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神さまのつくられたルールとシステムのなかで

新共同訳聖書を読むようになり、詩編19編の真ん中に「律法」という文字があることを知りました。   私は新改訳聖書を使っている教会や集会に通っておりましたので、長い間その部分には「みおしえ」という言葉がありました。   「律法」だって「みおしえ」だってどっちだっていいじゃないか、と言われるかもしれませんが、 詩編で言うと 詩編19編8節だけではなく詩編94編12節もそうですし、 119編 なんて1節、18節、29節、34節、44節、51節、53節、55節、61節、70節、72節、77節、85節、92節、97節、109節、113節、126節、136節、142節、150節、153節、163節、165節、174節 こんなに大量に תּוֹרָה Torah があったのです。 תּוֹרָה Torah は תּוֹרָה Torah なのに「律法」と訳さないで「みおしえ」や「おしえ」というごく一般的な名詞で書かれていた場合 かなり話が変わってしまうと思うのは私だけでしょうか? もちろん、説教をされる先生方がしっかり解説してくださる教会に所属しているならばそういう聖書を読んでいてもよいのかもしれません。しかし、私はそうではなかったので詩編で見つけた「律法」という言葉には本当にショックでした。 だいたい、律法と言えばガッチガチにしめ上げるルールだと思っていましたし、よくないものだと思っておりました。頭に残っている言葉は「律法学者」に「律法主義」。しかも既に律法は終わったと思っているわけです。なのでダビデが詩編119編の1節2節で いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 詩編119編1節2節 と「別の聖書を読んでいる人たちには」言っていたのだと知った時には大変にショックでした。 だって私にダビデは20年間こう言っていたのです。 幸いなことよ。 全き道を行く人々、 主のみおしえによって歩む人々。 幸いなことよ。主のさとしを守り、 心を尽くして主を尋ね求める人々。 詩篇119篇1節2節(新改訳聖書) だいたい「主の律法に歩む」ってどうすればいいのですか?律法は守らなくていいんでしょ? ダビデがずっとみおしえだって言ってたから 「そう...

【調べ学習】信頼できる大きな岩について、そしてエクレシアという言葉の問題 

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詩編18編でダビデが神さまのことを信頼できる大きな岩であると考えていたというところから、 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 詩編18編3節 聖書に登場する「岩」という語句について今日は調べてみることにしました。 引用聖句は新共同訳聖書です。 まず、ダビデが語るような「神こそが岩」という表現がどこから始まっているのかという観点をもっていつものように語句検索をしてみると、申命記32章(モーセの歌)にこういうみことばがありました。 主は岩、その御業は完全で その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく 正しくてまっすぐな方。 申命記32章4節 このみことばで使われている「岩」はヘブライ語で צוּר  tsur この言葉は出エジプト記17章に登場するホレブの「岩」に使われている言葉と一緒です。 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 出エジプト記17章6節 詩編18編の 「主はわたしの岩」に使われているヘブライ語は סֶלַע  sela ですが、民数記20章8節の「岩」もこのselaという言葉が使われていたので 「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」 民数記20章8節の「岩」と、出エジプト記17章6節の「岩」は同じ話の中での岩ですから、ほぼ同じ意味と考えていいのかなあと思いましたが、 詩編18編の「わたしの神、大岩、避けどころ」の「大岩」という言葉に使われているのは צוּר  tsur で、日本語の聖書の訳語から違いを見ると岩と大岩なので大きさの違いなのかしら、と思うわけですが、 סֶלַע sela の方は Strong's Concordanceで見てみると a crag(ごつごつの岩,険しい岩山), cliff(崖) NAS Exhaustive Concordanceで見ると NASBでの訳語としてはcliff (4), cliffs (4), crag (2), crags (3), mountain* (1), Rock (1)...

詩編18編とヨハネの黙示録6章

少々長めな詩編18編を読んでいると、あちこちにいつかどこかで読んだ記憶のある見覚えのあるフレーズが登場します。もちろんサムエル記下の22章はこの詩編の故郷のようなものですからそっくりであるのは当然のことなのですが、小預言書や詩編のほかの箇所に繰り返されるフレーズを読むと、ダビデがどのような信仰を持っているのか明確に示されるような気がします。 たとえば144編。 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔。 ほむべき方、主をわたしは呼び求め 敵から救われる。 詩編18編2~4節(新共同訳) 主をたたえよ、わたしの岩を わたしの手に闘うすべを 指に戦するすべを教えてくださる方を わたしの支え、わたしの砦、砦の塔 わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ 諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。 詩編144編1、2節(新共同訳) 単なる 定型的な文が繰り返されている だけだと考えることもできるかもしれませんが、ダビデが本当に心の底から神さまを信頼できる大きな岩であると信じていたのだと考えることもできます。 繰り返し語られるダビデの言葉は 彼の証言であると同時に未来に向かっての宣言でもあり 読んでいる者の心に唱和する者たちの心に力強い励ましを与えてくれます。 定型的な文が繰り返されている :儀式の 式文のようなものであったとしても、儀式の式文とし反復させることで後世へ重大なメッセージを遺している可能性があるかもしれません。祭儀自体がメッセージであればなおさらで、それを知る者たちだけの気付く何か、または知ることのできる何かによって羊と山羊を分けるという可能性も考えられます。   実は、詩編18編のこのあとの箇所(5節以下)を読みながら、唐突かもしれませんがヨハネの黙示録6章9節~17節を思い出しておりました。 小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。 彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」 すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ち...

