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高祖父の祈り

2011年の夏に書いた「私の高祖父」という記事の続きです。 血のつながりのあるところで発見した唯一のクリスチャンについて、興味がふくらんだということについては言うまでもなく、あの夏の日以来私は高祖父について調べていました。 調べると言っても、有名人ではありませんし、高祖父と接点のあった人は既に生存しておりませんから、母からの情報から推理していくことしかできませんでしたが。 あらためて母から「祖母」の言葉や行いにおける「キリスト教」にかかわるものを聞いてみて分かったのは まず、 祖母が「自分のおじいさんはクリスチャンで、云々」と言っていたこと。 ここからわかるのは、自分のことをクリスチャンと名乗る宗教であるということです。 私の知人にはプロテスタント、カトリック、そのほか(そのほかってなんだ(;´Д`A ``` の信者がいますが、たまたまなのか、私がプロテスタントだからなのかわかりませんけれどもカトリックの知人たちはご自身のことを「私はカトリック」とおっしゃるので、カトリックではない宗教なのか、という印象を受けました。でも情報としてはかなり弱い。 次に、 2011年の記事にも書きましたが、祖母の口ずさんでいた賛美歌に「主われを愛す」があったということは何か手掛かりになるかも、と思いました。 便利な時代になりこういうことはすぐにネットで検索すれば何かが出てくるわけですが ウィキペディアに 「主われを愛す」という項目 がありました。 どうやらプロテスタントの賛美歌のようです。 さらに母の記憶として、 小さい頃、家の近所に救世軍の教会があり、そこの人たちが歌っている賛美歌にあわせて祖母が懐かしそうに小さな声で口ずさんでいたのを聞いたことがある、 また、 祖母がほかの家族とは違う何かキリスト教について肯定的な事を言って、娘である母を教会の日曜学校に行かせるようにした ということもあったようでした。 母が幼少期を過ごした場所の近くにはカトリック教会もあるので、祖母がもしもカトリックに慣れ親しんでいたのであればそちらに行かせたはずで、そういう点からもおそらくカトリックではないどこか、と推測しました。   それにしても、私の母はキリスト教が大嫌いなので、日曜学校に通った経験があったということにはとてもとても驚きました。   さて、 高祖父が元気で...

「羊のおり」って何?

新改訳聖書第三版で詩篇を読んでいたところ意味の分からない単語に出くわしました。 「羊のおり」 68篇13節、78篇70節に登場する言葉です。 あなたがたは羊のおりの間に横たわるとき、 銀でおおわれた、鳩の翼。 その羽はきらめく黄金でおおわれている。 全能者が王たちをかしこで散らされたとき、 ツァルモンには雪が降っていた。 詩篇68篇13,14節 主はまた、しもべダビデを選び、 羊のおりから彼を召し、 乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れてきて、 御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを 牧するようにされた。 詩篇78篇70,71節 次に新共同訳聖書で同じ 辺り を引用します。 主は約束をお与えになり、 大勢の女たちが良い知らせを告げる 「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。 家にいる美しい女も戦利品を分けている。 あなたたちは二つの鞍袋の間に横たわるのか。 鳩の翼は銀に、羽は黄金に覆われている。 詩編68篇12~14節 僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り 乳を飲ませている羊の後ろから取って 御自分の民ヤコブを 御自分の嗣業イスラエルを養う者とされた。 詩編78編70,71節 そしてNIVからも同じ所を引用 Even while you sleep among the sheep pens,[e] the wings of my dove are sheathed with silver, its feathers with shining gold.” When the Almighty[f] scattered the kings in the land, it was like snow fallen on Mount Zalmon. Psalm68:13,14 Psalm 68:13[e]Or the campfires; or the saddlebags Psalm 68:14[f]Hebrew Shaddai He chose David his servant and took him from the sheep pens;from tending the sheep he brought him to be the shepherd of his people Jacob, of Israel his inheritance.Psalm 78...

