そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイによる福音書25章1~13節(口語訳)
十人のおとめについて、ここまでで分かったことを整理してみます。
花婿とは小羊=再臨のイエスさま
花嫁とは聖なる都エルサレム=大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
ヨハネの黙示録21章9~14節
そして油は聖霊さま
ゼカリヤ書4章1~6節、ヨハネの手紙第一2章18~29節
そして、十人のおとめはクリスチャンと書きました。
昨夜、またマタイによる福音書を読み返していて、25章ではない他の章にあるたとえ話を読んで、これはちょっと…と思ったので、それについて今日は書きたいと思います。
まずは13章47節からのたとえ話から
また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイによる福音書13章47~50節(口語訳)
この13章のたとえ話で注目していただきたいのは49節です。
すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分けこの箇所を私の持っているほかの聖書3冊から引用してみます。
御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け(新改訳聖書第3版4刷)
天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け(新共同訳)
天使たちが来て、正しい人々の中から悪い者をより分け(聖書協会共同訳)
つづいておなじみBIBLE HUBで検索し、Berean Literal Bibleから同じ箇所を引用してみますと
Thus will it be in the consummation of the age: The angels will go out and will separate the evil from the midst of the righteous,
で、ギリシャ語はμέσου
原型はμέσος読み方はmesos
なぜこの言葉にこんなにこだわっているのかと言いますと、
この49節をこんなふうにこだわって読んだことがなかったからです。
読んだことがなかったために勘違いして読み流していたようだったからです。
どう勘違いしていたのかというと、
網の中に入った魚を分けるという行為を小学生の頃の臨海学校でやった地引網のイメージに引きずられて、
良いものも悪いものも同じように入っている「この世界」というごちゃごちゃのところから悪いものを取って捨てるのだと思っていたのです。
![]() | |
こんな感じの世界があって、この中から悪いものを取り出して捨てる |
しかし、49節にはそう書いていなかったのです。
midst 良いものの中に悪いものが紛れ込んでいる
![]() |
悪の丸印を一つしか書きませんでしたが一つとは限りません |
やはりそうか…と悟りました。
マタイによる福音書でイエスさまはこういうお話を何度もされるのです。
7章22節の「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」というみ言葉もそうでした。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ないとされた22章のたとえ話もそうでした。
とすると、
十人のおとめのたとえも、花婿を出迎えるというところまでは一緒に行動をしているのに、全員が中に入れない・・・これは同じ流れであって、
世の終りには、それまでずーっと一緒に教会に集い、集会に集い、行動を共にしていた仲間であっても、
・・・実は全員が同じ未来を迎えるわけではなく、人によって違う、そういう事があるのではないか・・・
・・・それともイエスさまはイスカリオテのユダを念頭に?・・・
しかし、
あれだけ 目をさませ=警戒しなさい
とおっしゃっていたところを見ると
・・・相当危険なのだろうと思います。
最後にマタイによる福音書24章のたとえ話を引用します。
主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイによる福音書24章45~51節
結局、タラントのたとえも、十人のおとめのたとえも
この24章のたとえ話にある「忠実で思慮深いか否か」でまとめられるような気がします。
神さまから言われたことはその真意(みこころ)をきちんと察して賢く行いなさいね、と。
神さまの求めておられることとは、
・(律法の)最も小さな掟の一つでもそれを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる5章19節
・人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である7章12節
・イエスさまが求めるのはあわれみであっていけにえではない、ということ。
マタイによる福音書9章13節、12章7節
この言葉とほぼ同じみことばがサムエル上15章22節、ホセア6章6節、箴言21章3節、ミカ書6章8節、コヘレト4章17節、イザヤ書1章11~17節、エレミヤ書7章22、23節にも見られる。
そしてこれが具体例
人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
マタイによる福音書25章31~46節(口語訳)