熱狂から分離され切り離されること

昔教会の先生に「異端って何ですか」と尋ねた時にその先生はこうおっしゃいました。 「簡単に言うとね、聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本というのを持っていて、その本の方が聖書より上だと信じている人たちってことかなあ。 クリスチャンはね、聖書は神さまの言葉であって最も権威があると信じているんだよ。」 しかしよくよく考えてみると、クリスチャンが異端と呼んでいる方ではなくとも、クリスチャンは全員が全員そういうことをやっているわけです。聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本を全員が持っている。 以前、「不正な管理人」の例えの解釈についていろいろ考えた挙句、よくわからないのでネット検索をしていくつかの記事を読ませていただいたことがありました。 すると、それが見事なまでにバラバラな解釈で、しかし、不思議なくらいどの方も自信満々、断定的に述べていらっしゃる。たぶん、それぞれの方が、それぞれ所属している教会で「先生からそう教わったので」それが正しいと信じておられ、自信をもって書かれたのでしょう。 大学生のころ「聖書研究部」という超教派のサークルに所属していたときに、若気の至りという部分もありましょうが教派教団による考え方の違いが原因で、ときどき論争、悪く言えばケンカのようなことが起こりました。 弁の立つ学生がいて、自分の教会の正統性を聖書を示して主張するわけです。 まあ、私などは当時は洗礼を受けたか受けないかというあたりだったので黙ってやり取りを聞いているしかなかったわけですが、 しかし、論争の終着点はいつも同じ。権威ある有名な先生の説であるか否か、というところでした。 本当は論争でもなんでもない。右から左に流してるだけ。ご自分がみことばを読んで異議を唱えているわけではなく、通り良き管として(笑)聞きかじった知識を流し出しているだけ。他人の権威を着てケンカをしているだけのことなのです。問題意識なんてありゃしない。そして本当は教義の問題でもない。自分のよりどころとしている派こそが正しいと言いたい思いたいだけ。自己肯定のために。 統計を取ったわけでもないのに断定的に語りますが、教会に所属しておられるほとんどのクリスチャンは教義を理由に教会を選んで通い始めたわけではありません。 もちろんごくたまに、教派や教団について考え、積極的な理由を...

聖ということ

いのちのことば社1985年9月20日発行新聖書辞典で「聖」という言葉を調べてみました。 聖とは まずバビロニア語のquddushu「明るい、輝かしい」が語源であるという説が書いてあって、しかし、有力ではないということらしく ただ、1985年の辞書なのでちょっと古すぎる感じもしたためとりあえずquddushuというつづりで検索したところ、こんな辞書に出くわしました。 קָדוֹשׁ adj. 1 holy, sacred. 2 saint, saintly. MH 3 martyr. [From קדשׁ. Related to Phoen. קדש, Aram.–Syr. (also BAram.) קַדִּישׁ, Arab. qaddīs, qiddūs (= holy, sacred), Akka. quddushu (= shining, pure).] https://www.sefaria.org/Klein_Dictionary%2C_%D7%A7%D7%93%D7%93_%E1%B4%B5.1?lang=bi&with=all&lang2=en しかし、1985年の聖書辞典だけでなく日本の諸教会では聖という言葉について検索すると「分離する」とか「切り離す」というのが 原意とする説を取っておられるようなので そういうふうに覚えようと思いました。 辞典には すべての冒涜的事象や行為から分離され切り離されて 神との関係を持つという意味で用いられている とあり、 また、旧約聖書における「聖」について書かれた項には どのような事物も人格的存在もそれ自体は聖ではないが、それが神との関係におかれるときに聖なるものとされる。 ただし、神の霊性は恒常的かつ永遠であるが、神以外の事物や人格的存在の聖性は極めて不安定なものであって、神との関係に置かれている時だけのものであるということを忘れてはならない。 と書いてありました。 新約における「聖」については 聖ではあり得ない罪人が神の愛によりキリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるものとして受け入れられるということが述べられている。 とありました。 新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉が気になって「聖」という言葉にこだわって調べてきましたが、 こだわって調...

