今日は
キリスト教会で語られている「ある教え」について自分の考えるところを書こうと思います。
以下、確固たる信念を持っている、というか、何を言われても動じない自信のあるクリスチャン以外は絶対に読まないでください。
旧約聖書には
良いものが残る「残りの者」という思想があります。
同じ意味のヘブライ語とギリシャ語を一度に確認できるようにイザヤ書10章22節を引用します。
כי אם יהיה עמך ישראל כחול הים שאר ישוב בו כליון חרוץ שוטף צדקה׃
שאר という言葉が残りの者という意味のヘブライ語で、NASB(New American Standard Version) では以下のように翻訳されています。remainder (1回), remnant (11回), rest (13回), survivors (1回)
そして、イザヤ書10章22節は日本語では以下のように翻訳されています。
あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、その中の残りの者だけが帰って来る。滅びは定められており、正義がみなぎる。(聖書協会共同訳)
そしてこの箇所はローマ9章27節に引用されていますので、その箇所をNestle 1904から引用します。
Ἡσαΐας δὲ κράζει ὑπὲρ τοῦ Ἰσραήλ Ἐὰν ᾖ ὁ ἀριθμὸς τῶν υἱῶν Ἰσραὴλ ὡς ἡ ἄμμος τῆς θαλάσσης, τὸ ὑπόλειμμα σωθήσεται·
このギリシャ語の文ではὑπολείπωというのが残りの者を表現しています。
(Byzantine Majority Text 2005ではκατάλειμμαと書かれています)
ローマ9章27節は日本語では以下のように翻訳されています。
また、イザヤはイスラエルについて、こう叫んでいます。
「たとえイスラエルの子らの数が
海の砂のようであっても
残りの者だけが救われる。
ローマの信徒への手紙9章27節(聖書協会共同訳)
ノアの箱舟にしてもそうですし、ソドムとゴモラにしてもそうですが、
旧約聖書では神さまに従う者が地上に残ります。逆はありません。
つまり、悪い者たちが地上に残り、神さまに従う者たちが地上から消えてしまうというようなことはないのです。
さらに、もっとシンプルで根源的なトーラーの話をするならば、
生きている人間は הארץ ハアレツ(地)で生きるようにデザインされ造られました。
だから、「生きている人間」「身体を持っている人間」にとってはこの地上、地面の上で暮らすのが一番ふさわしく最も良い居場所です。
ならば新約聖書のこの箇所はどうとらえればよいのか。
すなわち、合図の号令と、大天使の声と、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。すると、キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に出会います。こうして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。
テサロニケの信徒への手紙一4章16、 17節
日本語の聖書で読むとたしかにクリスチャンたちが高い空に行ってしまうような印象を受けます。
ほんとうにそうなのか、
確認するために17節をギリシャ語の聖書を見てみましょう。
ΠΡΟΣ ΘΕΣΣΑΛΟΝΙΚΕΙΣ Α΄ 4:17 Greek NT: Nestle 1904
ἔπειτα ἡμεῖς οἱ ζῶντες οἱ περιλειπόμενοι ἅμα σὺν αὐτοῖς ἁρπαγησόμεθα ἐν νεφέλαις εἰς ἀπάντησιν τοῦ Κυρίου εἰς ἀέρα· καὶ οὕτως πάντοτε σὺν Κυρίῳ ἐσόμεθα.
