כי בער אנכי מאיש ולא בינת אדם לי׃
箴言30章2節を眺めようと思います。(本日も日本語の聖書は特に断らないときは口語訳聖書から引用しています。)たびたび出てくるכי טובキ トウブという言葉です。
昨日の記事には見落としゆえに書いてありませんがバアルですから[au]という音を持っている単語です。これはバアル神のバアルではありません。バアル神のバアルはבעלと書き、最後の文字がרレーシュではなくלラメドです。
かなり昔、YouTubeの動画か何かでとある講演会の様子を見たことがあったのですが、そのなかで講演者が「文語訳のエゼキエル書の38章にはロシアが出てくる」と話されていて
38:2人の子よロシ、メセクおよびトバルの君たるマゴグの地の王ゴグに汝の面をむけ之にむかひて預言し38:3言べし主ヱホバかく言たまふロシ、メセク、トバルの君ゴグよ視よ我なんぢを罰せん
ראשロシュ
ヘブライ語の「ロシュ」は、主に人や動物の「頭」を意味しますが、比喩的にグループの「長」や「リーダー」、山の「頂上」や「頂上」、一連のものの「始まり」や「最初」を意味することもあります。これは、物理的および比喩的な卓越性や優位性を伝えるために使用される多目的な用語です。
Cultural and Historical Background:
古代近東文化では、「頭」(ロシュ) の概念はリーダーシップや権威と関連付けられることが多かった。頭は知性と意思決定の座であると考えられており、そのため「ロシュ」はリーダーシップと階層構造を象徴するようになりました。イスラエル社会では、当時の家父長制を反映して、部族や家族の「長」が大きな権威と責任を担っていました。
ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシャ語名Ῥωςから派生したῬωσσία(現代ギリシャ語ではΡωσία)
・・・Rの付くロシア語を探していたら、魚という単語が英語のアルファベット表記だとRybaリバだということがわかり、でも発音がわからなくて・・・と、そこにウクライナ語の魚が現れて、それは英語のアルファベットで表記するとRibaリバで、
そう、エロヒムの語尾のイムは絶対複数ではないと、実はヘブライ語など全く知らない時代から強く思いこんでいたのですが、なぜそういう発想になったのかというと、教会に通っていた頃に経験させていただいた韓国人クリスチャンたちの表現
韓国語で聖書の神さまのことを「하나님」と言う、とことを知ったからなのです。韓国語におけるイムという音のもつ意味やそれを話す人の気分を知った時に、
大陸だからきっとどこかでつながってる、だから絶対複数ではない、と、感じたのです。
データから論理的に推測する事は出来ても無から有は生み出せない。
われわれ人間は、創造主の被造物は無から有を生み出せる。
創造主が好まれるところではないのだ、と思っています。
民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
わたしの怒りをあなたに注ぎ、わたしの憤りの火をあなたに向けて燃やし、滅ぼすことに巧みな残忍な人の手にあなたを渡す。
続いて三つめの単語
אנכיアノキ
これは「わたし」という意味の単語です。
「わたし」という意味の単語にはこのアノキともう一つאֲנַיアニというのがあるわけですが、
ヘブライ語聖書で「わたし」という言葉が登場するのは、アニにしろアノキにしろたいてい重い場面のような気がします。重大な局面において登場人物が語る「わたし」という言葉なのです。
物事の責任の所在をはっきりしているというか、出来事の関係者を際立たせるというか、そういう場面で登場人物が語るのが「わたし」という言葉のように思っています。
特にアノキについてはכカフ(手のひらでつかむような感じ)が付いている分アニよりも重い感じがしていたのですが、それは私だけの感想かもしれないので調べてみます。
BIBLE HUBで見られる
Brown-Driver-Briggsでは
ヘブライ語以外のセム語族の言語では、どちらかが残ってどちらかが消えるということになったけれども、ヘブライ語ではアニとアノキ両方が共存した状態で、場合によっては区別なく使われることもある、というようなことが書いてありました。
で、Brown-Driver-Briggsが言及してたのは、
ある部分では「rhythmical considerations」リズム上の考慮によって、
または後代の各書の作家たちの間でאֲנִיが好まれるようになったことによって云々・・・
と「言っている人がいる」という話。
ヘブライ語聖書におけるリズム上の考慮というのはものすごく感じます。そらんじるための配慮もあるのでしょうか。
そういうことを考えると、
私は例えば脱力系ラップのジョイマンがとても好きなのですが、彼らのネタを直訳したらよくわからないというのと同じような現象がヘブライ語聖書でも起こっている可能性は高いですね。
(と言われてもわからない人が多数いそうな私の文章(;´Д`A ```)
せっかくなので今日は少し丁寧にアノキの用例を見てみようと思います。