【調べ学習】聖なる山

新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉について調べてみました。 聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた。 詩編2編6節(新共同訳) まずはBIBLE HUBで英語の聖書を “I have installed My King on Zion, upon My holy mountain.”  Psalm 2:6 Berean Study Bible 即位という言葉は英語でインストール。 installとは(式などを行なって)就任させる、任命する、(正式に)就任させる、つかせるという意味だと書いてありました。 パソコン用語のインストールってそんな重い意味だったのですね。 Holman Christian Standard Bibleという聖書ではインストールの代わりにconsecrateという「聖別する、聖職に任命する」という言葉を使っていたり JPS Tanakh 1917という聖書ではestablishで定着させるようなニュアンスのある?「就かせる」をつかっています。 【聖なる】 ヘブライ語ではMy holyにあたる部分が קָדְשִֽׁי   qāḏ·šî 詩編2編6節のほか イザヤ書11章9節、56章7節、57章13節、65章11節、25節、66章20節、エゼキエル書20章40節、ヨエル書2章1節、3章17節(新共同訳聖書の場合は3章ではなく4章17節になります)、オバデヤ書1章16節、ゼファニヤ書3章11節の「聖なる(わたしの)」山 という表現に用いられていました。 山のほかにはレビ記20章3節、22章2節、32節の「聖なる」名であったり、 聖所や安息日(聖なる日)、また、ダビデに注がれた「聖なる油」というところに使われていました。 主に向かって声をあげれば 聖なる山から答えてくださいます。〔セラ 詩編3編5節(新共同訳) To the LORD I cry aloud, and He answers me from His holy mountain. Selah Psalm 3:4  Berean Study Bible  ヘブライ語ではHis holyにあたる部分が קָדְשׁ֣וֹ  qā·ḏə·šōw 詩篇3篇4節(新共同訳では5節)のほか、 詩篇48篇1節(新共同訳では2節)、99篇9節(新共...

マタイによる福音書25章(10)まとめ 義人の中にいる悪人(20251213改)

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そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 マタイによる福音書25章1~13節(口語訳) 十人のおとめについて、ここまでで分かったことを整理してみます。 花婿とは小羊=再臨のイエスさま 花嫁とは聖なる都エルサレム= 大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。 ヨハネの黙示録21章9~14節 そして 油は聖霊さま ゼカリヤ書4章1~6節、ヨハネの手紙第一2章18~29節 そして、 十人のおとめはクリスチャン と書きました。 昨夜、またマタイによる福音書を読み返していて、25章ではない他の章にあるたとえ話を読んで、これはちょっと…と思ったので、それについて今日は書きたいと思います。 まずは13章47節からのたとえ話から また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいにな...

マタイによる福音書25章(9)油

十人のおとめのたとえで語られている油とは一体何なのか、どうすることなのか、 今日も日本聖書協会の聖書本文検索をつかって「油」という言葉を検索してみました。 すると、とてもたくさんのみことばがヒットしました。 創世記では記念碑に注ぎかけるものとして油が登場しました。 出エジプト記~申命記では 常夜灯の油、聖別するときに注ぐ油、パンの材料、ささげもの、 清めるための油、祭司職に任命されるときに注がれる油、 士師記以降では王が任命されるときに注がれる油 預言者の任命のための油というのもありました。 そして、非常に直接的な油をゼカリヤ書とヨハネの手紙に見つけました。 わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、 「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。 また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」 。 わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。 わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。 すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、 わたしの霊による のである。 ゼカリヤ書4章1~6節 子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたがかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。しかし、 あなたがたは聖なる者に油を注がれているので 、あなたがたすべてが、そのことを知っている。わたしが書きおくったのは、あなたがたが真理を知らな...

マタイによる福音書25章(8)世の光

「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 マタイによる福音書25章1~4節」 おとめたちの持つ「あかり」そして「油」というものを考えていましたら幕屋の常夜灯を思い出しました。 出エジプト記を見ると幕屋の常夜灯というものがありますけれども 真っ暗な幕屋の中で朝までともされる常夜灯というものはじつに象徴的です。 「あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。 常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである。 出エジプト記27章20、21節(新共同訳)」 テレビで 真っ暗な部屋の中、女性が涙を流されていた場面を見ました。 台風15号による大規模停電で、すでに一週間もの間、懐中電灯だけで生活されているのだそうです。暗闇の中、ひとりぼっちでさみしいといって泣いておられたのです。 リポーターの方が停電が続く夜の町を取材しておられる場面も見ました。 テレビ局が撮影のために点灯していたライトを消すと ・・・あたり一面真っ暗。真っ暗闇。 真っ暗な夜、光がない、ということが、こんなにも不安でさみしくそして恐ろしいことなのか、と改めて気づかされました。 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 マタイによる福音書5章13~16節(口語訳)」 「あなたがたの光を人々...

