小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。
ヨハネの黙示録6章1、2節
今朝は創世記の9章6節を新共同訳で読んでいて、ちらっとひだりがわに目をやると「虹」という文字がありました。で、ああ、そろそろ全文書き取りにも「虹」が出てくる頃だわ、と思ったらヘブライ語で虹とはどういう文字で書かれるのか気になって気になってどうしようもなくなり、ついに誘惑に負け?朝食前のいそがしい時間帯なのにBIBLE HUBを見てしまいました。
Strong's7198. qesheth
קֶשֶׁת
https://biblehub.com/hebrew/7198.htm
スマホでアクセスしてわずか1分、7198番が「虹」であるということをBIBLE HUBは教えてくれました。
さらにその数秒後、この7198番のこのヘブライ語が、この箇所以外のどこに使われているのかということをEnglishman's Concordanceによって知ることができたのですが
ちょっとびっくりしました。
コロナ禍になってから何十回となく読み返したハバクク書3章9節の「弓」といういう言葉はこの7198番だったのです。
ハバクク書3:9
HEB: עֶרְיָ֤ה תֵעוֹר֙ קַשְׁתֶּ֔ךָ שְׁבֻע֥וֹת מַטּ֖וֹת
NAS: Your bow was made bare,
KJV: Thy bow was made quite naked,
あなたの弓は取り出された。
矢は、弦につがえられた。〔セラ
あなたは川をもって地を裂かれた。(口語訳聖書)
だからどうした?と言われそうですが、
私には以前から心に引っかかっている「弓」問題と「ヘブライ文字ק(クフ)」問題というものがあり、
「弓」問題↓
【調べ学習】白い馬に乗っている者の冠(黙示録6章と黙示録19章)
https://kyudochu.blogspot.com/2019/04/619.html
白い馬に乗っているのが本物なのか偽物なのかという話なのですが、この時もBIBLE HUBを使ってけっこう一生懸命調べた記憶はあるんですが、「冠」に気が行っていたせいか「弓」について調べていない。抜けてるんですよね。
「ヘブライ文字ק(クフ)」問題↓
「待ち望む」という言葉について(2)
https://kyudochu.blogspot.com/2022/01/blog-post_6.html
ヘブライ文字ק(クフ)についてウィキペディアで調べるとこう書いてあるのですが
「文字名称はヘブライ語でサルを意味する語(קוף kof)と同じであり、サンプソンはサルの頭を描いた文字に由来するというが、異論もある。ウィリアム・オルブライトは不明とする。」
本当にクフは「サルの頭の形が起源」なのでしょうか。
古代人がサルの頭というものについてどういう思いを抱いていたのか察することができないのでこういう言い方をするのは良くないような気もしますが、クフという文字はサルの頭よりも「聖い」気がするのです。(詳細は「待ち望む」という言葉について(2)に書きました)
また、忘れてはいけないのは、クフについては「サルの頭」説のほかに、「針の穴」説があり、これはウィキペディアの「フェニキア文字」という項を見ると書いてあるわけですが「針の穴」と言えばイエスさまのおっしゃったこの御言葉を思い出すわけです。
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
マタイによる福音書19章23、24節(口語訳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%AD%E3%82%A2%E6%96%87%E5%AD%97
大きなものだったり偉大なものにつかわれているג(ギメル)というヘブライ文字を含む文字列גמלであらわされるラクダが、究極の狭き門である針の穴を通っていくという話を改めて考えると、ヘブライ文字ק(クフ)は、不要なものをすべてそぎ落としてこそ入ることのできるような「聖さ」を表現しているような印象を受けます。(個人の感想です)
ちなみに、קクフという「文字」が最初に登場するのは創世記1章5節でした。
Strong's7121. qara קָרָא
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。(口語訳)
口語訳聖書で「名づけ」と翻訳されているところに使われているので5節には二回登場しています。
https://biblehub.com/text/genesis/1-5.htm
Strong's7121. qara קָרָאはNEW AMERICAN STANDARD BIBLEにおける翻訳ではこんな風に訳しているそうです。カッコ内は回数。
become (1), become famous (1), call (121), called (301), calling (11), calls (17), cried (24), cries (1), cry (19), crying (2), dictated* (1), famous* (1), gave (4), given (1), gives (1), grasps (1), guests (4), invite (6), invited (14), live (1), made a proclamation (1), make a proclamation (1), men of renown (1), mentioned (3), name* (4), named (12), named* (62), offer it terms (1), proclaim (28), proclaimed (17), proclaiming (3), proclaims (2), read (35), reading (2), reads (1), screamed (2), screamed* (1), shouted (1), spoken (1), sues (1), summon (6), summoned (14), summoning (1), summons (2).
そして、同じ1章5節にはもうひとつクフの使われている単語があって、それは
Strong's 1242. boqer בֹּקֶר
「朝」という意味がある言葉です。
さて次に「弓」問題の話。
「弓」という単語が「虹」と同じ文字列で表現されているすると、
たしかに形状は🌈似ていますのでね、両者が同じ文字列になるということはありそうですし、そもそも英語で虹は(rain)bowですから、英語の翻訳聖書を読んでいる人々ならば弓と虹が同じ文字列であったとしても、だから何?ということにもなりそうですが、日本語の翻訳聖書を読んでいる私としては弓と虹を関連付けようなどと思ったことは全くなかったものですから本当に驚いてしまったわけです。
また、考え続けている「ヘブライ文字ק(クフ)」問題と絡めて、
קという文字がもしも「契約の虹」に深い関わりをもつようなことがあるとすれば「弓」という言葉を含む旧約の預言や、新約で唯一「弓」という語の登場する黙示録の白い馬に乗る騎士に関して、解釈に多少の影響があるのではないか、と思ったわけです。
古代の聖書の国の人々はこの二つの単語をどういうイメージでとらえたのだろうか、弓という言葉が出てきたときに、その武器をどういうものであるととらえたのだろうか、と。
例えば、
この「弓」とか「虹」にあたる単語が「契約の虹」の次に登場するのは創世記21章のところであるとコンコルダンスにありましたので、口語訳聖書から引用してみます。
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
創世記21章14~18節(口語訳)
「矢」という言葉の「あたり」に使われていました。「あたり」と書いたのは、日本語では矢と書いてあるあの場所はヘブライ語では矢とは書いていなくて、
הרחק כמטחוי קשת
הרחק a distance
כמטחוי the shot
קשת of a bow
と書いてあります。
翻訳された方としてはおそらく、原典の言わんとしていることを日本語ユーザーにわかりやすく伝えるためには「弓」という語を使って表現するよりも、「矢」という言葉を補って、「矢」が飛んで落ちるという一連の動きを感じながら距離感をつかめる表現にした方が良いと思ったのでしょう。
このストーリーはこのあと「神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。21章20節(口語訳)」というところに到達するわけですが、ストーリーの流れを追うためには前に弓が登場しようとそうでなかろうと関連性は追えるわけで、そういう点では問題のない翻訳だとは思います。
ただ、もしもヘブライ語聖書の著者が「弓」という言葉に何らかのニュアンスやエレメントを入れ込んでいた場合、見落としてしまうことになりそうです。