この箇所で「空(中で)」と日本語に訳されている言葉は(εἰς)ἀέραで
原形はStrong's Greek 109 ἀήρです。
この109番は新約聖書に合計7回登場します。
口語訳聖書から引用します。
人々がこうわめき立てて、空中に上着を投げ、ちりをまき散らす始末であったので、使徒22:23
そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。一コリ9:26
それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。一コリ14:9
かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。エペソ2:2
それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。一テサロニケ4:17
そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。黙示9:2
第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。黙示16:17
この7か所のうちἀέραという形で登場するのは
使徒22:23、一コリ9:26、一コリ14:9、一テサロニケ4:17、黙示16:17の5か所です。
語源を見ておきましょう。
Strong's Greek 109 ἀήρの語源は「呼吸をすること」です。呼吸をするという意味がベースにある「空気」という言葉なのです。
リンクを張りますのでBIBLE HUBで確認してみてください。
https://biblehub.com/greek/109.htm
この世界の物質が、火・空気(もしくは風)・水・土の4つの元素から構成されるとする
エンペドクレスの四元素の概念における「空気」を古代ギリシャ語でαήρと言いますから、そのあたりの認識でこの言葉を使っている可能性が考えられます。
ウィキペディアの「空気」の項にある「大気の理解」というところに
鉛直構造としての大気は高所に行く必要があり空気の研究に比べると遅れた
とありますが、
古代人は地上からの天文や気象の観察は良くおこなっていたと思いますけれども、青く見えるような大空に地上と同じような空気が存在するのかというようなことについて予想はしたかもしれませんが、日常的には考えていなかったのではないかと想像します。
つまり、彼らがαήρと表現するとき、四元素のうちの空気であったり、呼吸するときに吸う風のようなものをイメージすることはあっても、その言葉を持って高いところにある「空(そら)」考えることはないと思うのです。
もちろんヘブライ語にはシャマイムという「天」を表す言葉も概念も存在するわけですが、それは神さまのおられる天なのであって空気のことではありません。また、ラキアという創世記1章6節にある「大空」を表す言葉もありますけれども、ラキアは辞書によれば対応するギリシャ語は
στερέωμα これは聖書の中にはたった一度コロサイ人への手紙2章5節に登場する言葉で
私は、体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。
口語訳聖書で言うと「堅い」と訳されているところに該当し、堅固で確立されたものという概念を伝えるために使用されるとのことです。
なぜ旧約聖書で「大空」と訳されるヘブライ語のラキアがギリシャ語の「堅固で確立されたもの」になるのかと言うと、これも辞書に書いてあったことですが、
古代の宇宙論、特にヘブライとギリシャの伝統では、天空は、上の水と下の水を分ける堅固な(かたくてこわれにくい)ドームまたは広がりとして理解されていたからだそうです。
高い高い大空と地上の自分の周りにある空気がつながっていると判断しそのように思えるのは、現代の科学教育を受けているからです。
ちなみに、
新約聖書にはラキアということではなく日本語で言うところの「空」という言葉も存在していることは確かです。全部を引用しませんがいくつかを日本聖書協会の聖書本文検索を使い口語訳聖書から拾ってみます。
マタイによる福音書6章26節
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。マルコによる福音書13章25節
星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。ルカによる福音書13章19節
一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。使徒行伝10章12節
その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。ヨハネの黙示録8章10節
第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。ヨハネの黙示録8章13節
また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。
そしてそれぞれの箇所をBIBLE HUBで調べてみると
まず、マタイ6章26節の「空」の鳥の「空」というところには
Strong's Greek 3772 οὐρανός という単語が使われていました。
οὐρανόςという言葉はヘブライ語で言うところの
シャマイムשָׁמַיִםすなわち「天」ということだそうで、
ギリシャ語の新約聖書では空、星の住処、神の住まいを表すために使われているということです。
マルコによる福音書13章25節の「空」もοὐρανός
ルカによる福音書13章19節の「空」もοὐρανός
使徒行伝10章12節の「空」もοὐρανός
ヨハネの黙示録8章10節の「空」もοὐρανόςヨハネの黙示録8章13節の中空だけは異なる単語でμεσουράνημα
これは該当するヘブライ語はなく、空の最高点を指し、「中天」または「天の真ん中」と翻訳されることが多いそうです。新約聖書では、何かが誰の目にもはっきりと見える空の位置を表すときにμεσουράνημαを使うそうです。