「乳幼児から放射性セシウム検出されず」ってさ(怒)

毎日新聞のサイトで記事を読んで頭に血がのぼってしまいました。 福島原発事故:乳幼児から放射性セシウム検出されず http://t.co/y56nRglW8D — 毎日新聞ニュース速報 (@mainichijpnews) 2015, 10月 8 何を怒っているのかというと、 1.近ごろでは、関東に在住の、しかも食品にとても気をつかっている方々の尿からも放射性セシウムが検出されているということを知っている。 2.甲状腺がんや甲状腺の疾患は確実に増えていることを肌で感じている。(甲状腺の問題に関する新しい看板を作って宣伝を始めた医院が高崎と伊勢崎にあることを知っている。) 3.特徴的な重い病にかかる方が周りでも確実に増え、また、突然死も増えている。(親族や知人) そして近所では心臓の奇形を持つ赤ちゃんが2名(2軒)心臓検診で引っかかった小学生が2名(前述の赤ちゃんの家とは別の2軒の家の子どもたち) という体感の中にあるが 1.原発事故は遠い過去のもの、終わったこと、だと考えるようにマスコミが旅番組やワイドショーで人々を誘導。そして人々が、「確実に放射能汚染のある場所」に観光で出かけ、ほこりを立てながら歩き、土や植物に触れ、海水に身体や顔をつけ、もしくは基準値をわずかに下回る魚を捕って食べて喜んでいる姿を積極的に報道したり、「食べて応援」することが美徳であり健康に何も悪いことはないと言わんばかりに城島くんに24時間マラソンを走らせるようなことをしている。 2.そして、「鼻血」の問題。2011年の事故直後にそれは新聞記事にもなっていたし、自民党の議員も取り上げていたのに、なぜかほとんどのマスコミが沈黙してしまった。 というような中にあり、今回のこの記事がまた新たに 「放射能ってけっこう安全でしょ」アピールをしていると感じたのではらわたが煮えくり返ってしまったのです。 人は皆、自分に都合の良いことを聴きたがるものです。 大手メディアがああいう断定的な見出しで報道することの害悪に気付いてほしいと思います。 論文の紹介をするというような時には、目新しさだけでなく、落としてはいけないポイント、というものがあることを忘れないでほしい。多くの人はソースにあたらず記事を読むだけなのですから。 それでは 祈りつつ、引用文( 太字黒い文字 )に併記する形で 思うことを紺色の 文字 で書いておき...

当然と言えば当然の流れだが

以前NHKのクローズアップ現代で、公式確認から50年が経った新潟水俣病の話題を取り上げていた。 50年経ったところでまだ終わりが見えず、否、見えないどころか胎内で影響を受けたと考えられる患者さんの苦しみを…当然そういうことはあるだろうと思ってはいたが、改めて恐怖を感じながら知ることとなった。 これまでのこうした有害物質によって引き起こされてきた病は発生源である企業の工場を中心とする周辺地域に特徴的に見ることができるものであり、原因物質との因果関係を動物実験で示すことが可能であった。しかし、それであっても最小限の「支出」で自らの傷を小さく済ませたい企業や国の思惑によって、被害者は十分な償いをしてもらうことが出来ぬまま時は流れていく。 公害病、薬害、予防接種被害、etc. すべてがそうだ。 原因が明らかであってもそう簡単に「はい、そうですか」なんて認めるところを見たり聞いたりしたためしはないし、実際に被害にあって得た経験から言えることは、医者や役人がよってたかって苦しむ被害者をこれでもかこれでもかと傷口に塩を塗り込み、否、それどころかじりじりじりじりと、落ちたら死んでしまうであろう断崖絶壁に追いつめていくということだ。 だから、原発事故はいったいどうなることだろうかと、いったい国はどうするつもりなのだろうかと眺め続けてきたが、 …これだけ広範囲に放射能がぶっ飛んでいるわけだから、 公害病の先例から考えれば企業も国も補償しようなどとは考えていない事は明白で しかも、人体を突き抜けていく放射線が引き起こす病なんていくらでも考えられる、つまり、病と放射能との因果関係なんてとことん否定できるから 補償不必要な自覚無き「実は被害者」かもしれない病人だらけという暗黒の状態に入り込んでいくのだろうと嫌な確信を得た今日この頃。 日本の名医を検索できるサイトに「治療数・手術実績数からみる病院ランキング」という資料が公開されていた。 (問題があると困るのでリンクははりませんから、興味のある方は「」内をキーワードとして検索をかけてみてください。) 具体的な病名は書かないが、20種類くらい最近3年間の県別データを比較してみたところ、 明らかに 患者が増加していることがわかる。 まあ、深刻な疾病の増加は東日本だけにとどまってはいないので、それをどうとらえるかという事も考えなければいけないが、 …...