マタイによる福音書25章(7)律法、預言者、天の国

前回は、イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というような厳しい言葉をおっしゃった箇所と、それとは逆のことをおっしゃった箇所をピックアップしました。 イエスさまはいったい何に怒られたれたのでしょうか。 調べた言葉をじっくり眺めながら イエスさまが問題にしておられたことは、おもに、 律法、預言者、天の国(神の国)という3つのテーマであるということに気付きました。 1.律法について ・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた5:17 ・律法を守るように教える人は天の国では大いなるものとされる5:19 ・ファリサイ人の義に勝っていなければ天の国に入れない5:20 ・天の父が完全であるように完全なものとなりなさい5:48 ・律法の言わんとしていること=天の父の御心=人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい7:12 ・主よ主よというものが天の国に入るわけではなく天の父の御心を行う者だけが天の国に入る。7:23 ・律法を形式的、表面的に行うのは偽善=人の目を意識して人前で善行6:1、人前で信仰深そうに祈る6:5、人に気付かれるような断食6:16 ・イエスさまの言葉を聞いて行う者は岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている7:24 2.預言者について ・イエスさまは律法や預言者を完成させるために来られた。5:17 ・預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受ける。10:41 ・偽預言者=良い実を結ばない木 を警戒しなさい。7:15 3.神の国について ・わたし(イエスさま)が、神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ているのだ12:28 ・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者はこの世でも後の世でも赦されることがない。12:32 ・イエスさまが派遣した弟子たちが病人をいやしたり悪霊を追い払うとすれば、それも聖霊さまの働きだから、そういう弟子たちを迎え入れもせず弟子たちの言葉に耳を傾けようともしない者がいたらその町はソドムやゴモラよりも重い罰を受ける。10:5~ 補足として、 バプテスマのヨハネとイエスさまが全く同じことを語る箇所がありました。 「悔い改めよ天の国は近づいた」 3:2バプテスマのヨハネの言葉 4:17イエス様の言葉 「良い実を結ばない木は切り倒されて火に投げ...

マタイによる福音書25章(6) 聖書のことばを探してみる

注解書や辞典には頼らず、聖書のことばを探そうと考えました。 で、どんなふうにすればいいだろうかと考え、祈っておりましたが、ふと「マタイのことはマタイに聞いたらいいのかも」と思いつきました。 マタイは著者ですし、なにしろお弟子さんですから、たとえ話の深いところについてよく理解してはずです。理解した上で福音書全体を書いているとすれば、彼の書いた文章に何かヒントがあるかもしれません。 そこで、 イエスさまが『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』というようなことをおっしゃった箇所と、それとは真逆のことをおっしゃった箇所を 全体をざっと読んでチェックし、記録することにしました。 そうすることで、マタイがイエスさまから学んだ良いことと悪いことの基準がはっきりするかと思ったからです。 イエスさまの厳しいみことば(概要と箇所) ・塩に塩気がないのはだめ(役に立たない)5章13節 ・ファリサイ派の人々の義にまさっていなければ天の国に入れない5章20節 ・(従来の教えよりも厳しい基準を示され)天の父が完全であられるように完全な者になれ5章48節 ・人の目を意識した偽善はダメ6章1節、5節 ・良い実を結ばない木(偽預言者)は切り倒されて火に投げ込まれる。7章15節、19節 (バプテスマのヨハネも3章10節で同様のことを言っている) ・天の父の御心を行う者だけが天の国に入る(行わなければ入れない)7章21節 ・イエスさまの言葉を聞くだけで行わない者は砂の上に家を建てた愚かな人に似ている7章26節 ・イエスさまが派遣したお弟子さんたちの言葉に耳を傾けようともしない者はソドムとゴモラよりも罪が重い10章14節、15節 ・人々の前でイエスさまを知らないと言う者はイエスさまも天の父の前でその人を知らないと言う10章33節 ・イエスさまよりも父や母、息子や娘を愛する者はイエスさまにふさわしくない10章37節 ・自分の十字架を担ってイエスさまに従わない者はイエスさまにふさわしくない10章38節 ・数多くの奇跡の行われたのに悔い改めなかった町々はティルスやシドン、ソドムよりも罪が重い。11章20節 ・人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。12章32節 ・人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。...

マタイによる福音書25章(5)十人のおとめに生じた「差」

そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 マタイによる福音書25章1~13節(口語訳) クリスチャンはキリストの十字架によって罪が赦された=義としていただいた者であるはずなのに、なぜ『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。 「十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。」 花婿を待ちわび、迎えに行く者は信者でしょう? なぜ、主人は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。ただ、そういうことを考える前に気付くべきことはこの十人は「花嫁」ではないということです。 再臨のキリストが花婿で教会(信徒)が花嫁であると教会や集会に通っていた頃に習いましたが、このたとえ話に登場する十人は花嫁ではありません。 信者が花嫁であるというのならこの人たちは信者ではないということになります。 行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われ...

