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マルコ1章15節(8)神の国とは

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳) 日本聖書協会の聖書本文検索で「神の国」という言葉を検索すると新約聖書だけにしか存在していないことがわかります。ちなみに「天の国」や「天の御国」「御国」という表現も新約聖書だけにある表現です。 が、もしも聴衆が「神の国」という言葉を知らないのであれば「神の国は近づいた」というメッセージは何の意味もないことになります。 したがって当然のこととして「神の国」という概念は旧約聖書にもある、 というか、概念どころか 聖書(トーラー)の一丁目一番地は分断無きハ・シャマイム(天)とハ・アレツ(地)。 一体のものである天と地が創造されたということであり、 天におられる神さまが地を支配している、そして「人」を置いて管理させることにしたという、そこから始まっているわけです。 そう、創世記の初めに描かれる創造された「天と地」はヴァヴでつながっているのです。天は天であり地は地でありそこには秩序がありそれぞれは別のものでありますがヴァヴという文字で結合している。結婚する男女と似ています。それぞれは別のものであるけれども結合して一体となる。 天と地はヴァヴにより一つのものとなっている。それが創造された当初のものです。 「神さま」がハ・アレツ(地)の王であったのです。 にもかかわらず・・・・な歴史を経て いよいよ本来の姿に戻るというのが新約で語られるところの「神の国」。 詩編を読むと神の国のイメージがしっかりとつかめます。 (いくつかの箇所を聖書協会共同訳聖書から引用します) わが王、わが神よ。5編 主こそ王 10編 王権は主にあり主こそ国々を治める方。22編 栄光の王 24編 全地に君臨する偉大な王 47編 まことに神は全地の王 47編 כי יהוה עליון נורא מלך גדול על כל הארץ׃ 神聖四文字のお名前を持つ方がいと高き方恐るべき方で偉大な全地の王であると47編には書いてあります。 さて、神の国という言葉は口語訳聖書のマルコによる福音書には14回登場します。 まずは1章15節ですが、次に出てくるのは4章11節で「神の国の奥義」という話題での登場です。 4章11節 そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬...

マルコ1章15節(7)神の国は近づいた

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコ1章15節(口語訳)   イエスさまは「時は満ちた」という宣言をされました。 それは、神さまの定められた「時」に至ったということですから イエスさまが神さまと等しいお立場であるということがわかります。   そしてつぎにイエスさまは「神の国は近づいた」と宣言されました。 今日はこの御言葉について考えを巡らせてみたいと思います。     実はこの「神の国は近づいた」という表現が以前からとても分かりにくいと思っていました。       「神の国」をディズニーランドのような「場所」であるととらえた場合、 例えば「ディズニーランドは近づいた」と言われると、「場所」は動きませんから話者側がディズニーランドに向かって移動している状況をあらわしているように読めます。 ただ、ディズニーランドという言葉が日本語でありがちな「ディズニーランドに行く日」の省略形であると考えた場合、時間の経過に伴う心理的な変化(わくわくしたよろこび)を表現しているのかもしれず、その場合には話者とディズニーランドとの物理的な距離が語られているわけではないということになりますが、 たぶん聖書にはそのような省略形を使うことはないでしょう。   次に「神の国」が場所ではなく「移動することのできる物体」のようなものであるととらえた場合、 「神の国」という物体が向こうからこちらへ意思を持って物理的に近づいてきているとも考えられます。 また、話者自体も移動可能だということも考えるなら両者が同時に移動して近づいていく可能性は生まれますが、 このケースでは「時は満ちた」「神の国は近づいた」と並列されているので、「時が満ちた」という文が完了の意味として受け止められるから「近づいた」という言葉も完了したこととして読むのが適当だと思えるので、話者は静止状態で「神の国」というものがすでに近くに来ているのを「見ている」   そのほか 何か個人的な悩みや問題を抱えた読者が読んだ場合や、 直前になにか衝撃的な出来事を見聞きした人が読んだ場合には、さらに別の視点が与えられるのかもしれませんし、 なんらかの宗教的な背景を持っておられる方が読ん...