主のことばを聞くことのききん

平日朝5時台、家事をしながら日テレを見ていると、「あいことば」というコーナーがあり、キャスターが短い「言葉」を読んでくれます。朝のひととき、心に残る言葉もあり、ちょっと手を休めて聞くこともあるのですが、 それを見ながらいつも思うことは「人は言葉によって生かされている」ということです。 人はパンのみにて生くるにあらず、と聖書にありますが、私たち人間はもちろん食べなければ命がありませんが、満腹したとしてもそれだけでは今日の歩みを進める気力と言いましょうか意欲といいましょうか、心に力を得ることが出来ないのであります。 母の胎を出て、保育園幼稚園に通い始めた瞬間から、私たちは毎日外に出て、より高いもの高いものをと頑張らされてきました。 それでも、小さな頃はおりこうだね^^なんて褒めてくれた人が一人くらいはいたのかもしれません。 しかし、成長するにしたがって親の目はつり上がり、優しい幼稚園のときの先生みたいな先生は中学校のどこをさがしてもいやしない。私が中学生の頃などはまだ体罰も日常的にありまして、何時間も正座させられたり頭を平手やスリッパでひっぱたかれたこともありますし、竹刀をぶらぶらさせながら歩いている教師もおりました。 そして、もはや誰もほめてなんかくれません。ダメ出しばかりです。 順位が下がった偏差値が下がったこんなんじゃだめだ …そしてそれは学校を卒業し社会に出てからも形を変えてずーっと続くのでありました。 人間ってどうしてこんなに疲れるのでしょうか。 栄養ドリンクを飲んでももつのはわずかな時間 朝起きてだるくて重いのはもちろん肉体の疲れもありましょう。 しかし、もし心に力があったらもうちょっと変わるのではないのかしら。 ならば、心にはどうやって栄養を届けるのか。 で、おそらく日テレさんは「あいことば」っていうコーナーを作ったのではないかと。 朝、出かける前のひととき せわしさと、今日の予定と不安でいっぱいいっぱいになっている心に ふわっとした安らぎのひとときっていう感じで。 「言葉」ってね、嫌な言葉は人を死に追いやってしまうこともありますけれども 「生きよう」「もう少しだけ頑張ってみよう」という力を与えることもありますよね。 なぜでしょうかね。 「いのち」って、一般的には命ではない物質が劇的に化学変化して出来たってことになってますが、物理的に割り切れないふしぎなも...

