2025年3月17日月曜日

こういう時代を生きていくために(3)

こういう時代に生きていると、


たとえクリスチャンであったとしても
いや、クリスチャンだからこその不安というものがあるような気がします。

この辺りのことについて

「あさっての自分」のために書きのこしておくよう導かれました。

(心身の状態が良い日に、落ちた日の自分へのメッセージとして書いています)



この時代を生きていくために

特別なことは考えなくてよいのだと「今は」思っています。

かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。

ヨハネによる福音書14章でイエスさまがこう語っておられますが


主はあの日も今も行方不明なのではなく、
遠い遠い天の果てにいらっしゃるわけでもなく

今ここに、私とともにいてくださる神さまです。

いつになっても王が迎えに来てくれない捨てられた民ではなく、

私のように仲間もいない孤独な羊のように見えても全く孤独ではないのです。

なぜなら

神さまはいつも私が見るのと同じものをご覧になり、

神さまはいつも私が聴くのと同じ言葉をお聴きになり、

神さまはいつも私の悲しみを私の苦しみを
そして私の喜びを一緒に味わってくださるお方だからです。


神さまが共にいてくださるのですから

どんなことが起ころうとも
いつもと同じように過ごせるのがクリスチャンだと思います。

ダニエル書というところにこんな言葉があります。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。ダニエル書6章10節

ここに書かれている「文書」というのは、
ダニエルのことをねたむ者たちによって編み出された彼の命を奪うことを正当化するための禁令の文書で「もしも王以外のなにものかに願い事をするならば獅子の穴に投げ入れる」というもの。
ダニエルはまことの神さまを礼拝する人でありましたから、王以外のなにものかに願い事をするのは当然で、そこを狙った文書だったわけです。

ああ、ホーリネス弾圧事件を思い出します。

結局、聖書の中においても、どの時代、どの国においても、ことのまんなかにあるのは、
まことの神さまとそうでないものたちの闘いであるのです。
私たちは弱い。けれども私たちの真ん中に住まわれる方は最上にして最強のお方ですから

最終的な勝利をおさめるのは
まことの神さまでありますけれども、
そこに至るまでの間はダニエルが経験したような事態が起こりうる。


けれどもダニエルは私たちに大切なお手本をのこしてくれました。

こんな局面にあっても彼は
「以前からおこなっていたように」
一日に三度ずつひざをかがめて神の前に祈り、感謝した、というのです。

誰にも見られないように祈ればよいのに、
そう、隠れたところで祈るということは決して悪いことではないのです。

しかし、ダニエルはあえてそうしなかった。
ダニエルはまことの神さまに信頼し、すべてのことを完全におまかせしていたのですね。


ただ、この場面を読むたびに思うのは、弱い自分は絶対ダニエルのようにはできない、ということです。

しかし、おそらく、
神さまは私のような者にはこういうことは求められない、というような気もします。

と言うか、
人にはそれぞれ「置かれている場所」というものがありますので、

誰もがみんなダニエルではないし、
誰もがみんな石破総理ではないわけです。

一人ひとりが、それぞれに置かれた場所で、
それぞれ別の壁にぶつかり難題を抱え
真剣に考えなければならないときというものがある。

そうした瞬間に

私たちがどうしたらよいか、という事、

岐路に立たされた時にどうしたらよいか、という事

ダニエル書6章10節はそういう時のお手本になるのだと思います。


どんなことがあろうとも

主を信じ、
決して思い煩うことなくいつも同じように歩んで行く。

永遠から永遠までをご存じである方を信頼し、期待する。

そして、三次元の中の小さな一点を見て怒り、呪いの言葉を吐くのではなく

私たちの主であるお方は愛する者には必ず「理解を越えたレベルの」最善をなしてくださるのだ、ということを

最悪と思える瞬間にこそ
これまでに経験した様々な主の憐れみを思い出し、
信じ続ける事が出来ますように。




そして最期まで


♪ひとあしひとあし主にすがりて
たえずたえずわれは進まん。

と歌い続けることが出来ますように。