投稿

9月, 2019の投稿を表示しています

詩編18編とヨハネの黙示録6章

少々長めな詩編18編を読んでいると、あちこちにいつかどこかで読んだ記憶のある見覚えのあるフレーズが登場します。もちろんサムエル記下の22章はこの詩編の故郷のようなものですからそっくりであるのは当然のことなのですが、小預言書や詩編のほかの箇所に繰り返されるフレーズを読むと、ダビデがどのような信仰を持っているのか明確に示されるような気がします。 たとえば144編。 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。 詩編18編2~4節(新共同訳) 主をたたえよ、わたしの岩を わたしの手に闘うすべを 指に戦するすべを教えてくださる方を わたしの支え、わたしの砦、砦の塔 わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ 諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。 詩編144編1、2節(新共同訳) 単なる 定型的な文が繰り返されている だけだと考えることもできるかもしれませんが、ダビデが本当に心の底から神さまを信頼できる大きな岩であると信じていたのだと考えることもできます。 繰り返し語られるダビデの言葉は 彼の証言であると同時に未来に向かっての宣言でもあり 読んでいる者の心に唱和する者たちの心に力強い励ましを与えてくれます。 定型的な文が繰り返されている :儀式の 式文のようなものであったとしても、儀式の式文とし反復させることで後世へ重大なメッセージを遺している可能性があるかもしれません。祭儀自体がメッセージであればなおさらで、それを知る者たちだけの気付く何か、または知ることのできる何かによって羊と山羊を分けるという可能性も考えられます。   実は、詩編18編のこのあとの箇所(5節以下)を読みながら、唐突かもしれませんがヨハネの黙示録6章9節~17節を思い出しておりました。 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ち...

熱狂から分離され切り離されること

昔教会の先生に「異端って何ですか」と尋ねた時にその先生はこうおっしゃいました。 「簡単に言うとね、聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本というのを持っていて、その本の方が聖書より上だと信じている人たちってことかなあ。 クリスチャンはね、聖書は神さまの言葉であって最も権威があると信じているんだよ。」 しかしよくよく考えてみると、クリスチャンが異端と呼んでいる方ではなくとも、クリスチャンは全員が全員そういうことをやっているわけです。聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本を全員が持っている。 以前、「不正な管理人」の例えの解釈についていろいろ考えた挙句、よくわからないのでネット検索をしていくつかの記事を読ませていただいたことがありました。 すると、それが見事なまでにバラバラな解釈で、しかし、不思議なくらいどの方も自信満々、断定的に述べていらっしゃる。たぶん、それぞれの方が、それぞれ所属している教会で「先生からそう教わったので」それが正しいと信じておられ、自信をもって書かれたのでしょう。 大学生のころ「聖書研究部」という超教派のサークルに所属していたときに、若気の至りという部分もありましょうが教派教団による考え方の違いが原因で、ときどき論争、悪く言えばケンカのようなことが起こりました。 弁の立つ学生がいて、自分の教会の正統性を聖書を示して主張するわけです。 まあ、私などは当時は洗礼を受けたか受けないかというあたりだったので黙ってやり取りを聞いているしかなかったわけですが、 しかし、論争の終着点はいつも同じ。権威ある有名な先生の説であるか否か、というところでした。 本当は論争でもなんでもない。右から左に流してるだけ。ご自分がみことばを読んで異議を唱えているわけではなく、通り良き管として(笑)聞きかじった知識を流し出しているだけ。他人の権威を着てケンカをしているだけのことなのです。問題意識なんてありゃしない。そして本当は教義の問題でもない。自分のよりどころとしている派こそが正しいと言いたい思いたいだけ。自己肯定のために。 統計を取ったわけでもないのに断定的に語りますが、教会に所属しておられるほとんどのクリスチャンは教義を理由に教会を選んで通い始めたわけではありません。 もちろんごくたまに、教派や教団について考え、積極的な理由を...

