投稿

1月, 2023の投稿を表示しています

それでもあれは「獣の刻印」ではない

私は昨今の「ワ」については獣の刻印であるとは思っておりません。 以前 666について書いた事があり、 666をヘブライ語に翻訳するとかぎりなくコロナウイルスのスパイクのように見え恐ろしく思いましたが 少なくとも今回の「ワ」に関して言えば それは「獣の刻印」ではないと思います。 なぜならばヨハネはこう言っているからです     また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。ヨハネの黙示録13章16節(聖書協会共同訳)         「すべての者にその右手か額に刻印を押させた」とありますが     すべての者は打っていません。少なくとも私は打っていません。 そして誰一人「右手か額」には打っていません。   額はすぐに「打ってない」とわかりますが、もしかすると「手」という言葉に引っかかる方がいらっしゃるかもしれませんので根拠を書きます。 黙示録のこの箇所をギリシャ語の聖書で見ると、 「右手」という言葉は「右」という言葉と「手」という言葉の二つの言葉で表現されています。 「手」という言葉はStrong's Greek 5495 χειρὸς  (cheiros) これは腕ではなく「手」なのです。 筋肉注射を打つ場所は「手」ではなく「腕」です。 聖書ギリシャ語には「腕」を表す言葉が別にあります。 βραχίων   Strong's Greek 1023 brachión     聖書ヘブライ語でも「腕」は、例えば創世記49章24節で腕と訳されている זְרוֹעַ  zeroaという言葉があり 「手」は創世記3章22節や8章9節で手と訳されている יָד  yadという言葉があり、腕と手は区別されています。 そして「手」であっても「右手」は 旧約聖書を読めばわかる通り神さまが救ってくださる御手なので、特別な言葉があります。 יָמִין  yamin   ですから、この黙示録を書いたのが本当に使徒ヨハネであり ヨハネによる福音書と呼ばれる福音書を記した人物と同一であるとするならば、 つまり、福音書の冒頭でハ...

イザヤ書33章22節

主 はわれわれのさばき主、 主 はわれわれのつかさ、 主 はわれわれの王であって、われわれを救われる。イザヤ書33章22節(口語訳) 主 こそ私たちを裁く方。 主 は私たちを指揮される方。 主 は私たちの王。 この方が私たちを救われる。イザヤ書33章22節(聖書協会共同訳) כי יהוה שפטנו יהוה מחקקנו יהוה מלכנו הוא יושיענו׃ これまではそれほど切羽詰まった思いではなく読んでいたこの御言葉でしたが 最近は本当に切実な思いで読んでいます。   なんだかんだ言って、 平和な日本だったのです。 そういう「戦後の昭和」に生まれた自分にとって 「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。」というイザヤ書9章2節(口語訳)の言葉は 「クリスマス」という 「過去」に成就し完了したものでしかありませんでした。 私のようなクリスマスを単なるイベントとして消化するだけだった寝ぼけた馬鹿者は 長い長い間、「救い」を個人的な御利益のようにしかとらえることができず 祈りが聞かれるの聞かれないの 病気が治るの治らないの   そんなものだったのです。     しかし、んなこたぁどうでもいい! そんなことは!   正直言って   もはやそんなことを言っている状況にはない!それが自分の今の心境です。   毎朝毎朝新しい新聞が届くたび 並んでいるのは置き場のないほどのたくさんの棺。 老いも若きも あの人もこの人も この間の救急車はこの方の・・・と気付かされる。 台所の戸棚にあふれかえる香典のお返し。   テレビをつければ バベルの塔の言葉、うそにまみれた強欲な言葉。 弱い者をかえりみるようであり、その実(じつ)は真逆。 求めているのは自分だけの利益、豊かさ 自分さえよければほかの人はどうなろうと知ったこっちゃない   「死ぬ?死など恐れることはない。遺伝子を変えて永遠に生きようではないか!」 CMだってバベルの塔!美しいメロディ、知的で美しいアナウンスは 御霊様の神殿に恐れもなく偽のトーラーを入れてしまえといざなう。   私たちに御言葉を伝えてくださった宣教師の...