マタイによる福音書25章(4)「天の国」

日本聖書協会様の聖書本文検索を使って調べてみたところ「天国(口語訳)、天の国(新共同訳)」という言葉はマタイによる福音書と旧約続編のエズラ記(ラテン語)2章37節(新共同訳)だけにしかない言葉のようでした。 天とは神さまのお名前の代わりに用いられている言葉なので、マタイが言うところの天の国とは、マルコ、ルカ、ヨハネによる各福音書、使徒、ローマ、コリント第一、ガラテヤ、コロサイ、テサロニケ第二、そして天の国と表現していないマタイの5カ所で使われている「神の国」という言葉と同じ意味だと考えられます。 ところで、「天の国」「神の国」という言葉は新約聖書には上述のように多用されているわけですが、旧約聖書では見られない言葉です。 そう言うと、ユダヤ教とキリスト教に違いや分断があるように聞こえるかもしれませんが、そうではなく、そういう語句が見られないというだけで、預言者によって預言されていたことです。だからこそ人々は「その国」を待望し、「王(メシア)」を待望していたのです。 ちょうど、今朝は詩編145編が通読箇所として与えられました。 145編を読むと、「天の国」「神の国」という言葉はなくとも、神さまは私たちの王なのだ、と思いますし、「天の国」「神の国」を理解することができます。 第145篇(口語訳) ダビデのさんびの歌 わが神、王よ、わたしはあなたをあがめ、 世々かぎりなくみ名をほめまつります。 わたしは日ごとにあなたをほめ、 世々かぎりなくみ名をほめたたえます。 主は大いなる神で、 大いにほめたたえらるべきです。 その大いなることは測り知ることができません。 この代はかの代にむかって あなたのみわざをほめたたえ、 あなたの大能のはたらきを宣べ伝えるでしょう。 わたしはあなたの威厳の光栄ある輝きと、 あなたのくすしきみわざとを深く思います。 人々はあなたの恐るべきはたらきの勢いを語り、 わたしはあなたの大いなることを宣べ伝えます。 彼らはあなたの豊かな恵みの思い出を言いあらわし、 あなたの義を喜び歌うでしょう。 主は恵みふかく、あわれみに満ち、 怒ることおそく、いつくしみ豊かです。 主はすべてのものに恵みがあり、 そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。 主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、 あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。 彼らはみ国の栄光を語り、...

マタイによる福音書25章(3)「目を覚ます」という言葉

だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 マタイによる福音書25章13節(口語訳) タラントのたとえを考えつつ、ふと目の行ったマタイによる福音書25章13節のみことばを読みました。 聖書ではどのくらいの数、上のマタイのみことばのようなニュアンスで「目を覚ます」という言葉が使われているのでしょうか。 日本聖書協会様の聖書本文検索 http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html を利用し調べてみましたら。驚くような数! とても引用しきれないので 福音書に限定してどんなものがあったのか引用させていただこうかと思います。 以下口語訳聖書から引用、文末のカッコ内に新共同訳と書いてあるところだけ新共同訳聖書から引用 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。マタイ24:42 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。マタイ24:43 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。マタイ26:38 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。マタイ26:40 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。マタイ26:41 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。マルコ13:33 それはちょうど、旅に立つ人が家を出るに当り、その僕たちに、それぞれ仕事を割り当てて責任をもたせ、門番には目をさましておれと、命じるようなものである。マルコ13:34 だから、目をさましていなさい。いつ、家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないからである。マルコ13:35 目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである」。マルコ13:37 「わ...

マタイによる福音書25章(2)聖書の世界の「財産管理」

また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 マタイによる福音書25章14~17節(口語訳) 今日は聖書の中で財産という言葉を含む場所を検索してみました。 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。マタイ21章38節(口語訳) アブラハムは、全財産をイサクに譲った。 創世記25章5節(新共同訳) その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。 疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。 申命記21章16、17節(新共同訳) 財産を「もらえる」のは子どもですが、タラントのたとえのように、信頼できるしもべに財産を管理させるというシステムがあったようです。 創世記24章にはアブラハムが財産を管理させている様子が登場します。上で引用したイサクに財産を譲ったのが25章ですからその前の出来事です。 アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。 しもべは彼に言った、「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。アブラハムは彼に言った、「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。 天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出して...