聖ということ

いのちのことば社1985年9月20日発行新聖書辞典で「聖」という言葉を調べてみました。 聖とは まずバビロニア語のquddushu「明るい、輝かしい」が語源であるという説が書いてあって、しかし、有力ではないということらしく ただ、1985年の辞書なのでちょっと古すぎる感じもしたためとりあえずquddushuというつづりで検索したところ、こんな辞書に出くわしました。 קָדוֹשׁ adj. 1 holy, sacred. 2 saint, saintly. MH 3 martyr. [From קדשׁ. Related to Phoen. קדש, Aram.–Syr. (also BAram.) קַדִּישׁ, Arab. qaddīs, qiddūs (= holy, sacred), Akka. quddushu (= shining, pure).] https://www.sefaria.org/Klein_Dictionary%2C_%D7%A7%D7%93%D7%93_%E1%B4%B5.1?lang=bi&with=all&lang2=en しかし、1985年の聖書辞典だけでなく日本の諸教会では聖という言葉について検索すると「分離する」とか「切り離す」というのが 原意とする説を取っておられるようなので そういうふうに覚えようと思いました。 辞典には すべての冒涜的事象や行為から分離され切り離されて 神との関係を持つという意味で用いられている とあり、 また、旧約聖書における「聖」について書かれた項には どのような事物も人格的存在もそれ自体は聖ではないが、それが神との関係におかれるときに聖なるものとされる。 ただし、神の霊性は恒常的かつ永遠であるが、神以外の事物や人格的存在の聖性は極めて不安定なものであって、神との関係に置かれている時だけのものであるということを忘れてはならない。 と書いてありました。 新約における「聖」については 聖ではあり得ない罪人が神の愛によりキリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるものとして受け入れられるということが述べられている。 とありました。 新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉が気になって「聖」という言葉にこだわって調べてきましたが、 こだわって調...

【調べ学習】聖なる山

新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉について調べてみました。 聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた。 詩編2編6節(新共同訳) まずはBIBLE HUBで英語の聖書を “I have installed My King on Zion, upon My holy mountain.”  Psalm 2:6 Berean Study Bible 即位という言葉は英語でインストール。 installとは(式などを行なって)就任させる、任命する、(正式に)就任させる、つかせるという意味だと書いてありました。 パソコン用語のインストールってそんな重い意味だったのですね。 Holman Christian Standard Bibleという聖書ではインストールの代わりにconsecrateという「聖別する、聖職に任命する」という言葉を使っていたり JPS Tanakh 1917という聖書ではestablishで定着させるようなニュアンスのある?「就かせる」をつかっています。 【聖なる】 ヘブライ語ではMy holyにあたる部分が קָדְשִֽׁי   qāḏ·šî 詩編2編6節のほか イザヤ書11章9節、56章7節、57章13節、65章11節、25節、66章20節、エゼキエル書20章40節、ヨエル書2章1節、3章17節(新共同訳聖書の場合は3章ではなく4章17節になります)、オバデヤ書1章16節、ゼファニヤ書3章11節の「聖なる(わたしの)」山 という表現に用いられていました。 山のほかにはレビ記20章3節、22章2節、32節の「聖なる」名であったり、 聖所や安息日(聖なる日)、また、ダビデに注がれた「聖なる油」というところに使われていました。 主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。〔セラ 詩編3編5節(新共同訳) To the LORD I cry aloud, and He answers me from His holy mountain. Selah Psalm 3:4  Berean Study Bible  ヘブライ語ではHis holyにあたる部分が קָדְשׁ֣וֹ  qā·ḏə·šōw 詩篇3篇4節(新共同訳では5節)のほか、 詩篇48篇1節(新共同訳では2節)、99篇9節(新共...

マタイによる福音書25章(10)まとめ 義人の中にいる悪人(20251213改)

イメージ
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 マタイによる福音書25章1~13節(口語訳) 十人のおとめについて、ここまでで分かったことを整理してみます。 花婿とは小羊=再臨のイエスさま 花嫁とは聖なる都エルサレム= 大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。 ヨハネの黙示録21章9~14節 そして 油は聖霊さま ゼカリヤ書4章1~6節、ヨハネの手紙第一2章18~29節 そして、 十人のおとめはクリスチャン と書きました。 昨夜、またマタイによる福音書を読み返していて、25章ではない他の章にあるたとえ話を読んで、これはちょっと…と思ったので、それについて今日は書きたいと思います。 まずは13章47節からのたとえ話から また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいにな...

