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苦難の中で

今朝は詩編107編を読みました。   105編、106編と読みつづけてきて、イスラエルの歴史を考えつつ読んではおりましたけれども、同時に「人の一生」という観点で読めるような気がしてきました。 「人の一生」というふうに漠然と申し上げましたけれども、しかし実際に自分の頭の中に思い浮かんでいるのは私自身の歩んできた道です。 この世界に産み落とされ、死にそうであっても奇跡的に死ぬこともなく、 しかしそれゆえに本当にたくさんのことに耐えなければならなかったわけでありますけれど、 それは決して私だけがそうなのではなく、この世界に生きているすべての人がそういうことなのであって、 おそらく、 たとえどんなに幸せそうに暮らしていたとしても きっと完璧な満足などはなく、 それぞれ必ず人に言えぬ苦しみや問題を抱えているものです。 そして今は悲惨な状況に置かれていない人であっても 時が来たなら必ず衰え、死にゆくのですから 少なくともそれにともなう痛みや苦しみは必ずある。 詩編107編の作者は 「主」をほめたたえます。 天地を創造された聖書の神さまである「主」。   彼らは、荒れ野で迷い 砂漠で人の住む町への道を見失った。 飢え、乾き、魂は衰え果てた。     苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと     主は彼らを苦しみから救ってくださった。 主はまっすぐな道に彼らを導き 人の住む町に向かわせてくださった。     主に感謝せよ。主は慈しみ深く     人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。 詩編107編4~9節    4節の頭で、この詩編の作者は「彼らは」と書いていますから、 この詩では詩編の作者が直接体験したことを述べているわけではありません。 そういう苦難の中にいた「彼ら」の体験を詩編の作者は知っている、 そして、彼らの経験の中に、彼らが伝え続けてきたその苦しみの中での経験を真実であると信じていて、「だから…」という強い思いが与えられ、それゆえに「主を」ほめたたえる。 以前、出エジプト記を読んでいた時、私は大変な苦難に出会っていた人を見ました。それは、エジプトの王であるファラオ(パロ)とエジプトの国民です。 出エジプト記を読むとき、たいてい私は...

稲妻がひらめき渡る

 詩編18編(新共同訳)を読んでいたら、15節に「稲妻が散乱する」という表現にあることに気付きました。 そういえば、マタイ24章27節の 「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」というイエスさまの言葉の意味が今一つはっきりわからなかったんだ・・・ということを思い出し、 いい機会なので調べ学習をしてみることにしました。   וישלח חציו ויפיצם וברקים רב ויהמם׃ 「稲妻」はbaraq  ו ברק ים 「散乱する」はhamam  וי המם 18編と同じוברקיםという形でbaraqが登場するほかの箇所は出エジプト記の19章16節 三日目の朝になると、雷鳴と 稲妻 と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。  同じ形ではないけれど baraq が登場するほかの箇所をいくつか拾ってみると   あなたの雷鳴は車のとどろきのよう。 稲妻 は世界を照らし出し 地はおののき、震えた。詩編77編19節(新共同訳)     飛び交う 稲妻 うなりを上げる矢を放ってください。詩編144編6節(新共同訳)    殺すためにといであり、 いなずまのようにきらめく ためにみがいてある。わたしたちは喜ぶことができるか。わが子よ、あなたはつえと、すべて木で作ったものとを軽んじた。 エゼキエル書21章10節(口語訳) ということで、 ברק baraq というヘブライ語はまずは出エジプト記の御言葉から考えると「神さまのご臨在」というイメージのある言葉だろうということが分かり、さらに言えば、詩編144編5節6節7節、そしてエゼキエル書の内容から、神さまがさばきのために「天を傾けて降り」てこられるときに、「稲妻」が~ということなのだと考えられます。 引用箇所だけでなくほかにもそのようなイメージのところに ברק baraq が登場していますので、稲妻とはそういうものであるという共通認識が当時のユダヤ人にはあったと考えられます。だとすると、「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。」という言葉は、出エジプト記やダビデの詩編、そして預言書で神さまが天から地上に来られるときと同じよ...