それは今私が知らないだけ

ああ、私が前に進んでも、神はおられず、 うしろに行っても、神を認めることができない。 左に向かって行っても、私は神を見ず、 右に向きを変えても、私は会うことができない。ヨブ記23章8,9節 ヨブの苦しみ、 それは彼自身の身体に起こっている問題や愛するものとの悲しい別れ、そして財産を失うことにとどまらず 、その苦しみを親しい友人にも理解してもらえないということであったと思います。 しかしそれ以上であったのは、神さまがわからなくなってしまったことなのだ、とつくづく思います。愛なる神さま、恵みに富みあわれみに富み豊かに与えてくださるはずの神さまがいったいどこに行ってしまわれたのか、 「ああ、私が前に進んでも、神はおられず、 うしろに行っても、神を認めることができない。 左に向かって行っても、私は神を見ず、 右に向きを変えても、私は会うことができない。」 クリスチャンにとっても、正直言って、こう感じざるを得ない、大いなる失望でも申しましょうか、そんなときが無くはない。 しかしです。 このヨブの言葉はそのまま真実なのでしょうか。 神さまはおられないのでしょうか。神さまは休暇を取っておいででしょうか。 そんなことはないのです。 聖書をまるまる一冊読むことの出来る現代の私たちには、ヨブがこのようにつぶやいた瞬間に、 神さまがいったいどこにおられたのかよくわかっています。 神さまは私の言葉の一部始終を聴いておられる方。 神さまは私の言葉を無視されない方。 神さまは共にいてくださり私を背負ってくださる方。 です。 そして私たちはヨブ記の最後をよく知っておりますから ヨブよ、そうではないのだよ、と私たちは彼に語る事が出来るのであります。 今は山が微動だにせず、 事態はひたすら悪い方に行っているようであり、 まるで神さまがいらっしゃらないように感ずる時、 しかし、私たちはみ言葉を読み、 み言葉にそう書いてあるのだから、「信じる」。 神さまがそう言われたのだから、「信じる」。 それが「信仰」と呼ばれるものです。 ヨブさん、あなたには今はわからないと思いますが、 あなたのどん底のつらさと あなたの人生の一部始終は 私たちの聖書に書いてあるんで私知ってるんですが、 もう少しで終わるから そして、最後いい感じだから もう、ちょっと、もうちょっとだけ耐えてください。 しかもあなたの苦しみによって私...

甲状腺がん「疑い含め137人」という話

Our Planet-TVのニュースを見ました。 甲状腺がん疑い含め137人へ、2巡目は25人〜福島健康調査 https://www.ourplanet-tv.org/38251/   福島県は31日、東京電力福島第一原子力発電所事故を受けて実施している福島県民健康調査の専門家会議を開催し、新たな甲状腺がんデータなどを公表。甲状腺がんと疑われる子どもは検査対象の38万人のうち、137人となった。すでに手術を終えたのは105人。病理診断により1人は良性結節、残りの104人が甲状腺がんと確定した。 ただただ悲しい結果であると思いました。 38万人のうちの幾人 と表現されますけれども、 人生を歩み始めたばかりの子どもたちに病が見つかり しかもそれがガンであったとき 保護者の方々、ご家族の方々の悲しみはそして不安はいかばかりでありましょうか。 数字の遙か向こうに 病院の診察室で涙を浮かべる人々の姿が 私には見えてきます。 心のうちを想像すると涙は止まりません。 しかし そう、 「あの人たち」には関係ないし、 「あの人たち」に理解など出来るまい。 単なる数字 厄介な数字 そう思っていればいい。 137人の子どもたちの家族の苦しみは 神さまのノートにきちんと記録されているのだ。 決して消されることなどない。 忘れられることなどない。 「復讐するは我にあり」だと 私はそう信じています。 小さき者、弱い者をないがしろにする者は 決してゆるされません。