文字を見れば予想は付きますが、μέσος「真ん中」とοὐρανός「天」が合わさってできた言葉だそうです。
聖書以外の文献を検討してはいませんが、
少なくとも聖書を読んでいる限りにおいて
Strong's Greek 109 ἀήρが空(そら)を表していることはなく
Strong's Greek 109 ἀήρは英語で言うところの「air」空気というニュアンス、
つまり、私たちの近く(まわり)にある、手をばたばたさせればフワっと動き、吸いこむことのできる気体のある場所の辺りを示していると考えるのが古代人の感覚に近い読み方、理解だと思います。
次に「引き上げられ」という言葉について
ここに使われているギリシャ語はἁρπαγησόμεθαで、
原形はStrong's Greek 726 ἁρπάζωです。
726番には「力ずくで奪い取る」という意味があります。聖書の該当箇所を読めばわかりますが戦利品を奪い取るというようなニュアンスです。
福音書で726番が使われているところを聖書協会共同訳聖書から引用してみます。
洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。マタイ 11:12
また、まず強い人を縛り上げなければ、どうして家に入って家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。マタイ12:29
誰でも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。マタイ13:19
イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、独りでまた山に退かれた。ヨハネ 6:15
羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――ヨハネ10:12
私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、また、彼らを私の手から奪う者はいない。ヨハネ10:28
私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。ヨハネ10:29
翻訳された方に伺ってみないと分かりませんが、
726番に「引き上げる」という訳を充てることになったのは、
109番を高いところにある「空(そら)」と定義してしまったからではないでしょうか。
Strong's Greek 109 ἀήρに高い高い空の上のようなニュアンスは持たせず、基本に忠実に、私たちの周りにある空気と定義すれば
「引き上げる」などと訳すこともなく
さらに言えば、神さまが創造の初めに造られた物理法則に一切逆らうこともなく、そのままで「力ずくで奪い取る」というストーリーとなります。
また、
「雲」という言葉については、旧約聖書を知っていれば、普段私たちがこの地上で目にする「空に浮かぶ雲」、すなわち、積乱雲だとか巻雲だとかで知られるような気象現象をイメージするだけの限定的な読み方にはならないはずです。
旧約聖書の中に登場する雲という言葉
Strong's Hebrew 6051 עָנָן
創世記9章の契約の虹の場面や
出エジプト記の「雲の柱」の場面で登場する「雲」は、たしかに高い空に現れていたはずですが、
「雲」という言葉は「要するに」聖書の文脈では神さまの存在や導きの象徴として登場する「もの」ととらえた方が妥当なのではないか、と思うのです。
なぜ「要するに」なのか、というと、「雲」が現れそうな文脈で
Strong's Hebrew 6225~6227の אשׁן「煙」が登場する箇所も存在しているからです。
シナイ山は山全体が煙に包まれていた。主が火の中を通って、山の上に降り立たれたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
出エジプト記19章18節
主よ、あなたの天を傾けて降り
山々に触れて煙を吐かせてください。
詩編144章5節
その呼びかける声によって敷居の基が揺れ動き、神殿は煙で満ちた。
イザヤ書6章4節
神さまの御臨在は、雲、煙、つまりは、コロイド粒子、エアロゾルの中に、ということだと思います。
で、恵みの雨をもたらしてくれる雲、雷鳴や稲妻をもたらす雷雲、燃える炎や噴火でモクモクするといういろいろなケースがありますから意味も変わってくるわけですが。
ところで、
ギリシャ語で「雲」は
νεφέλη
と言います。聖書には25回登場します。
語源はνέφοςで、この言葉はヘブル人への手紙 12:1に登場します。
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
つまりどういうことかというと、
聖書が語っている「雲」というものはこの絵にある感じのものではなく、
一テサロニケ4:17でもそうですが「囲む」「覆う」イメージのようです。
そういう意味でも煙との類似性を感じます。
「煙」はギリシャ語で
καπνός
この単語は聖書の中に13回登場するようです。
聖書協会共同訳から引用しますが
使徒言行録2章19節に一箇所と
上では、天に不思議な業を
下では、地にしるしを示す。
血と火と立ち上る煙が、それだ。
ヨハネの黙示録に12回登場します。
旧約聖書のような内容で使われているヨハネの黙示録15章8節を引用します。
すると、神殿は神の栄光とその力から立ち上る煙に満たされ、七人の天使の七つの災いが終わるまでは、誰もその中に入ることができなかった。
雲や煙は、
聖書に記録されているようないろいろな事情でその都度そのような現象が
神さまによってもたらされたのだろうと「信仰者である自分としては」考えています。
また、日々の暮らしの中で、雲が空を覆うと恵みの雨が降るとか、大きな音とともに空を割るような光が現れるわけですから、古代の人々がそれをどのような思いを持って見たのだろうか、ということは想像に難くないわけです。
