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食べられる「雑草」

毎日恐ろしい暑さですね 何かが異変が起こったり何かに遭遇した時、人はいろいろな反応をするわけですが、それは当然それまでの人生経験と思考癖(思考パターン)に大きくかかわってくるはずです。 だから、もしも終末に一人が取られ一人が残されるという事態になるのだとすれば、そしてそれが淘汰のようなものならば、自分で判断する能力のない、そして経験の乏しい幼児には「たとえ彼らが一人の人間であったとしても」適用されないはずです。 ・・・というような、くだらないことをまじめに必死に考えていた日々は一応過ぎましたが、 そう、こういう条件設定でいくらでも変わり得る「無益な話」は「教え」として整える必要はないですよね。秘されている「行間」については個人が自由に思えばいいこと。統率する都合上、正答はあるほうがいいのかもしれませんが、それが間違いのもと。まあ、おおもとが改ざんじゃ、細かいことを真剣に議論する必要もない。  さて、 令和の米騒動がはじまったころ、 日照り、飢饉、という子供のころ読んだ昔話に頻度高く登場したその言葉を思い出してふるえておりました。 「いちいちあんたは過剰反応する」とみんなから嗤われるだろうなあと思いながら私がやったことは、植物図鑑を引っ張り出してきて身の回りにある植物を「食べられるか否か」分類することでした。 ☠毒 スイセン、ヒガンバナ科の花、オシロイバナ、チューリップ、アジサイ、ダリア、スズラン、フクジュソウ、スイートピー、シクラメン、アイビー、ポトス、ツルニチニチソウ、コニシキソウ・・・ シクラメン?はドラマ「朝鮮心医ユ・セプン」で猛毒な草として登場したのを見て以来恐怖でしかないわけですが(断邪草ってどう見ても小さめなシクラメンでしたよねえ?) 「薬屋のひとりごと」で猫猫(まおまお)が言っていた通り、私たちの身の回りには毒をもつ植物がたくさん生えています。 ね、だから、たとえばこういう毒草の知識によって取られるの取られないのと言う話になるのだとしたら・・・とか考えると・・・そういう淘汰がそんなところで適用されるというみことばだなんて誰も考えないだろうし、ありえないでしょう?そして、 コケは…安全みたいなのですが、我が家に生えている苔類は…いろいろとヤバいものを蓄えていそうな気がするのでこれは毒ではないけど食べない方がよいというか、最後の最後の食糧かな?とか...

「つる植物」と格闘しながら考えたこと

朝、ゴミ出しに行こうと思って外に出たら、あちこちがこんもりした緑に押しつぶされるような感じになっていました。 つい先日、頑張って草取りや剪定をしたばかりなのに…と思ってよく見たら、住人不在で荒れてしまった隣家から伸びてきたあれやこれやの「つる植物」が我が家の木や草に絡みつき、大きな葉を茂らせてこんもりと見えていたのです。 それにしてもものすごい生長スピードだと思いました。寄生する性質のものではないように見えますが、この調子では絡みつかれた植物は日があたらなくなり枯れてしまうかも…。かわいそうになり…ベニカナメの上部を覆っていた「つる」に手を伸ばし引っ張ってみました。 すると、ずるずるずるずる、引いても引いても終わりません。力はさほど必要としないのですが、ずるずるずるずる、ベニカナメわずか二本に、大きなゴミ袋一袋がいっぱいになってしまうほどの量のつる植物が絡みついておりました。で、この調子では一体何枚の袋が必要になることかと不安になりましたので、つるを取り除いてゴミ袋に詰めることはあきらめ、つるのあちこちにチョキチョキ切込みを入れ、枯れるのを待つことにしました。 作業を終え、ゴミ出しも終え、流れる汗を拭きながら、ふと、 そう、40年以上クリスチャンをやっておりましたのでね、何を見ても結局聖書の言葉を思いついてしまうわけですが、つるにチョキチョキ鋏を入れながら「終末ってこうことなんだよなあ」と思ってしまったわけです。 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなる さばき をもって、あなたがたをあがなうであろう。出エジプト記6章6節(口語訳) まずはこうやってごくたまにしか「み言葉」を思うこともしなくなった今の私が「つるにおおわれて光から遮られた樹木」であると「つる」をぎゅうぎゅうゴミ袋につめながら思ったわけです。種がまかれ芽を出したのに、おまえはつる植物に覆いつくされて死んでしまったのだ、と脳内の私が責めてくる。 でも本当にそうなのだろうか、と、「鋏」を手にしてチョキチョキつるを切りながら思ったわけです。「救い」とは…このチョキチョキ…こういうことのような気がする、と。 鋏を入れられた「つる」は、しばらくのあいだは青々しているでしょうが、強い日の光に照らされて...

消えていく

 いろいろな業界における深刻な人手不足の話が伝えられる今日この頃。 そしていろいろな災害がつぎつぎと襲ってくる今日この頃。 高齢者が増え人口が減少しているこの国で 居住地を自由に選んだり仕事を自由に選んだりというそういう自由は、 たとえ誰かが制限をかけなかったとしても 消えてなくなっていくんだろうな。 やむを得ない、というあきらめの言葉をつぶやきながら。

最近見ていた「治愈系恋人」

 周回遅れおばさんなので、少し前のドラマを眺めているわけですが、CSでちょっと見て興味を持った「癒やしの恋人」がYouTubeで「治愈系恋人 Love is Panacea」として全話配信されていたので暇な時間に一気見させてもらいました。とにかく泣きました・・・。 前にハマった「爱你」も医療系、この「治愈系恋人」も医療系。 あ、今気づいたんですが、 あまりに「ケンカ」の場面が激しすぎてPTSDが出てしまうという理由で避けていた韓国ドラマ、実は大丈夫なものが二つ見つかりまして、一つは「朝鮮心医ユ・セプン」そしてもうひとつは「愛を処方いたします」です。「ユ・セプン」の方は「鍼が打てなくなった天才医師が、村で人々の「心」の病を癒やす「心医」として成長していく・・・」というお話、そして「愛を処方・・・」の方は、直接的な医療系ではないですが、因縁の絡み合う韓方医の家庭と西洋医の家庭の物語で、 私って医療系ドラマが好きなのか?・・・きっと癒されたいんだろう(笑) で、「治愈系恋人」の話に戻りますが、 泣いた理由は3つあるのです。 ひとつは、当然のこととしてストーリーそのものというか、登場人物たちがそれぞれに問題を抱えながらもそれぞれと出会い、そのかかわりの中で癒されていくという過程の良さでしょうか。(壊れていく人たちもいましたが、癒しに向かうのか破壊に向かうのかという分かれ目が非常にわかりやすく、教育的な印象を受けました。) そしてふたつめは、感動の涙ではなく悲しみの涙です。研究者の置かれている状況の悲惨さですね。 流行の最先端を行くような派手な研究にはたくさんの助成金が与えられるけれども、地味な研究は、たとえそれが人の命にかかわるものであっても冷遇され、たとえ研究者が優秀で良い着眼点や解決に至らしめるために必要な知恵を持っていたとしても、研究を進めることができないわけです。 ドラマでは、切羽詰まった状況で自宅を売りに出す場面まであるのですが、だったとしても高額な機器は買うことができず、…知恵を使い、いろいろ工夫し、命を削って頑張り続けるヒロインに、ああ、思い出すだけで涙が止まらない。 彼らはどんなに頑張っても、いや、頑張りたいと願っていても「公費やスポンサー企業によって高額の助成を受けられる研究者」のようには実験がスムーズにできないから、結果が出しにくいし出せても遅く...