トーラーのすべては大変なので、今日は聖書ヘブライ語の教科書のようにすら思えるベレシート「創世記」から拾います。
聖書の中で初めて登場するアノキは創世記3章10節のところで
彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
アダムが神さまに弁解をする場面。日本人が読むとたぶんこの「わたしは」という言葉に重さは感じないと思うわけですが、「場面」を考えると相当重いわけです。
そして二度めにアノキが使われているのは創世記4章9節のところで
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。
三度めは創世記7章4節、神さまがノアに洪水のことを伝える場面。
七日の後、わたしは四十日四十夜、地に雨を降らせて、わたしの造ったすべての生き物を、地のおもてからぬぐい去ります」。
四度目と五度目は神さまがアブラハムに現れてくださる場面で
創世記15章1節
これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
創世記15章2節
アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
六度目はサライ七度目はハガル
アノキを追っていくと、聖書の重要人物が次々に登場します。
というか、ここで書いているアノキの登場箇所はコンコルダンスを見ながらもれなく書いておりますので、これ以外のところにはアノキは登場していないのだ、ということは是非記憶してください。アノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。
では続けます。
創世記16章5節
そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。
創世記16章8節
そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。
八度目はソドムとゴモラを滅ぼす話題のところで、アブラハムが神さまとやり取りをしている場面です。
創世記18章27節
アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
九度目はロトの言葉です。
創世記19章19節
しもべはすでにあなたの前に恵みを得ました。あなたはわたしの命を救って、大いなるいつくしみを施されました。しかしわたしは山まではのがれる事ができません。災が身に追い迫ってわたしは死ぬでしょう。
十度目と十一度目はアビメレクに対する神さまの御言葉の中にありました。
(書きながら気づいた「日本語の」ことですが、「何度目」という言葉は英語でteenが付く数字になるあたりからはあまり言ったことがない感じがしますwそこまで度々になると数えないw私だけの印象かな。
あ、あとアビメレクという名前はアブ(父)とメレク(王)という言葉が合体した名前です余談です)
創世記20章6節
神はまた夢で彼に言われた、「そうです、あなたが清い心をもってこのことをしたのを知っていたから、わたしもあなたを守って、わたしに対して罪を犯させず、彼女にふれることを許さなかったのです。
十二度目と十三度目はアブラハムとアビメレクのやり取りの中でのそれぞれの言葉の中に登場します。
創世記21章24節
アブラハムは言った、「わたしは誓います」。
創世記21章26節
しかしアビメレクは言った、「だれがこの事をしたかわたしは知りません。あなたもわたしに告げたことはなく、わたしもきょうまで聞きませんでした」。
十四度目はアブラハムがサラを葬るために土地を購入する場面
創世記23章4節
「わたしはあなたがたのうちの旅の者で寄留者ですが、わたしの死人を出して葬るため、あなたがたのうちにわたしの所有として一つの墓地をください」。
そして創世記24章にはアノキが9回も登場します。(何度目か数えるのが大変になりましたので以降御言葉の引用のみといたしますww)
創世記24章3節
わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。
創世記24章13節
わたしは泉のそばに立っています。町の人々の娘たちが水をくみに出てきたとき、
創世記24章24節
彼女は彼に言った、「わたしはナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です」。
創世記24章27節
言った、「主人アブラハムの神、主はほむべきかな。主はわたしの主人にいつくしみと、まこととを惜しまれなかった。そして主は旅にあるわたしを主人の兄弟の家に導かれた」。
創世記24章31節
そこでその人に言った、「主に祝福された人よ、おはいりください。なぜ外に立っておられますか。わたしは家を準備し、らくだのためにも場所を準備しておきました」。
創世記24章34節
そこで彼は言った、「わたしはアブラハムのしもべです。
創世記24章37節
ところで主人はわたしに誓わせて言いました、『わたしの住んでいる地のカナンびとの娘を、わたしの子の妻にめとってはならない。
創世記24章42節
