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箴言30章6節を読んでみた

  אל תוסף על דבריו פן יוכיח בך ונכזבת׃ 今日は箴言30章6節を眺めてみようと思います。 前回と同じようにわずか8つの言葉で構成されている箇所です。 実は今日も בך という謎ワードがあります。 辞書にはない、つまりきちんと訳されてはいない単語です。 そんなものを素人が訳せるはずはないのですが、 聖書のみ、万人祭司 という信仰だった自分にとって 石にかじりついても そう、冗談ではなく、岩であられるお方そしてその御子「石」に 求める、求め続ける、たたく、たたき続けなければ ではありませんか? まあ、そこが それが聖書のみ万人祭司という信仰が破綻した原因でもあるわけですけれども。 それでも、自分にできることはやらなければ。 自分の持ち分ではないところまではやる必要はないと思いますけれども、 義務ではなく、強制でもなく、 信仰の土台である聖書 神のみ言葉 38年間も私は「聖書のみ」だと思って暮らしてきたのです。 やれるところまではやる。 ただ、やれることなんてこんな極東在住の学も無いアラ還主婦ですからね、 いつものようにウィキペディアのフェニキア文字ながめるか、 BIBLE HUBの辞書を眺めるしかできないわけですが いや、でもそういうものが無料で手の届くところにあるのなら それらは神さまが私という人間に与えてくださった情報なのですから 眺めて考えれば良いのです。 考えてもわからないことは要求されないでしょう? 分からないんだから。 だけど、考えられるのに、時間もあるのに、その機会を放棄するということは絶対に御心ではない。 こんなこと、気付いていないプロテスタントのクリスチャンは山のようにいる。 ユダヤ教徒なら考えるのだろうけれど 教理だの教義だの教派だの、がっちりと囲まれて一ミリたりともズレたらいけないクリスチャンたちは 見えても目をそらし、聞いても耳をふさぎ そうやって波風を立てずに生きていくしかない。 でも根幹にかかわることなのだから 本当は考えなければいけないわけだけど 「要するに救いが受けられればいいのだから」という論理で …黙ろう。 しかし、私は私の思考の痕跡をここに書き残そう。 בך という謎ワード ב と כ (単語の最後にあると ך )が使われている単語には בָּכָה 「泣く」という言葉があり、そこから派...

キリスト教徒をやめました

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プロテスタント(福音派)で受洗して38年。 ついにこんな日が来てしまいました。 38年間、「聖書のみ」にこだわって、こだわってこだわって生きつづけてきましたが、 それは無理だ、と言うしかないという結論に至りました。 こんなふうには言いたくなかったので、 自分でできる最大限 ・・・一生懸命努力してみましたが、 翻訳聖書に全幅の信頼を寄せることはできないと強く思うに至り、 だからと言って自分できちんと読むこともできないとも悟り、 ほんとうに頭がおかしくなりそうでしたが、 聖書のみ、とか言って聖伝をスルーしたらこの宗教は成立しないとつくづく悟りました。 だからと言って聖書と聖伝と言う宗教に行けるはずもなく そう、 エクレシアという言葉に対する違和感まで持ってしまったのですからね イエスさまのことを信じているのだとしても とにかく「キリスト教」と呼ばれている宗教に身をゆだねることは無理だと悟りました。 もっとも、すでに10年以上前から教会に所属しているわけではないので 否、厳密にいえばおよそ40年の信仰生活のうち教会という場所にきちんと通えたのはたったの10年ですから ふつうの?まともな?キリスト教徒の皆さんからすれば 「そもそもお前がクリスチャンと主張していたこと自体がおかしい」ということになるのかもしれませんね。すみません。 見た目には何か大きな変化があるわけではありませんが この記事を書くことで、 自分としての区切り にしたいとおもいます。 感謝なことにコヘレト7章20節にはこうあります。 כי אדם אין צדיק בארץ אשר יעשה טוב ולא יחטא׃ 人間が一生懸命考えて 考えて考えて変化することを 神さまはきっと良しとしてくださる。 肉体の死が訪れるまで ミカ書6章8節を心に留めて 歩いていこうと思います。