マルコ1章15節(6)コヘレト3章、そしてギリシャ語「時」の調べ学習

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳聖書) καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ. ΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:15 Greek NT: Nestle 1904 時は満ちた 、という言葉を聞くと思い浮かぶのは קֹהֶלֶת コヘレト3章です。   天が下のすべての事には季節があり、 すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、 植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 殺すに時があり、いやすに時があり、 こわすに時があり、建てるに時があり、 泣くに時があり、笑うに時があり、 悲しむに時があり、踊るに時があり、 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、 抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 捜すに時があり、失うに時があり、 保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、 黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、 戦うに時があり、和らぐに時がある。 口語訳聖書 伝道の書3章1~8節   クリスチャンになったかならないかという中学生のころ、リビングバイブルか何かで伝道の書を読んだのですが どこを読んでもわかったようなわからないような、いや、さらっと読み流すのならば人生訓のようで読みやすいのですが、なんとなくキリスト教的ではないような 小さいころ強制的に読まされていた新宗教の教えの言葉にも似ているような変な書だなあ、と思っていました。   しかし年齢を重ねた今この書を読むと、 いや、年齢の問題だけではなく、まっとうなキリスト教信者として終わることができなかった自分には、 若いころには感じえなかった「平安」がここに見える。   天が下のすべての事には季節があり、 すべてのわざには時がある。 と語られた言葉を読み そのあと11節から語られる言葉を読むと   自分には、かつての自分が「そういうものだ」と考えていた「善良なキリスト教徒」に戻らなければ、という気持ちが一切なくなる、と...

マルコ1章15節(5)ヘブライ語の「満ちた」からギリシャ語の「満ちた」へ

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。マルコによる福音書1章15節(以下引用は断りがないかぎり口語訳です)     「満ちた」という意味に該当すると考えられるヘブライ語の単語は Strong's Hebrew 4390  מָלֵא  male or mala ではないか、と私は考えます。     4390番は253回登場する言葉です。   一番初めに現れるのは創造の時。   創世記1章22節 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に 満ちよ 、また鳥は地にふえよ」。  創世記1章28節 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に 満ちよ 、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 しかし現実の世界は神さまの御言葉からどんどん離れた方向に行っています。 海に網を降ろしても魚は取れず、 地に目を向けてみても、   干上がるイラクの大湿地帯、地元漁師ら「大量脱出」 https://jp.reuters.com/article/iraq-environment-marshes-idJPKBN2XU0AE という6月11日付のニュース     2022年8月22日のAFPでも 干上がる「エデンの園」 イラク・メソポタミア湿地帯  という記事に衝撃的な動画がアップされていました。 https://www.afpbb.com/articles/-/3420032     「エデンの園」のモデルとなった土地だと、一部では信じられてきた場所のこうした事態。 「満ちる」の真逆の姿に至ってしまったようにすら見える「地」。         もっとも、ヘブライ語の「満ちる」という言葉は、 日本語の「満ちる」という言葉と同じように必ずしも良いことや良い物が「満ちる」というときだけに用いられる言葉ではありません。   創世記6章11節 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に 満ちた 。 この箇所にある「満ちた」という言葉も4390番です。     ...

マルコ1章15節(4)律法

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節(口語訳) 前回の「マルコ1章15節(2)時は満ちた」という記事の最後に   時が満ちるという表現はヘブライ語聖書にもあります。 出産の時が満ちると、胎内には、果たして双子がいた。創世記25章24節(以下聖書協会共同訳) 「エルサレムに優しく語りかけ/これに呼びかけよ。/その苦役の時は満ち/その過ちは償われた。/そのすべての罪に倍するものを/主の手から受けた」と。イザヤ書40章2節 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたらすぐに、私はあなたがたを顧みる。あなたがたをこの場所に帰らせるという私の恵みの約束を果たす。エレミヤ書29章10節 Strong's Hebrew 4390 מָלֵא  (maw-lay')という言葉が使われています。 ということを書きました。   よく言われることとして、イエスさまは「アラム語」を話されていたというのがあります。 イエスが使った言語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%8C%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%A8%80%E8%AA%9E   実際にイエスさまが何語を話されていたのかわかりませんが、 もしもイエスさまが日本に来られたら日本の人とコミュニケーションをとる必要から日本語を話されたのではないか、と思っています。   使徒行伝2章4節には(以下口語訳聖書から引用します) すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。 という記録がありますが ここに記されているいろいろな他国の言葉がどんな言葉であったかと言えば、使徒行伝2章5節6節に記されているように、 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。 エルサレムに住んでいたあらゆる国々出身の方々が理解できる言葉であったわけです。     言葉というものは...

マルコ1章15節(3)日本語の聖書における「満ちた」という言葉についての詳細

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」マルコによる福音書1章15節 にある「満ちた」というところに使われているギリシャ語は  Strong's Greek 4137  πληρόω  で、 Englishman's Concordanceによると、これは88回使われているということなのですが https://biblehub.com/greek/strongs_4137.htm なぜかヨハネの黙示録ではわずか2度、3章2節と6章11節にしか出てこないのです。 3章2節 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに 完全 であるとは見ていない。 6章11節 すると、彼らのひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、「彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が 満ちる まで、もうしばらくの間、休んでいるように」と言い渡された。 黙示録なら満ちるものはもうちょっとあるような気がしたのですが   で、調べてみましたら まずは Strong's Greek 1073   γέμω  (ghem'-o) 動詞 が使われているというのがあり、   4:6 一面に 目がついていた 4:8内側も目で 満ちていた   5:8香の 満ちている 金の鉢 15:7神の激しい怒りの 満ちた 七つの金の鉢  17:3 その獣は神を汚すかずかずの名で おおわれ 17:4憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで 満ちている 金の杯  21:9最後の七つの災害が 満ちている 七つの鉢       そして、1073番の言葉を起源とする、これも動詞ですが Strong's Greek 1072 γεμίζω  (ghem-id'-zo) が使われているものというのもありました。   8:5 祭壇の火を 満たして 15:8 聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で 満たされ     以上引用したのは口語訳聖書です。   ところで、 ここまでの3つの言葉が使われていない「満ちる」という日本語がいくつも聖書協会共同訳の黙示録にはありまして ...

