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現代の地上戦

 日本の企業等に対する大規模なサイバー攻撃や不正アクセスによる情報漏えいが相次いで発生しています。 これはつまり 日本語を使う人々全員に対する攻撃が発生しているということです。 タイトルに地上戦と書いたのは、敵国を思い描いたからではなく、沖縄の地上戦を思い出したからです。 火薬を使って破壊するよりも効率よく、日本国民に対して一気に大きなダメージを与えることができる戦争のかたち。 すでに、具体的な被害ははもちろん、ターゲットとされた日本語を使う人々「全体に」漠然とした不安を与えること、そして、企業や政府に不信感や怒りの感情をもたせることに、犯人たちは成功しました。 不信感や怒りの感情はやがて国民の一体感を損ね敵に向かって一体となるべき集団内での争いにつながっていきます。 そうやって、表向きはいかにもお利口そうに見え、いかにも整然としているように見える日本が崩れていく。 果たして、日本の企業は、否、 選ばれない安い国になってしまった日本は 対抗することができるのでしょうか。 テレビで、暗記した知識を吐き出して見せて得意そうな顔をしている高偏差値大学出身の高学歴の人々を見るたびに、3S政策を思い出し、頼むからその能力とエネルギーを人間にしかできないクリエイティブなことに使ってくれと願っていたものですが、 「親の自転車にはいったい何歳までの子供をのせてよいものか」などという、個々の判断で時と場合によって自由に判断させたらよいだろうと思うようなことまでルールとして示さなければならないような国になってしまった。 資源もないのに トップ10%論文数の世界ランキングで日本はトップ10入りできない状態は続き 「科学技術立国」・・・どうしてこうなってしまったのでしょうか。 気付いたときには、泥棒を見てから縄を綯うような国に、否、縄を綯いたくても綯えない国になっていた。 火も煙もがれきも見ることはないけれども、国民が自分の命を守るために右往左往する日本。国民を守ってくれない日本。飢えた子供は今以上に増え、野生生物のコントロールも出来ないままに、大雪、大洪水、大地震、大噴火が襲い掛かって 崩壊する日は近いのかもしれません。 どうしたものか。 ・・・困ったね。

メシアの命を生きる

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(お蔵入りした2016年8月22日に書いた記事を公開)   「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 (略) 「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」 (略) 「娘よ、起きなさい。」 (略) すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。 ルカによる福音書8章50~55節 今日はルカによる福音書の8章40節から56節までを読みました。 会堂長ヤイロの12歳ぐらいの一人娘に起こった出来事について書かれているところです。 以前にもマルコの福音書のところでヤイロのお嬢さんの話を書いたことがありますが、 今日もまたヤイロのお嬢さんの件で思うところがあったので書こうと思います。   冒頭に引用した御言葉は、ヤイロのお嬢さんが「亡くなった」という報告を受けたあとにイエスさまがおっしゃった言葉と、ヤイロのお嬢さんが起き上がったという場面について書かれた御言葉です。     ヤイロのお嬢さんが「亡くなった」という報告を聞いて、イエスさまがまず最初におっしゃったのは 「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 という言葉でした。   いったいこれはどういう意味なのでしょうか。   他意はなく、文字通りのことだ、とは思うのですが、   死にかけている一人娘のもとに、イエスさまに来ていただこうと必死の思いで歩みを進めていたヤイロ。そこに知らされた「亡くなった」という知らせ。 そのヤイロにかけられた主のこの御言葉をヤイロはどんな思いでとらえたのでしょうか。 また、私たちは、このヤイロの立場に立ったとき、主の御言葉をどのように聞くのでしょうか。   「恐れることはない」 ヤイロは、そして私たちは何を恐れているのでしょう。 ヤイロ、そして私たちが恐れているのは「死」です。 生きていると、毎日いろいろな場面に出くわしますが、 結局、「恐ろしい」と思うのは自らの死、大切な人の死であります。 事件や事故にしても台風や地震や津波のことにしても 恐ろしいと思うのはいのちを脅かされると思うからです。 そして今、この場面でヤイロはまさに「死」に直面している。 大切な、大切な一人娘のいのち。 先ほど「『恐ろしい』と思うのは自らの死、大切な人の死」 ...