箴言30章5節を読んでみた

 箴言30章の1節の謎の解決のために箴言30章を眺めることにしたのですが、 案の定、当初の目標を忘れてしまった気がするアラ還おば(あ)さん(;´Д`A ``` どういうところに着目しようとしていたのか すっかり忘れましたが・・・確認する気も無くなってしまい・・・←このあたりのことについては近いうちに書く予定です とにかく箴言30章5節が気になるので、 本日は5節のところを眺めてみようと思います。 כל אמרת אלוה צרופה מגן הוא לחסים בו׃ すごく短い箇所です。8個しか単語が無い。 でも、こんなに短い箇所なのに、しっかりと謎ワードが一つ含まれているのです。 בו😩 謎ワードとは、辞書に載ってないとか意味不明とされている単語のことです。 את みたいに、謎ワードでもとりあえず辞書に載っているものは、どんな感じでとらえられてるのかがコンコルダンスでさぐれたるわけですが、 完全にスルーされてる単語はどうすりゃいいの? 聖書なんだから、一字一句丁寧に扱いたい。 そのためにド素人がヘブライ語まで読んでるのに ここでスルーするとかありえない。 検索しても、「シエラレオネの都市 ボー」 って書いてあるし。 そりゃそうです、辞書に載ってない言葉がそう簡単にヒットするわけがありません。 なので今回は一次関数的な発想でチャレンジしてみようかと思います。なにかしら見いだせるに違いない。(まあ、見いだせないかもしれないし的外れなことをするかもしれませんが、ずっとこんなふうにして私はヘブライ語を読んでいます。素人はこうやって苦戦しているの、という様子をご覧くださいませ。(;´Д`A ```) 一次関数的な発想とは בו に 何らかの 文字 を足した時 に現れる「意味や定義の変化」から בו 自体の意味を見出すという方法です。辞書で בו に近い文字列の単語を探し(そんなことをできるのは BIBLE HUB のおかげ)意味を確認していきます。 בּוֹ א  行く、来る בּוּ ז  軽蔑する בּוּ ךְ  注ぎだす、空(から)にする בּוּ ל  生産する בּוּ ל  雨期の始まりの月(8月) בּוּ ס   恥ずかしい、屈辱を感じる בּוּ ץ  漂白する、または白くなるという意味の使われていない語根から派生した単語で上質な白い布である...

マタイによる福音書における「エクレシア」という言葉に違和感 

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 ローマ教皇が亡くなられたというニュースがありました。 自分はクリスチャンではあってもプロテスタント教会しかもごくごく一部の教派しか知らない、そして、歴史とか文化や伝統に超絶疎い人間なので、 ウィキペディアで「ローマ教皇」について調べてみました。←このレベル ウィキペディアの「 ローマ教皇の一覧 」というものを見ると 当然そういうことになるのでしょうが いや、改めて言われるとマジすっげ~~wwとか思ってしまったわけですが 初代教皇はペテロだそうで、在位期間は30年頃から64年頃(から68年ごろ)と書いてあります。 で、同じくウィキペディアの「 ローマ教皇 」というページを見たら カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威が聖書に由来するものであるとしている。特に重視されるのはマタイによる福音書の16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。 「シモン・バル・ヨナ。お前は祝福されたものだ。このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。死の力もこれに勝つことはできない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。」 この箇所から「天国の鍵」のデザインが教皇の紋章に取り入れられている。 ただし、この聖書箇所については、教皇権の根拠とするこのようなローマ・カトリック教会における解釈は、正教会、プロテスタントでは受け入れられていない。 と書いてありました。 で、これを読んだときに そういえば昔こんなの書いたな、と思い出し、 【調べ学習】信頼できる大きな岩について、そしてエクレシアという言葉の問題  https://kyudochu.blogspot.com/2019/10/blog-post.html 自分の書いた記事を読み返し マタイによる福音書16:18にある「エクレシア」という言葉について ・・・善良な信者の皆さんは聞かなくてよいことなのでスルーしてほしい話ですが・・・ コンコルダンスを眺めているとこんなことに気が付くなーという事を思い出してしまいました。 Strong's Greek 1577 ἐκκλησία エクレシアは新約聖書中に114回登場しますが、 福音書では 「この岩の上にわたしの 教...