モミの木の形態変化

帰宅困難区域のモミの木について、主幹が欠損した二股様の形態変化が多く観察されたという研究結果を報道していました。 47newsによれば http://www.47news.jp/CN/201508/CN2015082801002062.html 「調査は環境省の依頼で実施。環境省は事故後、約80種類の野生動植物で放射線の影響を調査しているが、実際に影響がうかがわれる事例が確認されたのは初めて。」 何故その80種類を調べようと思ったのかという調査対象生物の選定行動、そして、同一種であっても私たちの顔が異なるように生物の形態にはある程度の多様性があるのでどの程度の変化を異常と判断するのかという基準によって結論は大きく変わりますが、このような公的な情報は少ないものなので、貴重なデータとして頭に叩き入れなければなりません。 …ただ、裁判等で何かの因果関係を証明する資料とはなりえないとは思いますが。 朝日新聞の記事を読むと http://www.asahi.com/articles/ASH8X55ZLH8XULBJ00M.html?ref=chiezou 「空間線量が最も高い大熊町で9割以上が変化、浪江町では4割強、3割弱と変化率が減少するものの、北茨城市でも1割弱で変化があった」 ということで まずは調査の大前提を確認しましょう。 放射線は生物の形態変化を起こしうる そう思っていたからこそ時間とお金をかけて調査をしたわけですね。 原発事故以来この辺りまでが揺らいでいるような錯覚を一般人はおこさせられていますのでね、ここはきちんと押さえなければいけません。 放射線は形態変化を起こしうるという言葉は言い換えれば、 放射線は細胞内の小器官を破壊し細胞を破壊しうるものであり (だからそもそもガンの放射線治療というものがある) 遺伝子の変化を起こしうるということです。 遺伝子は動物も植物も人間もみんな同じ「DNA」というものから出来ています。 生き物の種類によって持っている遺伝子の量というか数は異なりますが、 DNAには違いない。DNAという「物質」ですね。 DNAというものはデオキシリボ核酸という「物質」ですから 人間のDNAだけが特別だとか、頑丈に出来ているとか、変化を起こしにくいというものではありませんよ、念のため。 ですから人間の遺伝子も放射線によって壊...

刈り取るべき実を刈り取ることになる

 以前、どこかで書いたような気がしますが、 「苦しみ」の原因やきっかけはこのヨブのようなケースもありましょうが、たいていの場合は「自分の罪がもたらした結果の刈り取り」もしくは「他人の罪に巻き込まれたゆえ」そして「両者の混合」なのではないかと思っています。 しかし、私は全てのことに神さまのご計画があり、神さまがご存じないところで物事が勝手に起こってしまうことはないという信仰を持っていますから、苦しみの中にある方に対して、もしくは苦しみを得た方の周辺の方々に対する「神さまからの期待」が込められた教育、訓練としての苦難、つまりは意味のあることであると思っています。  しかし、いずれにしても、苦しみの渦中にあるときに「なぜ」と問うたところでわかることはほぼ無く、数年から数十年という時を経て、それぞれの苦難の持つ意味を「ふと」気付くことになると思いますし、ヨブのように徹底的に苦しんだからこそ、砕かれ、主と真に出会う事が出来る、そんなふうにも思います。  ただ、黙示録を読んでいると、もはや後々になって意味がわかるということもない「手遅れな」苦しみというものがあるのだと知ります。もうそれは最後の最後でありますから「その後」はない。 だからその一歩手前にあるこんな場面にも私たちは気付かねばなりません。 すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。ヨハネの黙示録16章2節b  黙示録には、人々がその罪のゆえにどうなっていくのかということがたくさん記述されています。読んだことのない方に豆知識としてお伝えしておくならば、聖書には、この書だけでなくあちこちにそのような類の預言とでも申しましょうか、厳しいことが書かれているのです。いつどこでどうなるのかという具体的なことは伏せられてはいますが。 しかし、伏せられているとは言え、神さまは偽りのないお方であるという信仰を持っている自分は、いつどういうかたちであったとしても「そういうことが起こる」のだという、現実に直結した問題であるととらえています。  さて、このみ言葉には悪性のはれものが出来るという苦しみが書かれております。御使いが鉢を地に向けてぶちまけた結果こうなるというふうに書かれているだけでありますから、天使がいったい何をぶちまけるのか、とか、いつそんなことになるのかということは神のみぞ知ることとし...