マタイによる福音書25章(9)油

十人のおとめのたとえで語られている油とは一体何なのか、どうすることなのか、 今日も日本聖書協会の聖書本文検索をつかって「油」という言葉を検索してみました。 すると、とてもたくさんのみことばがヒットしました。 創世記では記念碑に注ぎかけるものとして油が登場しました。 出エジプト記~申命記では 常夜灯の油、聖別するときに注ぐ油、パンの材料、ささげもの、 清めるための油、祭司職に任命されるときに注がれる油、 士師記以降では王が任命されるときに注がれる油 預言者の任命のための油というのもありました。 そして、非常に直接的な油をゼカリヤ書とヨハネの手紙に見つけました。 わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、 「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。 また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」 。 わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。 わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。 すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、 わたしの霊による のである。 ゼカリヤ書4章1~6節 子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。しかし、 あなたがたは聖なる者に油を注がれているので 、あなたがたすべてが、そのことを知っている。わたしが書きおくったのは、あなたがたが真理を知らな...

マタイによる福音書25章(8)世の光

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 マタイによる福音書25章1~4節」 おとめたちの持つ「あかり」そして「油」というものを考えていましたら幕屋の常夜灯を思い出しました。 出エジプト記を見ると幕屋の常夜灯というものがありますけれども 真っ暗な幕屋の中で朝までともされる常夜灯というものはじつに象徴的です。 「あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。 常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。 出エジプト記27章20、21節(新共同訳)」 テレビで 真っ暗な部屋の中、女性が涙を流されていた場面を見ました。 台風15号による大規模停電で、すでに一週間もの間、懐中電灯だけで生活されているのだそうです。暗闇の中、ひとりぼっちでさみしいといって泣いておられたのです。 リポーターの方が停電が続く夜の町を取材しておられる場面も見ました。 テレビ局が撮影のために点灯していたライトを消すと ・・・あたり一面真っ暗。真っ暗闇。 真っ暗な夜、光がない、ということが、こんなにも不安でさみしくそして恐ろしいことなのか、と改めて気づかされました。 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 マタイによる福音書5章13~16節(口語訳)」 「あなたがたの光を人々...

マタイによる福音書25章(7)律法、預言者、天の国

前回は、イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というような厳しい言葉をおっしゃった箇所と、それとは逆のことをおっしゃった箇所をピックアップしました。 イエスさまはいったい何に怒られたれたのでしょうか。 調べた言葉をじっくり眺めながら イエスさまが問題にしておられたことは、おもに、 律法、預言者、天の国(神の国)という3つのテーマであるということに気付きました。 1.律法について ・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた5:17 ・律法を守るように教える人は天の国では大いなるものとされる5:19 ・ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20 ・天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48 ・律法の言わんとしていること=天の父の御心=人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい7:12 ・主よ主よというものが天の国に入るわけではなく天の父の御心を行う者だけが天の国に入る。7:23 ・律法を形式的、表面的に行うのは偽善=人の目を意識して人前で善行6:1、人前で信仰深そうに祈る6:5、人に気付かれるような断食6:16 ・イエスさまの言葉を聞いて行う者は岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている7:24 2.預言者について ・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた。5:17 ・預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受ける。10:41 ・偽預言者=良い実を結ばない木 を警戒しなさい。7:15 3.神の国について ・わたし(イエスさま)が、神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ12:28 ・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者はこの世でも後の世でも赦されることがない。12:32 ・イエスさまが派遣した弟子たちが病人をいやしたり悪霊を追い払うとすれば、それも聖霊さまの働きだから、そういう弟子たちを迎え入れもせず弟子たちの言葉に耳を傾けようともしない者がいたらその町はソドムやゴモラよりも重い罰を受ける。10:5~ 補足として、 バプテスマのヨハネとイエスさまが全く同じことを語る箇所がありました。 「悔い改めよ天の国は近づいた」 3:2バプテスマのヨハネの言葉 4:17イエス様の言葉 「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ...

