言(ことば)は神であった、ので (2)
あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 ヨブ記41章2節(新共同訳) これ以上ない苦しみの中で 神さまのみ言葉を耳にしたヨブ。 そしてヨブは、神さまにはすべてがおできになり、どんな計画も成し遂げることが出来るということ、「御旨の成就を妨げることはできない」と悟った、と告白します。 ヨブの言葉を聞いて、おそらくは全てのクリスチャンがアーメンと言うに違いありません。 しかし、私たちは忘れるのです。「アーメン」と思っても忘れてしまう。 目に見えること、日々のことに追われ、 昨日のつぎの今日であり、今日のつぎの明日であり、 1年後、5年後、10年後 今と同じ暮らしがそこにあり続けるのだと 本当は神さまのご計画など成就しないと思っているわけです。 しかし、やはりそうではない。 …あり得るとは予想で来ていても、わが身に起こるとはまったく想定していなかったあらゆることが起こっているのです。 そして私たちは何度も何度も「神さま、なぜ?どうして?」と問いかける。 しかし、私たちがどう思おうと、私たちがヨブのように主張しようとも その全てはみこころのままであります。 みこころは成し遂げられ、 そして何事もなかったようにひろがる青空。 あまりにも爽やかなその青さに、 不信をもたらすむなしさと、そして怒りにも似た感情が クリスチャンであったとしても心の中に拡がっていくのを感じてしまう。 けれども、そんなときに「こそ」私たちは「あえて強く」心の中に思い出せなければいけません。神さまは天の「父」であるのだということを。神さまの私たちへの愛は変わらないということを。 そしてたとえあの瞬間が、私たちから何もかもを奪い去り、生きていく自信や気力をすべて失わせたとしても、 それは、間違いなく神のみわざが私たちを通して現れるためである、ということを。 そして、もう一つ。 誰が何と言おうと 父なる神さまのご計画は必ず成し遂げられる マタイの福音書の25章にはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のたとえがあります。 マタイの福音書が書かれてから今に至るまで、このたとえ話はたくさんの人々に読まれ続け、おそらくその読者のほとんどが単純な発想としてあのような愚かな5人の娘にはなるまじと思うわけであります。それで、「油をあらかじめ準備しておく」というのは聖霊の満たしであるから、聖書...