיך מארץ מצרים מבית עבדים׃

このアノキ、この使われ方こそがトーラーのアノキ(テーラーのアオキではないww言いたくてしょうがなかった私の脳)だとわたしは思っています。

いま、自分の言葉にわざと「わたしわたし」と連発しました。気分はアノキw


この重量感をおぼえつつ、1節の「重い預言」=託宣という言葉を踏まえて訳すならば

כי בער キ バアルは、


「馬鹿だ」と言っているというより「燃やして除去する、取り除く」という滅びの預言、予告の方がより適切なのではないかと思います。

そして、そのあとにくる

אנכיアノキは、

宣告や契約を語っている人の言葉であり

つまりは「神さまご自身」がご自身を指して語っている言葉であろう、と私は思います。

という思いを持って翻訳聖書を読んでみましょうか。


まずは口語訳聖書

箴言30章2節より
わたしは確かに人よりも愚かであり、・・・


続いて聖書協会共同訳
箴言30章2節
私は誰よりも愚かで・・・



なぜ、重い預言と一節で語った直後のアノキという言葉を伴ったキ・バアルが「私は馬鹿である」という告白であるのかしら、と、「わたしは」疑問を感じずにはいられません。


少なくとも1節の訳を「マサ」だの「マッサ」だのとせずに「託宣」と訳した翻訳者は、託宣という言葉の直後に
「わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。」
という弁解めいた言葉を選択してしまう事に対する違和感を感じてほしいと思います。
託宣がまだ語られているわけでもいないのに、託宣を受け取る側の人がいきなり登場して「私は誰よりも愚かだ」言うという発想はどうもわからない。
100歩譲って、これが託宣の受け手ではなく与える側が発している始まりのことばだということだとしても
そうだとしたらこの愚かな「私」という人は託宣を告げる側の人だということになりますよね。
としたら神さまがご自分を愚かだとおっしゃっているのですか?


基本に立ち返ります。
創世記1章1節を眺めてみましょう。
בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃
初めに、造ったよ、神さまが、天と、地を

という順番で単語が配置されていることがわかります。
つまり、動詞というか述語というかそういうものが主語の前にある
のがヘブライ語聖書における一般的な語順です。なので、

כי בער אנכי
と書いてあった場合も、まずは述語があってそのあとに主語が来るわけです。
しかもここにはキ・トウブでおなじみのכיがあるわけです。
託宣だと言ったはじめのワードがכיだったとしたら、そのあとの言葉を強めていると気付きます。
だとしたら、述語בערは少数派の「愚か」をわざわざ充てず本来の意味である「火で燃やして浄化する、取り除く」ということだと考えた方がよいのではないでしょうか。
「燃やして取り除くよ」「わたしはね」

聖書らしい感じで訳すとしたら、
「私は必ずあなたを火をもって取り除く」

キ・推奨します アノキ(私はマジでこちらを推奨しますw)



…次に行きます。四文字目
מאישメ・イシュ
אישイシュが「男性」のことで、それにמメムが付いた形です。
このメムの付いたイシュが聖書の中に初めて登場するのは創世記2章23節です。
女をאשהイシャと呼ぶのは、איש男から取られたからだ、という説明が書かれているところです。
「男から」というところがמאישメ・イシュです。つまり、מメムは「~から」と訳すのが多数派、標準のようです。

コンコルダンスでチェックすると、箴言19章22節とかイザヤ書52章14節では「他人との比較をする」ニュアンスでמメムをとらえていて、
そういう思想で箴言30章のここも「人よりも愚か」という感じで訳されているようです。


ただ、כי בער אנכי
この訳を「燃やして取り除くよ」「わたしはね」と言っているということにすると
どこから取り除くの?何を取り除くの?という部分が文として不足しているわけですから、
そうなるとמאישメ・イシュを標準的に「男から」と訳すとしっくりきます。