マタイによる福音書25章(6) 聖書のことばを探してみる

注解書や辞典には頼らず、聖書のことばを探そうと考えました。 で、どんなふうにすればいいだろうかと考え、祈っておりましたが、ふと「マタイのことはマタイに聞いたらいいのかも」と思いつきました。 マタイは著者ですし、なにしろお弟子さんですから、たとえ話の深いところについてよく理解してはずです。理解した上で福音書全体を書いているとすれば、彼の書いた文章に何かヒントがあるかもしれません。 そこで、 イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というようなことをおっしゃった箇所と、それとは真逆のことをおっしゃった箇所を 全体をざっと読んでチェックし、記録することにしました。 そうすることで、マタイがイエスさまから学んだ良いことと悪いことの基準がはっきりするかと思ったからです。 イエスさまの厳しいみことば(概要と箇所) ・塩に塩気がないのはだめ(役に立たない)5章13節 ・ファリサイ派の人々の義にまさっていなければ天の国に入れない5章20節 ・(従来の教えよりも厳しい基準を示され)天の父が完全であられるように完全な者になれ5章48節 ・人の目を意識した偽善はダメ6章1節、5節 ・良い実を結ばない木(偽預言者)は切り倒されて火に投げ込まれる。7章15節、19節 (バプテスマのヨハネも3章10節で同様のことを言っている) ・天の父の御心を行う者だけが天の国に入る(行わなければ入れない)7章21節 ・イエスさまの言葉を聞くだけで行わない者は砂の上に家を建てた愚かな人に似ている7章26節 ・イエスさまが派遣したお弟子さんたちの言葉に耳を傾けようともしない者はソドムとゴモラよりも罪が重い10章14節、15節 ・人々の前でイエスさまを知らないと言う者はイエスさまも天の父の前でその人を知らないと言う10章33節 ・イエスさまよりも父や母、息子や娘を愛する者はイエスさまにふさわしくない10章37節 ・自分の十字架を担ってイエスさまに従わない者はイエスさまにふさわしくない10章38節 ・数多くの奇跡の行われたのに悔い改めなかった町々はティルスやシドン、ソドムよりも罪が重い。11章20節 ・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。12章32節 ・人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。...

マタイによる福音書25章(5)十人のおとめに生じた「差」

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 マタイによる福音書25章1~13節(口語訳) クリスチャンはキリストの十字架によって罪が赦された=義としていただいた者であるはずなのに、なぜ『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。 「十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。」 花婿を待ちわび、迎えに行く者は信者でしょう? なぜ、主人は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。ただ、そういうことを考える前に気付くべきことはこの十人は「花嫁」ではないということです。 再臨のキリストが花婿で教会(信徒)が花嫁であると教会や集会に通っていた頃に習いましたが、このたとえ話に登場する十人は花嫁ではありません。 信者が花嫁であるというのならこの人たちは信者ではないということになります。 行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われ...

マタイによる福音書25章(4)「天の国」

日本聖書協会様の聖書本文検索を使って調べてみたところ「天国(口語訳)、天の国(新共同訳)」という言葉はマタイによる福音書と旧約続編のエズラ記(ラテン語)2章37節(新共同訳)だけにしかない言葉のようでした。 天とは神さまのお名前の代わりに用いられている言葉なので、マタイが言うところの天の国とは、マルコ、ルカ、ヨハネによる各福音書、使徒、ローマ、コリント第一、ガラテヤ、コロサイ、テサロニケ第二、そして天の国と表現していないマタイの5カ所で使われている「神の国」という言葉と同じ意味だと考えられます。 ところで、「天の国」「神の国」という言葉は新約聖書には上述のように多用されているわけですが、旧約聖書では見られない言葉です。 そう言うと、ユダヤ教とキリスト教に違いや分断があるように聞こえるかもしれませんが、そうではなく、そういう語句が見られないというだけで、預言者によって預言されていたことです。だからこそ人々は「その国」を待望し、「王(メシア)」を待望していたのです。 ちょうど、今朝は詩編145編が通読箇所として与えられました。 145編を読むと、「天の国」「神の国」という言葉はなくとも、神さまは私たちの王なのだ、と思いますし、「天の国」「神の国」を理解することができます。 第145篇(口語訳) ダビデのさんびの歌 わが神、王よ、わたしはあなたをあがめ、 世々かぎりなくみ名をほめまつります。 わたしは日ごとにあなたをほめ、 世々かぎりなくみ名をほめたたえます。 主は大いなる神で、 大いにほめたたえらるべきです。 その大いなることは測り知ることができません。 この代はかの代にむかって あなたのみわざをほめたたえ、 あなたの大能のはたらきを宣べ伝えるでしょう。 わたしはあなたの威厳の光栄ある輝きと、 あなたのくすしきみわざとを深く思います。 人々はあなたの恐るべきはたらきの勢いを語り、 わたしはあなたの大いなることを宣べ伝えます。 彼らはあなたの豊かな恵みの思い出を言いあらわし、 あなたの義を喜び歌うでしょう。 主は恵みふかく、あわれみに満ち、 怒ることおそく、いつくしみ豊かです。 主はすべてのものに恵みがあり、 そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。 主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、 あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。 彼らはみ国の栄光を語り、...

