主は寛容なお方(4)「感じたことを感じたままに感じたとする」
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」 すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。 だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」 ―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。 マルコの福音書11章30~33a節 私の頭の中に現れた変な等式 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる 子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる A=B、B=CならばA=Cで、 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる にこだわってこのところの通読でマルコの福音書を少しずつ読み進めているわけですが、 今日もまた「これだよ、これ」というみ言葉に出会うことになりました。 冒頭に引用したマルコの福音書11章のみ言葉がそれです。 これは、イエスさまと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとりが書かれている箇所ですが、イエスさまの問いに対して「わかりません」と答えた彼ら。これは「子どものように」の対極だ、と思いました。 わからなくて「わかりません」と言うのなら子ども。しかし、そうではなくて、事が自分にとって有利になるよう考えた結果の「わかりません」という言葉。 別の箇所でイエスさまはこんなことを言われたことがあります。 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。 ヨハネの福音書14章11節 これともまた別の箇所で「見ずに信じる者は幸い」とイエスさまはおっしゃったことがありますが、もしも見たのなら、(「見る」とは肉体の目で見ると言うことだけではありません、あっ、と何かを得る瞬間感じる瞬間というものを 主 は与えてくださる) だいたい、イエスさまが地上を歩まれていたあの時代には、福音書に書かれているようなこと=わざ を皆が実際に体感出来たわけです。そういうことを「見て」しまったのなら、当然そのことによって何かを感ずるはずです。 しかし、祭司長、律法学者、長老たちはどうだったでしょ...