ハバクク書3章を読みながら

何度も何度もハバクク書3章を読み返しておりました。   疫病はその前に行き、熱病はその後に従う。3章5節   イエスさまがもう一度来られる日。 その日を思いながら。     この御言葉の一節前にはこうあります。   その輝きは光のようであり、その光は彼の手からほとばしる。かしこにその力を隠す。3章4節     וְנֹ֙גַהּ֙  כָּאֹ֣ור  תִּֽהְיֶ֔ה  קַרְנַ֥יִם  מִיָּדֹ֖ו  לֹ֑ו  וְשָׁ֖ם  חֶבְיֹ֥ון  עֻזֹּֽה    「その輝きは光のよう」 光のようであるということは、厳密にいえば光ではない、けれども主の輝きは「光」のようである、とハバククは表現しています。   ヨハネの黙示録21章23節にもこのような表現があります。 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。   καὶ ἡ πόλις οὐ χρείαν ἔχει τοῦ ἡλίου οὐδὲ τῆς σελήνης, ἵνα φαίνωσιν αὐτῇ· ἡ γὰρ δόξα τοῦ Θεοῦ ἐφώτισεν αὐτήν, καὶ ὁ λύχνος αὐτῆς τὸ Ἀρνίον.       今、私たちには光が必要です。 世界中の人々にとって光が必要です。 否、厳密にいえば、それは今に始まったことではありません。 園を追い出されたあの時からずっと必要でした。 それは日や月の光ではありません。 ハバククやヨハネが語る主の輝き、 御手からほとばしる光線のような、 混沌に秩序を与える光。   わたしは地を見たが、それは形がなく、またむなしかった。 天をあおいだが、そこには光がなかった。エレミヤ書4章23節   この混沌としてしまった地、 主の与えたもうた秩序は破壊され、私たちはどうやってここで生きていけばよいのか、まったくわからない。太陽が地を照らそうが、月が夜の空に輝...

自分自身を騙すのは御心か、という問題

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「聖書信仰から」という言葉を入れてこの件に関して書くことについてはためらっておりましたが、 聖書の御言葉を読み、また、子育て経験の中で遭遇した薬害被害や接種事故経験、等々による「自分自身にしか語れない言葉」があるにもかかわらず黙り続けていることが正しいのかどうか祈り続け、思案し続け、 書かなければいけないと確信いたしました。   1.あなたの聴いている声はどこから来ているのか  まず申し上げたいことは、 地位を失う覚悟を持って、語り続けておられる「権力側に立っていない」研究者の方々の「危惧」というものに、まず、私たちは耳を傾けるべきだ、ということです。 なぜなら、私たちの主のおられるところは、まだ権力(この世の王)の中枢であるはずはないからです。 かすかな細い声で語られる神さまです。 神さまの弟子は、この時代の権力者の「大きな声で語られる言葉」を聴くときには十分に、いや、十二分に慎重であるべきです。   2.それは御心なのか 私たちがこの地上で、何かを行うべきか否かを判断しなければならない時、 第一とすべきことは 「神さまご自身がそれを行うことを望んでおられるか」 ということです。  あるクリスチャンは、日曜礼拝を守るために*を行わなければならないと言いました。 またある方は福音宣教のため、そして人々の健康と幸せのためには*はどうしても必要だ、と言いました。 たしかにおっしゃることはクリスチャンとして正しいことのように思えます。 が、おそらく、このように語っている方々は*というものについて、私たちがこれまでに何度も何度も経験してよく知っている「従来から存在している製品と同じようなものだ」と 勘違いされている のです。 従来行われてきたことは、 「疫病の 病原体自体 を無毒化または弱毒化して人体に感作させる」というものでした。 つまり、「起こりうる危険を 具体的に 」あらかじめ身体に学習させていたわけです。 それで、私たちはこの世に生を受けて少し経った頃から、国の規則に基づいて、「覚えるべきもの」を具体的に身体の中に入れて学習させるということ何度も何度も行い、恐ろしい疫病からまもられてきました。 しかし、これから行われようとしていることは、 これまで行われてきたこととは異なる「2段階システム」となっていて ...