マタイによる福音書25章(3)「目を覚ます」という言葉

だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 マタイによる福音書25章13節(口語訳) タラントのたとえを考えつつ、ふと目の行ったマタイによる福音書25章13節のみことばを読みました。 聖書ではどのくらいの数、上のマタイのみことばのようなニュアンスで「目を覚ます」という言葉が使われているのでしょうか。 日本聖書協会様の聖書本文検索 http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html を利用し調べてみましたら。驚くような数! とても引用しきれないので 福音書に限定してどんなものがあったのか引用させていただこうかと思います。 以下口語訳聖書から引用、文末のカッコ内に新共同訳と書いてあるところだけ新共同訳聖書から引用 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。マタイ24:42 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。マタイ24:43 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。マタイ26:38 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。マタイ26:40 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。マタイ26:41 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。マルコ13:33 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。マルコ13:34 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。マルコ13:35 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。マルコ13:37 「わ...

マタイによる福音書25章(2)聖書の世界の「財産管理」

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 マタイによる福音書25章14~17節(口語訳) 今日は聖書の中で財産という言葉を含む場所を検索してみました。 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。マタイ21章38節(口語訳) アブラハムは、全財産をイサクに譲った。 創世記25章5節(新共同訳) その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。 疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。 申命記21章16、17節(新共同訳) 財産を「もらえる」のは子どもですが、タラントのたとえのように、信頼できるしもべに財産を管理させるというシステムがあったようです。 創世記24章にはアブラハムが財産を管理させている様子が登場します。上で引用したイサクに財産を譲ったのが25章ですからその前の出来事です。 アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。 しもべは彼に言った、「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。アブラハムは彼に言った、「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。 天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出して...

マタイによる福音書25章(1)「怠惰から臆病へ」 翻訳の違いで気付いたこと

一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 マタイによる福音書25章24~27節(口語訳) タラントのたとえを読むたびに、 1タラント預かった者は損失を出したわけではなく全額返還できるのに、主人はなぜ「持っていない人」と評価して外の暗い所に追い出すまでの仕打ちをするのか。 1タラントを紛失することもなく保全するのにも労力はゼロではなかったはず。主人はなぜ「悪い怠惰な僕」と評価するのか。 そんな疑問を持ち続けておりました。 しかし、 先日購入することのできた聖書協会共同訳でこの箇所を読み、ある言葉が別の言葉に翻訳されていたのを読み、その瞬間、これまでわからないわからないと思っていたことがするするとほどけていくような気分になりました。 そのある言葉とは、口語訳では「悪い怠惰な僕よ」という言葉。 それが、聖書協会共同訳ではこう訳されていたのです。 「悪い臆病な僕だ」 ・・・おくびょうなしもべ?なまけ者じゃないんだ? 「怠け者」ではなく「臆病」だという主人の評価を読んだとき、 そうか、と思いました。 主人は旅に出かける前、3人と個人的にいろいろ話したのではないかと。 そして最後に主人は3人に「私はお前たち3人には特別に期待しているのだ。目をかけて個人的に訓練もしてきたのだからな。大丈夫、お前たちならきっとできるぞ。万一失敗したって大丈夫だ。責任は私が取るから。いいか、お前たちは何も恐れる...