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創世記をヘブライ語で読んでみたらちょっと違うものが見えてきた、という話

はじめに神は天と地とを創造された。 בראשית ברא אלהים את השמים ואת הארץ׃ 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。 והארץ היתה תהו ובהו וחשך על פני תהום ורוח אלהים מרחפת על פני המים׃ 神は「 光 あれ」と言われた。すると 光 があった。 ויאמר אלהים יהי אור ויהי אור ׃ 神はその 光 を見て、良しとされた。神はその 光 とやみとを分けられた  וירא אלהים את האור כי טוב ויבדל אלהים בין האור ובין החשך׃ 神は 光 を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。 夕となり、また朝となった。第一日である。 ויקרא אלהים לאור יום ולחשך קרא לילה ויהי ערב ויהי בקר יום אחד׃   創世記1章1~5節     BIBLE HUBのサイトを利用してヘブライ語の創世記を一節一節ノートに書き写すということを続けています。ただただヘブライ文字と発音記号を 眺めている だけなのですが、 ずーっと眺めていたら面白いことに気付きました。 「ה」 と 「ל」 という文字。 神さまが יהי אור (光よあれ)とおっしゃると  אור (光)が出来るのですが、 出来た אור は次に 「ה」 の文字がつけられて、 ה אור  となる。 で、おなじように 「ה」 がつけられている闇 ה חשך との間を分割されるという文になってるわけです。 そしてさらに次には ל אור  という 「ל」 という文字のついた אור が現れ、その 「ל」 という文字がつくと光の果たすべき役割が決められて יום 昼という名がつけられることとなるわけです。   もちろん、ヘブライ語に詳しい方がご覧になったら こいつはいったい何を言ってるんだ!? 「ה」 なんてそれはただの冠詞theだよ、 ということになってしまうかもしれませんがしかし言いたい(笑) 石の板に文字を書いてくださった神さまだから、 眺めているだけの私にも...

ベテスダの池

さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。 すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。 ヨハネによる福音書5章5~9a節(口語訳)   エルサレムの羊の門の近くにあるベテスダの池の水が動いた時、まっ先にはいる者はどんな病気にかかっていてもいやされると信じ、たくさんの人がそこに集まっておりました。そして、その中の一人の方=38年間病気に悩んでいる人が主イエスに出会い…というのが福音書にしるされたこの場面です。     38年という年数をどうご覧になりますか?40年に2年足りない、35年に3年多い、22歳の若者が60歳になるまでの年…。 そしてこの人の病についてはどう思われますか?横になっているのだから重症である、いや、病んでいたとはいえ38年間生きていられたのだからそれほどでもない…。 読み手の状態や心境によってこの38年間病気に悩んでいた人にストーリーはいろいろにとらえられることでありましょうが、 今この人がどういう心持であるのか、 それはこの方のこの言葉が語っています。   「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。   ひとことで言えば、「人に対する憤り」でしょうか。もう一言付け加えるならば「孤独」ということでしょうか。 「わたしを池の中に入れてくれる人」 この人は池の中に入りたいと願っています。しかし一人では池の中に入ることのできない状態なのでしょうか、誰かの手を借りなければ池の中に入ることはできないのだけれど、誰一人自分を助けてくれる人がいないのだ、とこの人は考えている・・・ いや、そうではないかもしれません。「わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行く」とも言っていますから、歩くには歩け、池の中に入りかけるというところまではで...

「待ち望む」という言葉について(2)

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前回、「待ち望む」という言葉を調べる中で、「集まる」という言葉が気になるようになりました。 前回の記事より 「イザヤ書40章31節の「待ち望む」Strong's 6960. qavah  קָוָה qavahという言葉がいちばん初めに登場するのは創世記1章9節のところで 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。 ここでは「集まり」という訳が充てられています。 (略) qavahが創世記1章9節で「集まり」という訳を充てられていると上に書きましたが、もう一か所「集まる」という訳の充てられている箇所がエレミヤ書にあります。 エレミヤ書 3章17節 そのときエルサレムは主のみ位ととなえられ、万国の民はここに集まる。すなわち主の名のもとにエルサレムに集まり、かさねて、かたくなに自分の悪い心に従うことはしない。」 あの後、聖書協会共同訳聖書で該当箇所をもう一度読んでいたところ、右側のページにこんな箇所のあることに気付きました。  主は羊飼いのようにその群れを飼い その腕に小羊を 集めて 、懐に抱き 乳を飲ませる羊を導く。 イザヤ書40章11節 いっそうエクレシアっぽい「 集めて 」ではありませんか!しかもこんな近くに。 早速この「 集めて 」がどんなヘブライ語なのか調べてみました。 Strong's 6908. qabats קָבַץ この単語が最初に現れるのは創世記41章35節で口語訳聖書ではこんな風に書かれています。 続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに 集め させ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。 「待ち望む」ということばのqavahによって表現される「集まる」という言葉は神さまが集まるべきとされたもの自体が主体的に集合しているような印象である(もちろん神さまの御心のあらわれではあるのですが)のに対し、 Strong's 6908. qabatsは上の二つの聖句からの印象では、集める主体者があり、その集める主体者が意志を持って集める様子が見て取れます。 特に、イザヤ書40章11節で קָבַץ は、原文では יְקַבֵּ֣ץ となっていて、 つまりqabatsの前に י ヨッドがあり、ヨッドは神さまの右の御手=救いをお与えになる手のことですから、神さまが「救いたい...

「待ち望む」という言葉について(1)

イザヤ書30章15~18節(口語訳) 主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。それゆえ、主は 待っていて 、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を 待ち望む 者はさいわいである。 イザヤ書40章27~31節(口語訳) ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を 待ち望む 者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。 イザヤ書の30章と40章に「主を 待ち望む 」という訳が充てられている言葉があります。 いつも特に気にすることなく読んでいましたが、昨日Bible Hubのサイトを眺めていたらこの二つは異なるヘブライ語であるということを知りました。 はじめに、 30章の 茶色の文字 の部分の「待っていて」「待ち望む」は Strong's 2442. chakah  חָכָה この言葉が最初に現れるのは列王記下の7章9節 列王記下7章9節 そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで 待つ ならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。  そして同じイザヤ書では 8章17節 主はい...