マタイによる福音書25章(1)「怠惰から臆病へ」 翻訳の違いで気付いたこと

一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 マタイによる福音書25章24~27節(口語訳) タラントのたとえを読むたびに、 1タラント預かった者は損失を出したわけではなく全額返還できるのに、主人はなぜ「持っていない人」と評価して外の暗い所に追い出すまでの仕打ちをするのか。 1タラントを紛失することもなく保全するのにも労力はゼロではなかったはず。主人はなぜ「悪い怠惰な僕」と評価するのか。 そんな疑問を持ち続けておりました。 しかし、 先日購入することのできた聖書協会共同訳でこの箇所を読み、ある言葉が別の言葉に翻訳されていたのを読み、その瞬間、これまでわからないわからないと思っていたことがするするとほどけていくような気分になりました。 そのある言葉とは、口語訳では「悪い怠惰な僕よ」という言葉。 それが、聖書協会共同訳ではこう訳されていたのです。 「悪い臆病な僕だ」 ・・・おくびょうなしもべ?なまけ者じゃないんだ? 「怠け者」ではなく「臆病」だという主人の評価を読んだとき、 そうか、と思いました。 主人は旅に出かける前、3人と個人的にいろいろ話したのではないかと。 そして最後に主人は3人に「私はお前たち3人には特別に期待しているのだ。目をかけて個人的に訓練もしてきたのだからな。大丈夫、お前たちならきっとできるぞ。万一失敗したって大丈夫だ。責任は私が取るから。いいか、お前たちは何も恐れる...

詩編127編 読み比べ

聖書協会共同訳聖書を読み始めてからハッとさせられることばかりなのですが、 今朝は詩編127編1,2節を読んでいて特に2節を読んだとき、少々驚いたような心持になりまして、思わずこの文章を書き始めてしまいました。 私が持っている4つの聖書からそれぞれ1節と2節の本文部分を書き出し、それぞれの聖書から自分はどう読んでいたのかということをお話します。 口語訳聖書  主が家を建てられるのでなければ、 建てる者の勤労はむなしい。 主が町を守られるのでなければ、 守る者のさめているのはむなしい。 あなたがたが早く起き、おそく休み、 辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。 主はその愛する者に、眠っている時にも、 なくてならぬものを与えられるからである。 口語訳聖書では、 人が家を建てる場合に 主ご自身がそういうご意志を持っておられ、人がそのご意志に従うということにより建てるということでなければ、建設にかかわる人の勤労はむなしい=意味がない というのです。 また、主ご自身が町を守ろうと考えられて、人がそのご意志に従って守るのでなければ 夜の間ずっと起きていて町を守るというのはむなしい=意味がない というのです。で、夜の間中起きているというような話題を受けて、でしょうか、早起きしたり遅く寝たり、という話が登場します。そして、辛苦のかてを食べるという言葉が並列されているので、早起きや遅く寝ることになるようなイレギュラーなことを好んでもいないのに強いられるということを辛苦のかてと表現しているのか、 もしくは早起きや夜遅く寝るということのような不快なこととともに辛苦のかてを食べると表現するようなつらく苦しい仕事を、 神さまの御心でもないのに、もしくは、神さまと関わりを持つこともなく行うなどということは、むなしい=意味のないことだ、と聞こえるのです。 で、問題はその次です。 「主はその愛する者に、眠っている時にも、 なくてならぬものを与えられるからである。」というのですが、 「からである」という表現ですから、何かに対しての理由や説明を述べているわけですね。 じゃあどこと関連があるのかと言えば、「眠っている時にも与えられる」と言っていることから、「守る者のさめている」あたりからの一連の睡眠不足におちいってまでの苦しい労働に関わる話であるということが推測できます。 しかしここ...

自分の前に神を置く

新共同訳で詩編54編を読んでいて5節が気になりました。 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。 詩編54編5節 「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」 創造主である神さまを「置く」という表現に、ちょっと違和感を感じつつも、置くということがどういう意味であるのかしばらく思いを巡らしておりました。 「置く」という日本語は、人間が何かを自分の手で持ち、テーブルだの棚だの自分の望むところに持っていき固定するとか、役職等に人員を配置するというような意味ですよね。 だから、異邦の暴虐な者たちが「自分の前に神を置こうとしない」というのはどういうことなのか、と言うと、 まずはポジション(位置)の問題として「自分の前」ではないということ。 では、「自分の前」とはどこでしょう。英語の翻訳を併せて考えると (Bible hubでヘブライ語聖書も見たのですがよく分からなったので英語を参考にしました) これはbeforeであり、 in front ofなので、「not far from 自分」であることが分かります。自分のすぐ前。はっきり見えるポジション。拡声器を使わずに対話できる位置。 「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」 そして、ここにはポジションの問題のほかに、置こうとするのかしないのかという「意志」という問題があるわけです。 「置こうとしない」という日本語訳に忠実にそのニュアンスをとらえようとするなら、過去、現在、という時の流れの中でいくらでも置くチャンスはあるにもかかわらず、「置く」という行為を選択しようとしない「彼ら」がいる。この詩編の作者であるダビデ、自分の前に神を置こうとし神を置くダビデには理解できない「異邦の暴虐な者たち」がいるのです。 ただ、なぜ私が「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と語るダビデの言葉に思いを巡らしているのかと言うと、自分の前に神を置こうとしないのは「異邦の暴虐な者たち」だけのこととして読み済ませてよいのか、と思ったからです。 本当に私たちは、 「神を信じていると公言している」私たちは、 神さまを自分の前に置いているだろうか、と思うのです。 日々の歩みにおいて、祈りにおいて、様々な場面において私たちのすぐ前に神さまを置いているでしょうか。 ...

