神さまのつくられたルールとシステムのなかで
新共同訳聖書を読むようになり、詩編19編の真ん中に「律法」という文字があることを知りました。 私は新改訳聖書を使っている教会や集会に通っておりましたので、長い間その部分には「みおしえ」という言葉がありました。 「律法」だって「みおしえ」だってどっちだっていいじゃないか、と言われるかもしれませんが、 詩編で言うと 詩編19編8節だけではなく詩編94編12節もそうですし、 119編 なんて1節、18節、29節、34節、44節、51節、53節、55節、61節、70節、72節、77節、85節、92節、97節、109節、113節、126節、136節、142節、150節、153節、163節、165節、174節 こんなに大量に תּוֹרָה Torah があったのです。 תּוֹרָה Torah は תּוֹרָה Torah なのに「律法」と訳さないで「みおしえ」や「おしえ」というごく一般的な名詞で書かれていた場合 かなり話が変わってしまうと思うのは私だけでしょうか? もちろん、説教をされる先生方がしっかり解説してくださる教会に所属しているならばそういう聖書を読んでいてもよいのかもしれません。しかし、私はそうではなかったので詩編で見つけた「律法」という言葉には本当にショックでした。 だいたい、律法と言えばガッチガチにしめ上げるルールだと思っていましたし、よくないものだと思っておりました。頭に残っている言葉は「律法学者」に「律法主義」。しかも既に律法は終わったと思っているわけです。なのでダビデが詩編119編の1節2節で いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 いかに幸いなことでしょう 主の定めを守り 心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 詩編119編1節2節 と「別の聖書を読んでいる人たちには」言っていたのだと知った時には大変にショックでした。 だって私にダビデは20年間こう言っていたのです。 幸いなことよ。 全き道を行く人々、 主のみおしえによって歩む人々。 幸いなことよ。主のさとしを守り、 心を尽くして主を尋ね求める人々。 詩篇119篇1節2節(新改訳聖書) だいたい「主の律法に歩む」ってどうすればいいのですか?律法は守らなくていいんでしょ? ダビデがずっとみおしえだって言ってたから 「そう...