おまえを「男から」取って 燃やして除くよ わたしはね

聖書らしい感じで書くと
「私は必ずおまえのいるところからおまえを火をもって取り除く」
という感じでしょうか。
やはり直訳しないとあいまいになってしまいますね

しかし、この内容であれば

1節で「重い預言=託宣」と言ったことに呼応しているというか
託宣の最も重要な部分を一番最初に宣言している風になります。


後半部分に行きます。

ולא בינת אדם לי


ולאヴェ・ロー
固く結びつける接続詞andのようなוヴァヴと、
禁止のלאローです。
וヴァヴは直前の語か前半全体かわかりませんが、とにかく後半部分を前に合体させる働きをしているはずです。
直前に合体させるなら「男から」の「男」で、
前半全体と合体させると考えると、「燃やして取り除く」に加えるということになりますね。
基本に立ち返って確認しておくべきことは、לאローとは強い否定や禁止をするときに使われる語であるということです。
十戒の「~してはならない」というところに使われているということを
「禁止」のニュアンスの理解のベースにすべきだと思います。
そして、強い否定ですが、
例えば、
ノアが一度目に鳩を放し時には足を休める所を全く見つけることができなかったので戻ってきてしまったが七日経って放したら二度と戻ってこなかった
という内容の創世記8章9節と12節の箇所で、太字にしたような意味合いの部分に
לאローが使われています。

では箴言30章2節において
לאローの次の単語は何かということになりますが
בינתビナト 
もともとの形はבינהビナハで理解力、洞察力、識別力という意味の名詞です。

לאローは禁止だとしても否定だとしても、内容は「動詞」になるような気がしますがどうでしょう。
バナナ禁止!チョコ禁止!チョコバナナ禁止!という日本語があったとして、
これは一見すると名詞を禁止しているわけですが、
「持ち込む」「食べる」というような動詞が隠されているような気がする
というような事を考えるわけです。

「理解する」という意味の動詞もヘブライ語にはあり
ביןビン といいますが、
箴言30章2節のלאローの後にあるのはביןビンではなくבינתビナトと言う名詞。
もう一言付け加えるならば、
実はבינתビナトという名詞はこの箴言30章2節だけに登場する言葉なのです。

1節に引き続き、練られた文、凝った文、なのだと思います。

で、בינתビナトの後にあるのはאדםアダムです。
そう、あのアダム、人間という意味です。これも名詞です。
一体何を否定しているのでしょう。

そして最後に登場するのは
לי
上の方にも書きましたが、辞書に載っていない謎ワードですよ。(笑)
謎だからスルーしますか?そう、謎ワードだから翻訳されていないようです。
翻訳されていないと言うと言葉が悪いですか。
・・・なんとな~くそれっぽく訳しているのだと思いますが
実はこの単語、箴言30章には、よりによって2度も登場するんです。
2節と8節にあります。


そんなこんなで、לאローの行き場がないものだから、
BIBLE HUBで対訳を見ると
בינתビナトをdo have the understandingと訳している。

口語訳聖書では「わたしには人の悟りがない。」
そして聖書協会共同訳では「人間としての分別もない。」と訳されている。


לאローの禁止もしくは否定の行き場がもしかして謎ワードליだったらどうしましょ。
ליたぶん、リイと読むような気がするこの謎ワード
動詞かもしれませんよ。
だって・・・
牛追いの棒でぐいぐいと神さまの右の御手の方に押して教育している感じが文字から読み取れる。
神さまの右の御手と言えば御救い、または御業。
もしかしたら、ליって、御救いについて御業について学ぶという動詞なのでは?
לאローが禁止の意味を持つのは、לラメドという牛追いの棒でぐいぐいと押して学ばせようとしている先に
父なる神さまאがおられる。
つまり、王であられる神さまの御言葉=トーラー に学ぶことだから、
結果として人間にとっては禁止のような意味合いになっていくのだと私は理解しているのですが、
その方法で解釈するとליは「右の御手」יヨッドの方に牛を追っていくのだから
神さまの右の手による御業、御救いを学ぶという動詞かもしれません。

そしてここにしか登場しないというבינתビナトは、完全とか完成されたという意味のתタブが最後に付いているということで
1節の完全無欠だと自分で思っている男לאיתיאל לאיתיאלが思い出されます。


この仮説に立つと、לאローの否定する先にあるのはליで、
「神さまの御業や御救い学ぶ」ということを強く否定しているのかな。
とするとこうなりますね


おまえを男から取って 燃やして除くよ わたしはね
そして神さまの御手の御業も御救いも学ぶことのない 完璧な理解力の 人間



私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く

完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

(思い込みと意訳が過ぎたかなw)