【調べ学習】耕す者 悪しき者

「耕す者はわたしの背を耕し畝を長く作った。」(3節 新共同訳) 聖書協会共同訳で同じ箇所を読みましたところ 「悪しき者らは私の背に鋤を当て長い畝を作った。」(3節 聖書協会共同訳) と書かれていました。 以前からこの箇所は比喩のように読んで理解していたつもりでしたが、 耕す者が悪しき者と訳されるのならばもう一つの耕すという言葉はどうなってしまうのか、という素朴な疑問もあったので、 いつものようにBIBLE HUBで3節について調べてみることにしました。 まずは「背」。 これはgab·bîという言葉で  גַבּ  gab がもとになっているようでした。 https://biblehub.com/hebrew/1354.htm で、この単語には背という意味はあるのですが、新共同訳聖書の翻訳で言うところの ヨブ記13章の(土くれの盾にすぎない)弁護という部分がこの語であり、同じくヨブ記15章の厚い盾という部分がこの語。そしてエゼキエル書16章の祭儀台という言葉がこの語なのだとかいてありました。 そしてStrong's Exhaustive Concordanceによるとgabというのはthe top or rim, a boss, a vaultだということなので、 背も形状としてのイメージがそうなのかもしれません。 次は「畝」。 https://biblehub.com/hebrew/4618.htm   מַעֲנָה  maanahとあり サムエル上14:14 と詩編129:3に登場する単語なのだそうです。 で、maanahという語はanahが起源だと書いてあったのでanahのページを見ると https://biblehub.com/hebrew/6030b.htm 意味としてto be occupied busiedと書いてありました。 何だかとても忙しそうな言葉でありますが、 とにかく何か一定の範囲をいっぱいにしてしまって他のものが入らないような状況が頭の中にイメージされました。 たしかに、日本語で考えると畝というのは作物を植えるために盛り上げた土のことですから畑一面につくるわけで、maanahという語がanahが起源だというのは理解できます。 で、NASBはanahにafflicted (1), keeps him occupied (1), occ...

「神の栄光をあらわす」ということについて考えた

コリント人への第一の手紙にこんな箇所があります。 6章20節  あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。 10章31節  だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。 (それぞれ口語訳より引用) 先日朝、聖書を読んでいるときに、その箇所との関連は全くなかったのですが、突然これらのみことばが思い起こされました。 ・・・そういえば最近新約聖書を読んでないなあ、と思いながらこの箇所を開いてじーっと眺めたら何とも言えぬ「違和感」を感じ、 「神の栄光をあらわすだの神の栄光のためになにかをするとか、人間の分際でおこがましいんではないかい?」(;´Д`A ```とかつぶやいてしまいました。 おそらく、 ここのところ旧約ばかり読んでいたということが違和感を感じた原因だと思います。 なぜなら、旧約の中に表現されている「主の栄光」とは人間の意志とは全く関係ないものだからです。 旧約の中で「主の栄光」とは「現れる」ものであって「人があらわす」ものではないですから。 例えば 出エジプト記16:10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。 出エジプト記24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、 レビ記9:5、6 彼らはモーセが命じたものを会見の幕屋の前に携えてきた。会衆がみな近づいて主の前に立ったので、モーセは言った、「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」。 民数記14:10 ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。 そのとき、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。 旧約聖書ばかり繰り返し読んでいると、「主の栄光」という表現を見たときに、主が太陽にまさる光を放ってご臨在されているさまが思い浮かぶのです。 ただ、詩編96編を読むとパウロの言わんとしていることが分からなくはない気がしてきます。 (以下引用は口語訳聖書詩篇96篇) 新しい歌を主にむかってうたえ。 全地よ、主にむかってうたえ。 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。 日ごとにその救を宣べ伝えよ。 もろもろの国の中にその栄光をあらわ...