マルコ1章15節(2)時は満ちた

「時は 満ちた 、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」 マルコによる福音書1章15節 καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ. 今日は口語訳聖書で言うところの「満ちた」という言葉に注目します。   日本語で何かが「満ちる」というとき、私たちはどういうものをイメージするかというと カップが水でいっぱいになりこれ以上は注げない状況 つまり、何か一定の大きさのものがあり、それが少しの隙間もなく入っている状況です。   では、マルコの福音書の著者が書くイエスさまの第一声「時は満ちた」とはどういう意味でしょう。   トーラーを持たない異邦人、聖書に触れたことのない方々にとって、この言葉は本当は意味不明であるはずなのですが、 通常の読書のような気分でこの箇所を読んでしまうと、「満期」だとか「任期満了」とかいう日本語を知っているがゆえになんの疑問も持たずに通り過ぎることができる。 そして、もしかしたらThe Time has comeと脳内で変換して納得しているかもしれません。もっともNIVの翻訳ではここはThe time has comeとなっているのですが、しかしここはThe time is fulfilledなのであって、has comeだと意味が変わってしまいます。「時が来た」ではないのです。「時が来た」と言ってしまうと、ある「時」という一点が存在し、時の流れに身をまかせているうちにその瞬間が向こうからやってきて到達した、ということで、 「時が満ちる」というのは定められた「時」に向かって、ずーっとずーっと物事を積み上げてきて、絶え間なく積んで積んで・・・ようやくそこに到達することができたということだからです。   マルコ1章15節の「満ちた」という表現は ギリシャ語の聖書では Πεπλήρωται と書かれています。   Πεπλήρωται (Peplērōtai) という形の言葉は聖書の中に5回登場していて その一番目がこのマルコ1章15節です。 そして後の4回は以下の箇所で、口語訳聖書では太字のような日本...

マルコ1章15節(1)人となられた神~創世記とマルコによる福音書

マルコによる福音書1章15節「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 καὶ λέγων ὅτι Πεπλήρωται ὁ καιρὸς καὶ ἤγγικεν ἡ βασιλεία τοῦ Θεοῦ· μετανοεῖτε καὶ πιστεύετε ἐν τῷ εὐαγγελίῳ.   口語訳聖書とΚΑΤΑ ΜΑΡΚΟΝ 1:15 Greek NT: Nestle 1904から引用しました。   日本語の口語訳聖書では、ギリシャ語聖書の冒頭にある   καὶ λέγων  英訳するとand saying   という言葉が前節に含まれたような形になっていますが、この καὶ λέγων  and sayingという言葉は ヘブライ語の創世記における特徴的な表現です。 創世記1章の3、6、9、11、14、20、24、26、29節の冒頭に見られる וַיֹּ֥אמֶר   という言葉が καὶ λέγων に該当すると私は考えます。       そういうことを意識して ギリシャ語のマルコによる福音書1章の冒頭から読んでみると この福音書はヘブライ語聖書の創世記に似ているのです。 何を持って似ていると思ったのか、と言いますと、 ヘブライ文字 ו ヴァヴに該当するような語が各節の文頭に来ているということ。 ヘブライ語聖書の御言葉は、例えば創世記1章を見ると、2節以降文頭がみんなヴァヴ、英訳すればandなのです。 創世記1章の各節の冒頭を引用してみます のでご覧ください。1節は先頭なので2節から引用します。ヘブライ語は右側から読みます。ピンク色の文字が ו ヴァヴです。 2節  וְ הָאָ֗רֶץ 3節  וַ יֹּ֥אמֶר 4節  וַ יַּ֧רְא 5節  וַ יִּקְרָ֨א 6節  וַ יֹּ֣אמֶר 7節  וַ יַּ֣עַשׂ 8節   וַ יִּקְרָ֧א 9節  וַ יֹּ֣אמֶר 10節  וַ יִּקְרָ֨א 11節  וַ יֹּ֣אמֶר 12節  וַ תּוֹצֵ֨א 13節  וַֽ יְהִי־ 14節  וַ יֹּ֣אמֶר 15節  וְ הָי֤וּ ...