2025年3月31日月曜日

箴言30章3節を読んでみた

ここまでの流れで、
箴言30章の1節2節とはこんな感じの意味だと、
自分としてはとらえることになったわけですが↓↓


箴言30章1節https://kyudochu.blogspot.com/2025/02/301.html
ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル

または 自分を完全無欠な王だと考えている者とウカル

に対して:


箴言30章2節https://kyudochu.blogspot.com/2025/03/302.html
私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

そもそも、なんでこんなことをしているのかと言えば、
今もなお火曜サスペンス劇場のように崖っぷちに立っているのか
既に転落したのか
それとも水平に移動したのか
知らんけど(;´Д`A ```

さてとそれでは本日は
3節を眺めることにいたしましょう。

ולא למדתי חכמה ודעת קדשים אדע׃



ולא ヴェ・ロー 昨日も登場しましたが、
十戒のところに登場したりして禁止もしくは否定の意味があるלאの前にוヴァヴが付いた形です。一体今日は何が否定されているのでしょうか。 


למדתי ラマドティ לラメドの意味を表しているような単語です。
לラメドは牛追いの棒で牛に教えるニュアンスがありますが、
למדラマドには学ぶ、教える、指示するという意味があります。
トーラーを教え、学ぶ、それがלמדラマド。
で、その
למדラマドのうしろにתיが付いています。文法書とかを持っている人ならああこれは「ナントカ形(けい)」だ、ということになるのでしょうが、私はそういうことが分からないのでトーラーを読み続けている中での自分の思うところを述べます。
完成とか完全を表すתタブの右か左にיヨッドが付いていることがあるのですが、
右についていると「すでに神さまがそのことを終えられている」ことが多く、左についていると、「今後そのことを必ず完了する」という預言的な断言のような気がしています。

なのでこれは学ぶという事を未来において完了させるという意味のような気がします。
で、この言葉の前に強い否定のלאが付いていることから、
今も学んでいないけれども「未来においても絶対に学ばない」と言っているような気がします。(個人の感想です)


חכמהハクマ(ハは喉の奥に引っかかるような音) 
これは חָכַםハカムの派生語でwisdom「知恵」という意味があります。
חָכַםハカムという言葉には「賢明である」という意味がありますが、
偉大なトーラーの学者のことをハカムと言ったりします。
セファルディム語でハカムは「ラビ」の同義語だそうです。


ודעתヴェ・ダアト דעתダアトにוヴァヴが付いた形です。

דעתダアトとは、「知識」という意味があり、聖書に最初に登場するのはエデンの園の善(悪)の「知識」の実というところです。

Strong'sの辞書によると、דעתダアトは聖書の文脈では、単なる事実情報を超えた、道徳的および精神的な側面を含む、deep, intimate understanding 深く、親密な理解を意味することがよくある、ということです。

それも踏まえた「知識」の前にandのようなニュアンス、前のものにしっかりと結合させるוヴァヴがあります。


 קדשיםケドシム 神聖なという意味のקדשカドシュにיםイムが付いた形です。
יםイムは単純に数の多さを表す複数形をの場合と威厳や強さを表現するための複数形がありますがこれはどちらなのでしょうか。

それを知るために、コンコルダンスを使い
 קדשיםケドシムという形の言葉がほかにどのような場合に使われているのかを検索してみました。

BIBLE HUBのEnglishman's Concordanceによると

ケドシムは全部で17回登場しています。(以下特に断らない限り引用は口語訳聖書からです)

で、そのうち6回がレビ記にあるわけですが

レビ記11章44節

わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。

レビ記11章45節

わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』」。

レビ記19章2節

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたもでなければならない。

レビ記20章7節

ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

レビ記20章26節

あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。

レビ記21章6節

彼らは神に対してでなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の食物をささげる者であるから、聖でなければならない。