観察力の鋭い古代人がチンダル現象を見て、否、現代人でも「薄明光線」を「天使の梯子」と呼ぶくらいですから、いろいろな自然現象を見た人々がさまざまな表現をもって「驚きや感動」を、そして「恐怖」を聖書の中に、または伝承として残しているのではないか、という視点も新旧問わず聖書の解釈を行う時には必要ではないかと思います。
そういうことを言いますと、「聖書のみ」という信仰の点で問題があるという方がおられるかもしれませんが、
(この記事を書いた当時の私はまだ、どうにか自分を受洗したときの枠の中にとどめておきたい、これ以上おかしな状態になりたくはないと必死でした 2025年6月追記)
被造物の美しさや素晴らしさ、そして不思議さは
神さまご自身の「みわざ」そのものなのですから、
それは文字の無い御言葉であって、「聖書のみ」という話から逸脱するわけではないと思います。
ところで、今ここに「逸脱」という言葉を書いて思いましたのは
ユダヤ教とキリスト教の大きな大きな違いということであります。
教義という決められた枠から一歩もはみ出してはならないのが正統的なキリスト教と呼ばれるものだと私は認識しておりますけれども、ユダヤ教はそうではない。
善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。
伝道の書7章20節(口語訳)
伝道の書から引用しました。
パウロもローマ人への手紙3章で言っています「義人なし一人だになし」
だから、
「人の行う聖書解釈に完全なものはない」とユダヤの人々は考えるのだそうです。
だから、ユダヤ人は聖書の解釈に少しでも疑問があれば目上の人であれ先生であれ、質問をし、そして議論をするのだそうです。だからタルムードには後世の学者の見解もたくさん書いてある。
新約聖書の中で幼い日のイエスさまが偉い先生相手に議論していたという話が書かれていますが、それは決して珍しいことではなく、
ただ、もちろん、きちんとした自分自身の意見、正しいと考えているものが無ければ議論にはならないわけですから、
私たちの主は幼いころから立派な方だったのだと思います。
議論をたたかわせることが良いことなのか否かはわきに置いておくとしても、
ユダヤ人の世界というものは昔も今も我々異邦人キリスト教徒が想像するような世界ではないということは間違いないようです。
そういう世界にあった「パウロ」という人の言葉を私たちは今新約聖書として読んでいるわけです。
まさか自分の書いた書簡がトーラーと並び聖書と呼ばれているなんて、
パウロはきっと心の底からショックを受けると思います。・・・かわいそうに。
預言者でもない一人の人間であるパウロが語る一テサロニケ4:17の言葉は、
あの書きかたから予想できるのは、彼の独自解釈ということではなく、当時の彼の周辺で「そういうもんだ」と考えられていた一つの説を、書いた、という事なのだと思います。
彼は「メシアが地上に来られた」という点でほかのパリサイ派の人々とは意見が異なるわけですが、ユダヤ人として、パリサイ派にあった者として、
「地上に降りてきてくださった生けるトーラー」に関する彼自身の解釈や信仰という「コメンタリー」を書き続けていたに違いないのです。
もちろん、彼は彼なりに自信をもって書いていた事でしょうが
彼の言葉の一字一句を「翻訳聖書で読んで」文字通りに信じることが
「間違いのない神さまの御心である」と考えなければならないというのは
ユダヤ人パウロとしてはとても不思議に思うのではないか、と私は思います。
そのうち、パウロ先生にお会いできる日が来たら尋ねてみたいと思っています。
ふざけやがって!と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私はふざけているわけではありません。
すべての物理法則を定められたのは神さまだ、ということを忘れないでいただきたい、そして人間の身体をデザインされたのは神さまだ、ということも忘れないでね、と申し上げたいのです。
地球上の被造物、
私たち人間にとっての幸せは、
そして人間が人間として歩むべき道は、
神さまが造られた通り、お決めになられた通り、
トーラーのとおりに生きることです。
それが聖書の語る最も大切な思想です。
人間は、ハ・アレツの上で(大地の上で)、
適切な濃度の酸素を吸ったり吐いたりしながら
神さまの与えてくださった食物を食べ、
主と共にいられるのが一番幸せ
だと私は思います。
ちょっとの間でも空の上は大変よ。鳥じゃないんだから。
雲に覆われてまかれたらびっちょびちょだよ?陸上生物なんだからびっちょびちょはやだよ。
(個人の感想です)
さて、
こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。
使徒行伝1章9節から11節までを口語訳聖書から引用しました。
「天に上げられ」という箇所はギリシャ語で読むと「天」に該当するところは無く、
ἐπαίρω 「上げる」とか「持ち上げる」という意味のギリシャ語が書いてあります。目を上げるとか手を上げるとか声を上げるとかそういう時に使う言葉です。
そして、他の「天」はすべて、上の方に書いた
Strong's Greek 3772 οὐρανόςです。
使徒行伝1章9節から11節までのところにはまずこういう景色が見えます。
ガリラヤの人たちは、地上で、つまり、地に足が付いた状態で、
主が天に上げられるのを見たわけです。
そして白い衣を着たふたりの人は言うのです
イエスさまはその時と同じ有様で来られる(であろう)と。
「有様」というところはギリシャ語でτρόποςです。
辞書にはThe Greek word "tropos" primarily refers to a manner or way of doing somethingと書いてありますので、有様というよりも「何かを行う方法ややり方」を指すということになります。
とすれば、主ご自身は天(空、上の方)に居られる瞬間があるのかもしれませんが、
そのあとにはちゃんと地面のある所にいる人々のところにやってこられ、
それはちょうど離れて行かれる前のように なる、というふうに考えるのが自然かと
私は思います。
(個人の意見です)