箴言30章4節を読んでみた

  מי עלה שמים וירד מי אסף רוח בחפניו מי צרר מים בשמלה מי הקים כל אפסי ארץ מה שמו ו מה שם בנו כי תדע׃ 今日は箴言30章4節です。 引用したヘブライ語のテキストの色を変えた箇所は מי と מה   わずか一節の中に4回もある מי は「誰」「who」 2回ある מה は「何」「what」 つまり、箴言30章4節という箇所は たった一節の中に6種類の質問を含む箇所です。 「誰 誰 誰 誰 何 何」 こんな言い方をするときというのは、おそらく、 ・・・私であれば怒っている時だと思います(;´Д`A ```。 そして最後に創世記の冒頭キ・トーブ (神さまがごらんになって)「良しとされた」でおなじみのキ כי があります。でも כי のあとにトーブはありません じゃあキの後には何が来ているのか、というと תדע テダ。 後述しますが、 כי とのからみで少々気になることがあったので、今日はこの単語の原形をあたらずにこのままの形 תדע テダで「トーラー」に登場している箇所を調べてみました。 תדע テダこの形の単語がトーラーに登場するのは 一番初めが創世記の15章13節、そして二番目が出エジプト記7章17節です。 その二つの箇所でも כי キがあるわけですが、 תדע כי という形で登場します。 תדע テダを含むトーラーの二箇所は聖書協会共同訳で太字のように訳されています。 主はアブラムに言われた。「あなたはこのことをよく 覚えておきなさい 。あなたの子孫は、異国の地で寄留者となり、四百年の間、奴隷として仕え、苦しめられる。 創世記15章13節(聖書協会共同訳) それで、主はこう言われる。『次のことによって私が主であることを 知るようになる 。』私が手にする杖でナイルの水を打つと、水は血に変わる。 出エジプト記7章17節(聖書協会共同訳) つまり、 תדע テダは、 まだ起こってないことが未来において必ず起こるという事について「知りなさい、覚えておきなさい」という事を表す単語です。 念のために、引用した創世記15章13節と出エジプト記7章17節をヘブライ語聖書でもう少し詳しく見ておきます。 創世記では ויאמר לאברם ידע ת...

ふとアボダーを考えた朝

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 神さまの御心とは、そして神さまの御計画とは、 ヨナ書のような神さまが下そうとしていた災いを思いなおされるというような場合を除いて 必ず実現されるものです。 神さまを軽く見ているニムロドのような高慢な者はおりますが、 神さまを主と告白する私たちは信じています 神さまの御計画は揺るぐことなく実現されるものであると。 こんな言葉が黙示録にありますが (口語訳聖書から引用します) あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。 神は 、 御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである 。 あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。 ヨハネの黙示録17章16~18節 「神は・・・・彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである」という言葉からわかるように 神さまは、とにかくありとあらゆる「すべてのこと」を、究極的な勝利、最後の瞬間に至らせるためにお用いになります。 もう少し丁寧に語るなら、 神さまはこれだけたくさんいる地上の人間たちの「自由」なふるまいのすべてを、 今この時の一瞬の後(のち)から、それぞれが死に至る瞬間までのすべてをご存じであり、 黙示録17章17節のことのみならず 「ある時代」の「ある場所」における「ある人間」 というようなピンポイントで「介入」をなさって、 「最終到達点」に導くことがおできになる バグも無駄も一切無い、「完全なお方」であるわけです。 そして「最終到達点」とは、 神さまご自身の変わることのない御心 トーラーが支配する御国のことであり 聖書に記録されている「ある時代」の「ある場所」における「ある人間」との契約や 語られ続けてきた預言が間違いなく遂行されたことについて 誰もが理解できる状態になることなのだ、と私は信じています。 そこに到達することも含む永遠から永遠までを貫く 一本の直線 今朝は、台所のベレシートの1章1節の中の御言葉 הארץ ハ・アレツの中に その一本の直線とともにそれを途切れさせることなくつないでいる 否、 直線を中央に据えてそれを取り囲む三次元空間を埋め尽くす無数の点が 見えるような気がしました。 (アボダー・・・) アボダーとはこう書きます。...