神さまご自身についてはקָד֖וֹשׁカドゥシュという言葉で表現されていて、

少なくともレビ記においてはイスラエルの民全員について語る場合に

קדשיםケドシムが使われているので、ケドシムの語尾のイムは、おそらく、単純に、いっぱいあるという意味でのイムであろう予想できます。

続いて民数記から検討します。民数記には3回ケドシムが登場します。

民数記5章17節

祭司はまた土の器に聖なる水を入れ、幕屋のゆかのちりを取ってその水に入れ、

民数記15章40節

こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。

民数記16章3節

彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。

民数記の5章では水の修飾語としての「聖なる」というところにケドシムが使われています。

そして15章と16章ではイスラエルの民についての「聖なる」というところにケドシムがつかわれています。


というわけで、トーラーに関してはレビ記と民数記にケドシムが登場しており、そのすべての場合において「数の多いものの修飾語」としてのケドシムだったので、

おそらく、基本的には、ケドシムのイムは単純な複数形としてのイムであろう、と推測できます。

ただ、トーラー以外の場所においては少々話が変わります。
ヨシュア記24章19節

しかし、ヨシュアは民に言った、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。

ヨシュア記24章19節におけるケドシムはエロヒムの説明として登場します。

כִּֽי־ אֱלֹהִ֥ים קְדֹשִׁ֖ים

と書いてあって、前回の記事にいろいろ書きましたכיキのあとに
エロヒム ケドシムと続いておりまして、トーラーには無かった
「神さまの描写としての」ケドシムがそこにあるわけです。

とすると、この箇所においてはエロヒムという威厳ある表現に呼応する形でのケドシムであると考えるべきであるかもしれません。

が・・・

とてもややこしい話をすると、

ヨシュア記24章16節にはこういう箇所があって、

その時、民は答えて言った、「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。

この箇所における神々というところには「エロヒム」という言葉が使われているわけです。

では「主」というところは何なのかと言えば神聖四文字、すなわちお名前である
יהוה という文字が書かれているのですね。

新改訳聖書の場合は神さまのお名前(神聖四文字)が書かれているところが太字となっているのでとても分かりやすいと思います。

乗り掛かった舟なのでもう少し細かく言うと、
神さまのお名前神聖四文字が初めて登場するのは創世記2章4節で、
以降「神聖四文字」の後に「エロヒム」という言葉が書かれる形となり、
その表現は3章まで続き、
4章からはまたお名前が無くなる。

なので、創世記2章4節以前に書かれている「神」というところはすべて「エロヒム単独」であり、
2章4節から3章までは新改訳聖書では「神である」と書かれていて

4章は神さまがほぼ登場しないまま・・・で、25節にお名前のない「エロヒム単独」でのご登場。

「資料」による違い・・・だという説明を教会で何度も聴いた気がしますが

そういうあたりに注目しながら読むと、それぞれの資料の特徴が見えてきます。

が、今日はそういう話ではありませんね(すぐ脱線する婆w)

ケドシムの話、

細かく見た風なのにざっくりとしたことを言ってしまいますが、

トーラーをもとにして語る著者が書いたものであればケドシムはトーラーと同じ単純な複数形としてとらえるのが妥当で、

それ以外かもしれない著者の場合はそうではない可能性もある?知らんけど(;´Д`A ```

けれども、おそらく、聖書という書物ではたいていの場合はトーラーが土台になっていると思うので、

ケドシムとはおそらく単純な複数形であろうと思います。(個人の感想です)


そして3節最後の単語

אדעエダ です。これはיָדַעヤダが変化した単語です。ידעヤダは動詞で、これが名詞になると上の方に書いたדעתダアトです。

ידע「ヤダ」には「知る」という意味があります。
辞書によると、「神とその民、または個人間の親密な関係など、深く個人的な関係の知識を意味することがよくある」とのことでした。

דעתダアトもそうでしたが、「親密な」という表現があるのは夫が妻を「知る」という言葉の持つニュアンスを表現したいからだと思います。

で、箴言30章3節にあるאדעエダというこの言葉

コンコルダンスによれば聖書の中に14回しか登場しない言葉のようです。
トーラーではわずかに3回。
創世記の15章8節と24章14節、そして42章33節に見られます。