わたしはきょう、泉のところにきて言いました、『主人アブラハムの神、主よ、どうか今わたしのゆく道にさいわいを与えてください。
創世記24章43節
わたしはこの泉のそばに立っていますが、水をくみに出てくる娘に向かって、「お願いです。あなたの水がめの水を少し飲ませてください」と言い、
創世記25章22節
ところがその子らが胎内で押し合ったので、リベカは言った、「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」。彼女は行って主に尋ねた。
創世記25章30節
エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。
創世記25章32節
エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
創世記26章24節
その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
創世記27章11節
ヤコブは母リベカに言った、「兄エサウは毛深い人ですが、わたしはなめらかです。
創世記27章19節 口語訳聖書ではアノキが省略されています。「長子エサウ」という言葉の前に「わたしは」という言葉がヘブライ語聖書にはあります。
ヤコブは父に言った、「長子エサウです。あなたがわたしに言われたとおりにいたしました。どうぞ起きて、すわってわたしのしかの肉を食べ、あなたみずからわたしを祝福してください」。
創世記28章15節
わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
創世記28章16節
ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
創世記28章20節
ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
創世記29章33節
彼女はまた、みごもって子を産み、「主はわたしが嫌われるのをお聞きになって、わたしにこの子をも賜わった」と言って、名をシメオンと名づけた。
שִׁמְעוֹןシメオンという名前の綴りの中はשָׁמַעシャマ=聞くという単語が含まれています。あと、この節には謎ワード ליが含まれています。ליはこの箴言30章2節にも2回あり、しかもStrongの辞書の中で番号もつけられていない言葉であるため、同じ謎ワード仲間である853番のようBIBLE HUBを利用できないので、後日検討するためにピックアップしておこうと思い、あえてここで言及しました。
創世記30章1節
ラケルは自分がヤコブに子を産まないのを知った時、姉をねたんでヤコブに言った、「わたしに子どもをください。さもないと、わたしは死にます」。
創世記30章2節
ヤコブはラケルに向かい怒って言った、「あなたの胎に子どもをやどらせないのは神です。わたしが神に代ることができようか」。
創世記30章3節
ラケルは言った、「わたしのつかえめビルハがいます。彼女の所におはいりなさい。彼女が子を産んで、わたしのひざに置きます。そうすれば、わたしもまた彼女によって子を持つでしょう」。
創世記30章30節
わたしが来る前には、あなたの持っておられたものはわずかでしたが、ふえて多くなりました。主はわたしの行く所どこでも、あなたを恵まれました。しかし、いつになったらわたしも自分の家を成すようになるでしょうか」。
創世記31章5節
彼女らに言った、「わたしがあなたがたの父の顔を見るのに、わたしに対して以前のようではない。しかし、わたしの父の神はわたしと共におられる。
創世記31章13節
わたしはベテルの神です。かつてあなたはあそこで柱に油を注いで、わたしに誓いを立てましたが、いま立ってこの地を出て、あなたの生れた国へ帰りなさい』」。
べテルとはベツレヘムのベツ(家)とエロヒムのエル(神さま)をあわせた言葉で
神の家という意味
創世記31章38節
わたしはこの二十年、あなたと一緒にいましたが、その間あなたの雌羊も雌やぎも子を産みそこねたことはなく、またわたしはあなたの群れの雄羊を食べたこともありませんでした。
創世記31章39節 後半にある「わたし」と前半の「自分」あわせて一つのアノキ
また野獣が、かみ裂いたものは、あなたのもとに持ってこないで、自分でそれを償いました。また昼盗まれたものも、夜盗まれたものも、あなたはわたしにその償いを求められました。
創世記32章11節(新共同訳では12節)これはヤコブの祈りの箇所です。
どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。
創世記37章16節 「兄弟たちを探している」の前にヘブライ語聖書では「わたしは」という言葉があります。
彼は言った、「兄弟たちを捜しているのです。彼らが、どこで羊を飼っているのか、どうぞわたしに知らせてください」。
創世記38章17節 ヘブライ語聖書では「群れの中から子山羊を送ろう」の主語としてアノキがあります。
ユダは言った、「群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう」。彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。