【調べ学習】わたしはある(2)

אהיה あらためて43箇所の אהיה を含む日本語の聖句を読んでみました。   昨日書きましたように、 英語の翻訳聖書(NAS、KJV)で見ると43回中きちんとその言葉がその言葉とわかるように訳されている?のは9回だけで、それ以外の34箇所にはNASまたはKJVの該当箇所が示されていません。 https://biblehub.com/hebrew/ehyeh_1961.htm   日本語の聖書でも「なる=成る」という動詞であることが確認できるものもありますが、補助動詞のような訳がつけられていたり 否、もしかしたら、補助動詞でもないのかもしれません。 昨日は日本語の聖句の単語から一生懸命「探し出して」これなのではないか?と太字にする部分を選んでみたのですが、もしかしたらそれは私の全くの見当違いで、口語訳聖書の中に אהיה は אהיה というものとして存在していないのかもしれない。(さすがに אהיה についてはそれはないかなあ・・)   以前、 את というStrong’sの853番の単語について書いた事がありますが ヘブライ語聖書を眺めるようになって初めて知った事として、 旧約聖書には相当な頻度で登場するのにちゃんと訳されていない謎ワードというのが少なからずある、ということがあります。 את という単語もその一つなのですが、 7034回も登場しているのに その存在をスルーしてしまえる心理が理解できないというか https://biblehub.com/hebrew/et_853.htm まあ、わからないものはわからないのだから仕方ないのでしょうけれども、 「見えないお方を見る」ことが信仰にもかかわらず 「ある物を見なかったことにする」って   書いておけばいいのにねえ、「ここに入ってるのよ謎ワード」って。 たった二文字の事なんだからそのままそれを書いておけばいいと思うのですが。   実験の結果の数値をプロットしたのち、なんとな~くいい具合にスムーズなグラフ書くのとは違うんですから 「神さまの言葉」はちゃんと写してちゃんと読もうとしなければよろしくないのではないか、とか思うのはおかしいでしょうか。     しかも、今回の אהיה は出...

【調べ学習】わたしはある(1)

今日は出エジプト記3章14節「わたしはある」という御言葉を調べてみました。   I AM WHO I AM の I AMにあたる部分のヘブライ語は אהיה ’eh-yeh  Strong's Hebrew 1961 הָיָה  hayah の先頭に א が付いた形。     א アレフはウィキペディアで見ると起源は 「牡牛(ヘブライ語 אֶלֶף elef)の頭を描いた文字に由来する」とあり、 父なる神さまを表す文字です。   אהיה は聖書中に43回登場します。   ちなみに、 英語の翻訳聖書 (NAS、KJV)で見ると 43回中きちんとその言葉がその言葉とわかるように訳されている?のは9回だけのようでした。 内訳は 出エジプト記3章14節(3回)、士師記11章9節、ルツ記2章13節、サムエル記15章34節、ヨブ記10章19節、12章4節、17章6節。     さてそれでは、本日はまず אהיה 43箇所、口語訳聖書でいうとどこなのか引用してみます。 ただ、口語訳は直訳とか対訳された聖書ではないので、ここかな?というところにつけた印=太字 は必ずしもぴったり訳語を示しているわけではありません。   出エジプト記 3:12 וַיֹּ֙אמֶר֙ כִּֽי־ אֶֽהְיֶ֣ה עִמָּ֔ךְ וְזֶה־ 神は言われた、「わたしは必ずあなたと共に いる 。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。 出エジプト記 3:14 ויאמר אלהים אל משה אהיה אשר אהיה ויאמר כה תאמר לבני ישראל אהיה שלחני אליכם׃ 神はモーセに言われた、「わたしは、 有って 有る 者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは 有る 」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。 出エジプト記4:12: לֵ֑ךְ וְאָנֹכִי֙ אֶֽהְיֶ֣ה עִם־ פִּ֔יךָ それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共に あって ...