エレミヤ書31章35節~37節を読みながら「アレ」を思う

太陽を置いて昼の光とし 月と星を夜の光と定め 海をかき立て、波を騒がせる方 その名を万軍の主と言う方 主はこう言われる。 もし、これらの定めが私の前から取り去られるなら イスラエルの子孫も、永遠に 私の前で民であることはできない――主の仰せ。 主はこう言われる。 もし、上においては天が測られ 下においては地の基が究められるなら 私もイスラエルのすべての子孫を 彼らのあらゆる行いのゆえに 退けることもありえよう――主の仰せ。 エレミヤ書31章35節~37節(聖書協会共同訳)   創造主による天地の創造を信ずるものは、創造主が混沌としたものにルールを与え秩序を与えてすべてのものを創造されたということを創世記によって信じています。 地球に暮らしていて毎日当たり前のように感じているすべてのことは、決められたルールの下で制御されているからこそ「当たり前」だと思えるのです。 重力であったり、大気圧であったり、空気の構成成分の濃度や分圧、海水の温度や成分であったり、細胞内の成分や濃度であったり、脳によるコントロールであったりそのほかの組織や器官の連携であったり さまざまなものにルールがなく適当であったら現在みられるような生き物は存在していないはずです。 しかもそれは大雑把なものではなく絶妙であり微妙なものです。アトピー性皮膚炎の患者や更年期障害を体験すればわかるわけですが、ごくごくわずかな量で大きな影響のある内分泌物質で知られている通り、神さまの定められたルールとは、肥杓で適当に化学物質をぶちまけるようなそんなバカげたものではないわけです。 わざわざ雑な例を挙げたとしても、温暖化だとか異常気象だとかの、そんな大きな環境の話であっても、何十度も変化しているわけではなく、ごくごくわずかの違い、そのわずかな違いであっても我々の生活には大きな問題が起こってしまう。 つまり、私たちの生活は一定の決まりのもと、大きな変動のない安定性というものの中で保障されているものです。 そしてそういう世界に生きている人間は安定した状態に一つの動点を与え、実験と称し、何が動くと何が変化するのかということをひたすらに追求し続け多くの書物に表してきたわけです。~とは~である、という定義、そして、変化を関数で表し、自分たちの生かされている地球における様々なものを「理解」してきたわけです...

人間に求められていたこと

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。  神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。  創世記1章26~28節(口語訳)  創世記1章26~28節を読みました。 神さまが人に求められていたことは何だったのか ヘブライ語の単語を一つ一つチェックしながらゆっくり読み進めていく中で 治める  רָדָה  raw-baw' 従わせる  כָּבַשׁ  kaw-bash' という二つの言葉が心に留まりました。 私たち人間が神さまから命じられていたことは  אֶרֶץ  eh'-rets=「地」 を従わせること、そして海の魚と空の鳥と地に動くすべての生き物を治めることだった・・・ そして思いました。 果たして人間は地を従わせているのだろうか、そして、生き物を治めているのだろうか、と。 もちろん、やってはいるのです。 しかし完全にはできていない。 というか、科学技術の発展によっていろいろ出来ているような気はしていたのにだんだん出来なくなっているような気がする今日この頃。   創世記で神さまは一つ一つクリエイトし、それぞれに秩序を与え役割を与えられました。その創造という行動は「茫漠」、「混沌」としていたものに「界面」を与えて「分けて」いくこと。曖昧なものにくっきりと境界を定めていくことでした。そして神さまは創世記2章19節で、人にこんなことをさせます。   そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 創世記2章19節   名を付けるという行為。名を付けるという行為の土台は「分ける 分類する」ということです。神さまのつくられたこの動物とその動物は似ているかもしれないが別物なのだ、こちらの動物にはこういうかたちや性質があって、そちらの動物とは...