時がある 時が来る

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(お蔵入りした2012年3月4日の記事を公開) 「天の下では、何事にも定まった時期があり、 すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。 植えるのに時があり、 植えた物を引き抜くのに時がある。 殺すのに時があり、いやすのに時がある。 くずすのに時があり、建てるのに時がある。 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、 石を集めるのに時がある。 抱擁するのに時があり、 抱擁をやめるのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。 保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。 黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。 戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」 伝道者の書3章1~8節 おととい、昨日と私はマルコの福音書5章を読んでおりました。 福音書では、いろいろな方がイエスさまに出会っていくわけですが、ここマルコの福音書5章でもまたイエスさまと個人的な出会いをされる方々の様子が描かれています。 一人目の方は「汚れた霊につかれた墓場に住みついている方」。 この人は夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分の身体を傷つけていました。 イエスさま:「汚れた霊よ。この人から出て行け。」 汚れた霊につかれた人:「いと高き神の子イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。…」 つぎに登場するのは「豚を飼っている者たち」。 先ほどの人から追い出されたたくさんの「汚れた霊」を イエスさまが豚に乗り移らせたため、 2000匹ほどの豚の群れが険しいがけを駆け降り、湖になだれ落ちて、おぼれてしまったのでした。 つぎに登場するのは逃げ出した豚飼いたちの話を町や村々で聞いて見に来た人々。 この人たちは、あの、悪霊(汚れた霊)につかれていた人が着物を着て、正気に返ってすわっているのを見ました。そして、一連の事件の目撃者の人たちから事の詳細を聴き イエスさまに対してこの地方から離れてくださるように願った、と聖書に書いてあります。 そしてつぎに登場するのはデカポリス地方の人々。前述のイエスさまに悪霊を追い出していただいた方が、イエスさまが自分にどんなに大きなことをしてくださったかをデカポリス地方で言い広め始め、...

reveal (2)

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書いたことをすっかり忘れておりましたし、公開しておりませんでしたが、10年前(2016年の5月)に書いた文章がありました。読み返してみたら、revealだったので前回の文章との絡みで公開することにしました。 その瞬間の選択 2016年5月14日 東亜建設工業による滑走路工事における施工不良隠蔽問題、三菱自動車の燃費データ不正、東洋ゴムの免震装置ゴムの性能データ改ざん、旭化成建材らによるくい打ち工事のデータ改ざん、東芝の不適切会計、フォルクスワーゲンの排出ガス規制に関わる不正、FIFAの汚職、ロシアのドーピング問題…   2015年から2016年に明るみに出た自分の記憶に残っている不正を挙げてみました。(順不同)     なぜ、わざわざ「不正」などというものを列挙したかと言いますと、   今日は通読でマタイの福音書の14章の前半部分(国主ヘロデがバプテスマのヨハネの首をはねる経緯等)を読んだのですが、おそらくは軽い気持ちで行ったであろう不倫に始まり最後は殺人に至るヘロデの物語を読みながら、この頃やけに多く感じる不正の、顛末を一つ見たような気がしたからです。   ヘロデ大王の息子で、バプテスマのヨハネがいた時代にガリラヤとペレヤの国主をしていたヘロデ・アンテパスは、異母兄であるヘロデ・ピリポの妻であるヘロデヤと不倫関係にあり そのことについてバプテスマのヨハネがヘロデに対し、「あなたが彼女をめとるのは不法です。」と非難したのですね。 で、 「ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。」(マタイ14章5節) 非難されて頭に来て殺意を抱くのだけれど…人気を失いたくないので思いとどまり、   また、マルコの福音書6章を見るとこう書いてあります。 「ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。」   ヘロデは、正しい聖なる人だと「知って」、ヨハネを恐れ、ヨハネという神に選ばれた特別な人物をヘロデヤの手から保護していたと。そして、当惑はしても、喜んで神の言葉に耳を傾けていたというわけです。   しかし事...