創世記15章6節~8節

アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。

彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。

創世記24章14節

娘に向かって『お願いです、あなたの水がめを傾けてわたしに飲ませてください』と言い、娘が答えて、『お飲みください。あなたのらくだにも飲ませましょう』と言ったなら、その者こそ、あなたがしもべイサクのために定められた者ということにしてください。わたしはこれによって、あなたがわたしの主人に恵みを施されることを知りましょう」。

創世記42章29~33節

こうして彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰り、その身に起った事をことごとく告げて言った、

「あの国の君は、われわれに荒々しく語り、国をうかがう回し者だと言いました。

われわれは彼に答えました、『われわれは真実な者であって回し者ではない。

われわれは十二人兄弟で、同じ父の子である。ひとりはいなくなり、末の弟は今父と共にカナンの地にいる』。

その国の君であるその人はわれわれに言いました、『わたしはこうしてあなたがたの真実な者であるのを知ろう。あなたがたは兄弟のひとりをわたしのもとに残し、穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。


トーラー以外からも引用してみます。


サムエル記上20章09節

ヨナタンは言った、「そのようなことは決してありません。父があなたに害を加える決心をしていることがわたしにわかっているならば、わたしはそれをあなたに告げないでおきましょうか」。

サムエル記上22章3節

ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。

列王紀上3章7節 לא אדעという形で登場

わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません

列王紀上18章12節 לא אדעという形で登場 

しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。


ヨブ記9章20、21節 לא אדעという形で登場

たといわたしは正しくても、
わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、
彼はわたしを曲った者とする。

わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。


ヨブ記42章3節לא אדעという形で登場

『無知をもって神の計りごとをおおう
この者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、
みずから知らない、測り難い事を述べました。


詩篇51篇3節

わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

詩篇73篇22節לא אדעという形で登場

わたしは愚かで悟りがなく
あなたに対しては獣のようであった。

詩篇101篇4節לא אדעという形で登場

ひがんだ心はわたしを離れるでしょう。わたしは悪い事を知りません

イザヤ書47章8節לא אדעという形で登場 

楽しみにふけり、安らかにおり、
心のうちに「ただわたしだけで、
わたしのほかにだれもなく、
わたしは寡婦となることはない、
また子を失うことはない」と言う者よ、
今この事を聞け。

イザヤ書47章8節は、日本語訳の「子を失うことはない」というところに「知らない」という単語が実際には入っている。


14か所を眺めて分かるのは、לאという「禁止や強い否定」の意味がある言葉をともなって
אדעエダが存在していることが7箇所もあるということです。そして、לאという言葉を伴わないときの日本語訳では、未来のことや仮定のことについて語っているということがわかります(詩篇51篇3節は例外的)

以上の事を踏まえた場合、箴言30章3節のאדעエダはどう訳せばよいでしょうか。
直前にלאはありませんが、冒頭にあるלאが否定している学ぶという行動に関する詳細な内容がאדעエダだと考えられるので、(個人の感想です)

לא אדעと同じように訳してもよいのではないでしょうか。


以上すべてのことを踏まえて訳をつけてみます。

ולא למדתי חכמה ודעת קדשים אדע׃


ולא למדתי そして絶対に学ばない (動詞)

חכמה 知恵

ודעת そして 知識

קדשים 聖なる(直前の深い知識を説明していると考えられるのでイムは単純な数の多さを表す複数形)

אדע 知る  (動詞)



そして絶対に知恵を学ぶことはない

そして聖なる知識を知らない




1節から3節を続けてみましょう。



ヤケの子アグル
(すなわち トーラーを良く学び知識が豊富で人々にトーラーを教えるソロモン)による
重い預言の言葉
勇敢で強じんな男
自分を完全無欠な王だと考えている者ウカル
または自分を完全無欠な王だと考えている者とウカルに対して:

私は必ずあなたを火によって男の中から取り除く
完璧な理解力がありながら御手のみわざを学ばない人間

そして絶対に知恵を学ぶことはない
そして聖なる知識を知らない