【調べ学習】杖について聖書辞典と本で調べてみた

今日も朝から杖について考えておりました。 で、そろそろ辞典を見てもいいかな、ということで いのちのことば社から1985年に発行された新聖書辞典で調べてみました。 辞典にはまず、杖には四つのヘブライ語(辞典本文ではヘブル語となっている)があると書いてあります。 マッケール、マッテ、ミシュエネス、シェーベトゥで4つともほぼ同じ意味だそうです。 ギリシャ語で杖はラブドスと言うのだそうです。 で、ちょっと驚いたのは、杖はときとして鞭と同義だと書いてあったこと。 でそれについては詩篇23:4が示されていました。 前回疑問だったレビ記の27章とエゼキエル書の20章のところの杖の下をくぐるとか杖の下を通らせるという表現についても辞典には言及があり、 羊の数を数えるということのようでした。そこから、神の選民を数えるときにも象徴的に使われ、 あとは、黙示録21章15,16節の、新改訳聖書では「さお」と訳され、新共同訳聖書では「ものさし」と訳されているものが元の言葉としては「杖」?? 辞典にそう書いてあったのでBIBLE HUBでギリシャ語を検索したのですが… 黙示録21章15,16節のところ「さお」「ものさし」はκάλαμον、καλάμῳと書いてあり、 https://biblehub.com/greek/2563.htm 見渡しても杖という意味のῥάβδος rhabdos(ラブドス)がない。 Revelation 21:15 https://biblehub.com/texts/revelation/21-15.htm Καὶ ὁ λαλῶν μετ’ ἐμοῦ εἶχεν μέτρον κάλαμον χρυσοῦν, ἵνα μετρήσῃ τὴν πόλιν καὶ τοὺς πυλῶνας αὐτῆς καὶ τὸ τεῖχος αὐτῆς. Revelation 21:16 https://biblehub.com/texts/revelation/21-16.htm καὶ ἡ πόλις τετράγωνος κεῖται, καὶ τὸ μῆκος αὐτῆς ὅσον τὸ πλάτος. καὶ ἐμέτρησεν τὴν πόλιν τῷ καλάμῳ ἐπὶ σταδίους δώδεκα χιλιάδων· τὸ μῆκος καὶ τὸ πλάτος...

【調べ学習】詩編2編の鉄の杖

詩編2編9節 お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」 詩編2編9節鉄の杖の「杖」という語はבְּשֵׁ֣בֶטでbə·šê·ḇeṭ https://biblehub.com/hebrew/beshevet_7626.htm 詩編2編9節のほか Judges 5:14 2 Samuel 7:14 Isaiah 11:4 Lamentations 3:1 で使われています。 そのほかの「杖」という単語でBIBLE HUBを見ていて気になったものをピックアップします。日本語の聖書は口語訳です。 Psalm 110:2 maṭ·ṭeh https://biblehub.com/hebrew/matteh_4294.htm HEB: מַטֵּֽה־ עֻזְּךָ֗ יִשְׁלַ֣ח 主はあなたの力あるつえをシオンから出される。 あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。 Psalm 23:4 šiḇ·ṭə·ḵā https://biblehub.com/hebrew/shivtecha_7626.htm HEB: אַתָּ֥ה עִמָּדִ֑י שִׁבְטְךָ֥ וּ֝מִשְׁעַנְתֶּ֗ךָ הֵ֣מָּה たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 Psalm 89:32 ḇə·šê·ḇeṭ https://biblehub.com/hebrew/veshevet_7626.htm HEB: וּפָקַדְתִּ֣י בְשֵׁ֣בֶט פִּשְׁעָ֑ם וּבִנְגָעִ֥ים わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、 むちをもって彼らの不義を罰する。 Micah 5:1 baš·šê·ḇeṭ https://biblehub.com/hebrew/bashshevet_7626.htm HEB: שָׂ֣ם עָלֵ֑ינוּ בַּשֵּׁ֙בֶט֙ יַכּ֣וּ עַֽל־ 今あなたは壁でとりまかれている。 敵はわれわれを攻め囲み、 つえをもって イスラエル のつかさのほおを撃つ。 Micah 7:14 ḇə·šiḇ·ṭe·ḵā https://biblehub.com/...

【調べ学習】白い馬に乗っている者の冠(黙示録6章と黙示録19章)

小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。 ヨハネの黙示録6章1~2節(口語訳) 日本の個人や教会のいろいろなサイトを見ていたら黙示録6章に出て来る白い馬に乗っている者について、本物のキリストだと言っている方と偽キリストだと言っている方がおられ、 特に何も考えることもなく読み過ごしていた「教会にも行かず年数だけ長い信者」の私は驚いてしまいました。 で、ヨハネの黙示録の19章に登場する白い馬に乗っている者が本物のキリストである、という点では共通していて、 論点は騎手の「冠」という言葉のギリシャ語と あとは持ち物。 6章の人は鉄の杖ではなく弓を持っているのでニセモノだという話と、 あと真偽はともかく弓はあるのに矢はどこだ?と言っている方がいらっしゃったので なんだかとても興味をひかれました。 なので、6章と19章の冠と6章の弓、または矢、鉄の杖について 自分でも調べてみることにしました。 まずはBIBLE HUBで調べてみました。 黙示録6章2節の冠についてはギリシャ語でστέφανος https://biblehub.com/greek/4735.htm stephanosというらしいのですが (ステパノさんの名前に似てる) BIBLE HUBで見られるEnglishman's Concordanceによれば この言葉と派生語は 箇所と回数について引用させていただきますとこのように書かれていました。 *この項の口語訳聖書は http://bible.salterrae.net/  さまからコピペさせていただきました。 Matthew 27:29 27:29また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 Mark 15:17 15:17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 John 19:2 19:2兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、 John 19:5 19:5イエスはいばら...