創世記38章25節
彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。
創世記43章9節
わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。
創世記46章4節 日本語にはありませんが「また必ずあなたを導き上るであろう」というところの主語としてアノキという言葉が書いてあります。
わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。
創世記47章30節 日本語にはありませんが「あなたの言われたようにいたします」というところの主語としてアノキという言葉があります。
わたしが先祖たちと共に眠るときには、わたしをエジプトから運び出して先祖たちの墓に葬ってください」。ヨセフは言った、「あなたの言われたようにいたします」。
創世記48章21節
イスラエルはまたヨセフに言った、「わたしはやがて死にます。しかし、神はあなたがたと共におられて、あなたがたを先祖の国に導き返されるであろう。
創世記50章5節
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます』」。
創世記50章21節
それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。
創世記50章24節
ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。
かなり長くなりましたが、
アノキとはそういうところに登場する言葉なのだ、という事を踏まえた上で
כי בער キ バアル
のあとに
אנכיアノキが来るという事を考えましょう。
上の方にも書きましたが
Englishman's Concordanceによるとアノキは聖書全体で359回しか登場しない言葉なのです。
そう、謎ワードなのでスルーされ訳されてもいないStrong’s Hebrew 853番は一万回以上登場するわけですからねwww それを考えればかなり少ない言葉で、
後世の作家の好み云々ということがあったからそうなったのだとしても、
やはりアノキと書くときには、平常とは異なる「何らかのストレス」がかかる言葉のような気がするわけです。創世記では主要な登場人物の語る重いアノキが多数みられましたし。
で、わたしとしては
出エジプト記20章2節
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
אנכי יהוה אלהיך אשר הוצאתיך מארץ מצרים מבית עבדים׃
このアノキ、この使われ方こそがトーラーのアノキ(テーラーのアオキではないww言いたくてしょうがなかった私の脳)だとわたしは思っています。
いま、自分の言葉にわざと「わたしわたし」と連発しました。気分はアノキw
この重量感をおぼえつつ、1節の「重い預言」=託宣という言葉を踏まえて訳すならば
כי בער キ バアルは、
「馬鹿だ」と言っているというより「燃やして除去する、取り除く」という滅びの預言、予告の方がより適切なのではないかと思います。
そして、そのあとにくる
אנכיアノキは、
宣告や契約を語っている人の言葉であり
つまりは「神さまご自身」がご自身を指して語っている言葉であろう、と私は思います。
という思いを持って翻訳聖書を読んでみましょうか。
まずは口語訳聖書
箴言30章2節よりわたしは確かに人よりも愚かであり、・・・
箴言30章2節私は誰よりも愚かで・・・
少なくとも1節の訳を「マサ」だの「マッサ」だのとせずに「託宣」と訳した翻訳者は、託宣という言葉の直後に
「わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。」
という弁解めいた言葉を選択してしまう事に対する違和感を感じてほしいと思います。
100歩譲って、これが託宣の受け手ではなく与える側が発している始まりのことばだということだとしても
そうだとしたらこの愚かな「私」という人は託宣を告げる側の人だということになりますよね。
אישイシュが「男性」のことで、それにמメムが付いた形です。
そういう思想で箴言30章のここも「人よりも愚か」という感じで訳されているようです。
「禁止」のニュアンスの理解のベースにすべきだと思います。
לאローが使われています。
לאローの次の単語は何かということになりますが
もともとの形はבינהビナハで理解力、洞察力、識別力という意味の名詞です。
これは一見すると名詞を禁止しているわけですが、
実はבינתビナトという名詞はこの箴言30章2節だけに登場する言葉なのです。
父なる神さまאがおられる。
つまり、王であられる神さまの御言葉=トーラー に学ぶことだから、
結果として人間にとっては禁止のような意味合いになっていくのだと私は理解しているのですが、
そして神さまの御手の御業も御救いも学ぶことのない 完璧な理解力の 人間