reveal

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12年前のある朝、ふとrevealという言葉が頭に浮かんだことがありました。 原発事故後の諸々について、隠されている物事が明らかにならなければ、たとえ法があったとしても裁くことはできないのだ、と、そんなことを考えていた時期でしたから、そんな一語が思い浮かんだのかもしれません。 …とか考えていたら、 5年前の10月の朝の写真に聖書の言葉をのせた画像がフォルダに保存されていることに気付きました。 10月になると日の出が遅くなりますから、晴れた日の早朝、外に出ると、はじめは星空、そして日の出の瞬間を見ることができ、とてもすばらしい経験ができます。 陽が顔を出す直前、地平線に光が走るころになると昼に活動する生き物たちがざわざわし始め、 細かい話になりますが、秋の「月のない日」には「偽の夜明け= 黄道光 」があったりするのでご承知おきください。 以前 イザヤ書30章26節の解釈(14) で偽物の夜明けについて書いた気がしますが、あれは「月」の明るさ云々の話なので、この「偽の夜明け」とは異なります。 上に貼った画像のように 太陽がほんの少しでも現れれば reveal それまで闇に紛れていたすべてのものは覆いを取り除かれて明らかになってしまう。 「夜明け」とはそういう時間です。 だったとしても 「いつものように」暮らし 「いつものように」種を蒔きます。 信仰を持って生きるとはそういうこと だと思っています。 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。」

「解放」「自由」「流れる」

どうしてお気に入りフォルダに保存したのか忘れてしまいましたが דְּרוֹר  deror という言葉を保存したことに気付きました。 Strong's  Hebrewの1865番 דְּרוֹר には、 「解放」「自由」「流れる」という意味がありました。 そして、お気に入りフォルダにはもうひとつ、ギリシャ語の859番が入れてありました。 ギリシャ語のストロングの辞書859番は ἄφεσις  aphesis で、 これも「解放」「許し」「自由」「赦免」という意味でした。 BIBLE HUBのイングリッシュコンコルダンスによれば、ギリシャ語の859番が使われている箇所は17か所あるとのことでしたが、 今日はルカによる福音書4章のみ言葉が心に残りましたので口語訳聖書から引用します。 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった。 預言者イザヤの巻物が手渡されたので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。 「主の霊が私に臨んだ。 貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。 主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に 解放 を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである。」 ルカによる福音書4章16~19節(口語訳) 太字にした 解放 という箇所に859番 ἄφεσις アフェシスが使われています。 そして、このルカの4章に書かれているイザヤの巻物にあった箇所というのはイザヤ書61章のところで 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、 捕われ人に放免を告げ、 縛られている者に 解放 を告げ、 主の恵みの年と われわれの神の報復の日とを告げさせ、 また、すべての悲しむ者を慰め、 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、 灰にかえて冠を与え、 悲しみにかえて喜びの油を与え、 憂いの心にかえて、 さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、 主がその栄光をあらわすために 植えられた者ととなえられる。 イザヤ書61章1~3節(口語訳) 太字で 解放 としたところが Strong's...

ヨハネによる福音書7章

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口語訳の新約聖書 ヨハネによる福音書7章から引用します。 イエスさまが仮庵の祭りをどのように過ごしておられたか、そして何を語られたか、そしてその時、他の人々は何をしていたのか読み取れる箇所です。 2026年、 私たちは、どう過ごしているでしょうか。 以下引用  時に、ユダヤ人の 仮庵の祭 が近づいていた。(2節) あなたがたこそ 祭 に行きなさい。わたしはこの 祭 には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから」。(8節) しかし、兄弟たちが 祭 に行ったあとで、イエスも人目にたたぬように、ひそかに行かれた。 ユダヤ人らは 祭 の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。(10、11節) 祭 も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。(14節) イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。 わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」。(28、29節) 祭 の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。(37、38、39節) ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。(41、42、43節) 引用以上 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう 荒野、乾燥した砂漠 荒野、飲んでも飲んでも渇き 草の一本も育たないサソリのすみか しかし エデンから川が流れ出たように ナイル川のよう...