主に拠り頼む

今日はⅡ歴代誌15章と16章が通読の箇所でした。 久々に、聖書を読んで思ったことについて書こうと思います。 アサは、神の霊が臨んだオデデの子アザルヤからこう言われました。 あなたがたが 主 とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。歴代誌第二15章2節 この言葉を受けて、アサは 主 とともに いることを選び、実際、 主 は守って下さり平和と繁栄が与えられます。 しかし、アサの治世の第三十六年、彼の心に変化が起こります。(この第三十六年という年の問題はとりあえず今日は無視します)イスラエルの王バシャがユダに上ってきたときのことです。その際、アサが主に拠り頼むことよりもアラムの王に拠り頼んだ、というのです。 実は、ここを読んだとき、思ったのです。たかだかその程度のことで…と。 スイマセン、落ちこぼれなもので、浅い理解で軽ーく 主 に文句を言い放ってしまう傾向があります。でもね、アラムの王に拠り頼んだって言ったってねえ、クリスチャンの人たちだってよくやってるじゃないですか、有名人に広告塔になってもらうとか。(ちょっと違うかな) それに、アサ王がそれまでやってきたことの大きさに比べたら、ちょっと失敗しちゃったみたいに読めなくはない。うっかり、ちょこっと、と。 でも、読み返してみると、実はそうではないのではないかということに気付きます。16章10節に見られる予見者に対する彼の態度を見ると、彼の心の中はかなり悪い状態だったように思えます。 行間を想像するに、もしかしたらここに書かれていないようなちょっとしたきっかけで 主 から心がわずかに離れたのもしれません。で、そのときさほど不都合を感じなかったので(アダムとエバのごとく目が開かれとでも表現しましょうか)、まあいいかまあいいかと繰り返すうちに、アサの心は 主 からかなりの距離まで離れてしまったのかもしれません。王という立場で、実績も上げ、人々からおだてられ、尊敬されるうち、人間の弱さというか罪深さというか、自分の知恵と力で事はどうにでもなるんじゃないかと勘違いを始め、主がなさせて下さった、という大切なことを忘れてしまったのかもしれません。 ふと、詩篇1篇のみ言葉...

振り返らない

「そういえば、練り物をしばらく食べてないねえ」と昨日主人と話しました。 ずいぶん長い間口にしていません。材料を吟味してごくたまに購入することはあるのですが、三度の食事のこと、確認作業が面倒なので、特別なとき以外は確認不要な食品だけで生活を送っています。 まあ考えてみれば、日本で生まれ育ち日本で所帯を持っておりますから、手に入って当たり前食べて当たり前なものというものがいろいろあって、それが無いというのはなんとなーくつまらないことではあります。そして、いったん「無い」と気付くと無性に欲しくなるというのが人間の本能なのかもしれませんが 「肉が食べたーい」と荒れ野でつぶやいたイスラエルを思い出しました。 何も食べられずに餓死しそうだというのではない。要は舌から喉ごしまでの欲求!なのです。しかし、「どうしてもあれが食べたい」という思いになる人間。そして、食べ物のことだけではありません。「あの頃は良かった」そういう思いは自制しないで放っておくといくらでもわき上がってくるのです。 戻すことの出来る過去を振り返り、自分や世界を過去のよりよかった一瞬に戻そうと努力することは価値のあることでしょう。しかし、いくら振り返ったところで、変えることの出来ない過去は振り返ったところで不幸しか生まないと思います。 (ただし、加害者と被害者がいる「過去」はきちんと精算する時を経て、振り返ることと決別すべきですね) 「振り返る」ということを考えていましたら、創世記に登場するロトの妻のことを思い出しました。せっかく神さまが救いの手をさしのべて下さったのに、「振り返るな」とのことばを守りきらず、塩の柱になってしまった。ロトの妻は、神さまによる救い、「差し迫った生死に関わること」=「命」よりも、生活していたあの土地に残してきた財産に未練を持って振り返ったのではないかと私には思えるんですが、とにかく振り返ったために塩の柱になってしまったわけです。 まあ、場所が場所だけに塩の柱なのか、とも思いますしよくはわかりませんが、要するに彼女は命を失ってしまったわけです。肉体の命だけでなくそれ以上のものも失ってしまった。 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」マタイ16:26(新共同訳) それでも振り返るのが人間なのでしょうか。そ...