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偶像(2)

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最近私は「羊飼いが見た詩篇23篇」という本を読んでいるのですが、 詩篇23篇でダビデが「主は私の羊飼い」とたとえたその深い意味を学ぶ面白さにすっかりはまってしまいました。 羊という動物の性質や行動の細かいことを知れば知るほど、羊飼いとたとえられたお方のいっしょうけんめいな愛を感じます。 例えば41ページのこんな記述や 「(略)予期しなかった小さな犬をちょっと見ただけで(略)二百頭を越える私の羊は(略)逃げた。」「(略)無力で、臆病で、弱々しい、ただ逃げることしかできない動物」 71ページ 「(略)最も強い、時にはもっとも健康な羊でさえ、倒れて、死傷することがありうる」 69ページ 「ひっくり返って、自分で起き上がることのできない羊(略)立ち上がろうとしてもがく中で皮がむけてくる。(略)持ち主がかなり短い時間のうちにそこに到着しないと、羊は死ぬ。」 転びやすい性質を持つ「私」という羊が、うっかり転び、ひっくり返った挙句に起き上がれず、狂ったようにもがいているとき、羊飼いである主は何をおいても飛んできて抱きかかえて起こしてくださるお方なのだ、何回転んでもやさしく起こし、傷だらけの体に薬をを塗って、おいしい露にぬれた青草を毎日毎日食べさせてくださる。だからこそ今もこうして生きていられるんだ、と本当にうれしくなりました。 さて、 今日のタイトルは「偶像」であります。 実はこの本の42ページにこんな文章がありました。 42ページ 「時が経つにつれて、羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。主人、持ち主、保護者がそこにいることで、彼らは何よりも安らぎを感じた。」 そこを読んだとき「ああそうか、だからクリスチャンは偶像をつくってしまうのだ」という思いに至ったのです。 「羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。」と書かれていますが、ここです、羊のこの性質が「無意識下の悪意なき裏切りの自覚なき偶像」を作り出してしまうのです。 人間の目にはっきりと見えたお方イエスさまが地上にいらっしゃらない今、 もちろん私たちには聖霊さまが与えられているわけですが 神さまを「五感で感じられない」という問題は、特に偶像の国「日本」で生まれた羊にとっては大きな不安定要素になるので...

残りの者(1)

黙示録3章1~3節 3:1サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。 『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。 3:2目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。 3:3だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。(口語訳) 私は30年以上の間「新改訳聖書」を読んでおりましたので気づきませんでしたが、口語訳もしくは新共同訳聖書を開くと3章2節に 「残りの者」 という表現があるのです。   「目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。(口語訳)」 新改訳聖書では、ここを「ほかの者」と訳しているのですけれど、ギリシャ語聖書にはこう書かれています。 λοιπὰ (loipa) Strong's Concordanceでこの語句を見ると、 Short Definition: left, left behind, the remainder Definition: left, left behind, the remainder, the rest, the others. とあって、the othersという訳語をあてることに問題はないのですが、 left, left behind, the remainder, the rest,というニュアンスを持つ語だと理解すると少々話が変わります。というのは、 旧約聖書に書かれているところの「残りの者」という言葉には、神に従っていたからこそ滅ぼされずに地上に残されたものたちという意味があるからです。 たとえばノアの箱舟のストーリーにおける滅ぼされた者と残った者との違い、 ほかには列王記上19章のところ、そこではエリヤのエピソードの中で、神さまがこのように語ってくださる場面があるのです。 「また、わたしはイスラエルのうちに七千人を 残す であろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である 列王記上...

二羽の雀

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 マタイによる福音書10章29節 今日、祈っているとき、マタイ10:29のみことばがふと心に浮かびました。 私たちの天の父は小さな小さなすずめたちのいのちもこころにかけていてくださるお方なのだなあと思いました。   アダムによって罪が入って以来、 人はお母さんのお腹の中で存在し始めた瞬間から身体にも心にも弱さを抱えるようになりました。 それで、身体も、心も、病み、苦しまなければならなくなりました。 しかし、それは神さまがうっかり目を離したり私たちのことを忘れてしまわれたからではないのだ、ということを マタイ10章のみことばは語ります。 あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 このみことばを読みながら同時にヨブ記の2章にある神さまとサタンのやりとりを思い出すと「なぜ」と問いたくなることもありますが、 しかし、全地全能のお方に自分のような小さな者がたずね、なにがしの回答を得たところで、レベルが違いすぎてきっと理解できないのです。   ただ、覚えておかなければならない忘れてはいけない間違いのない確かなことが一つ。 ヨブの件についてもそして私たちの苦しみに関することについても神さまは「許可」を出されているのだ、ということ。   身体を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、 心を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、   それは、神さまが決して無関心であったわけでも、 うっかりしていたわけでも、 失敗したわけでもない。    許可を出されたから。   愛する者を苦しめるほどの意味と価値がそこに在ったから。     二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 マタイによる福音書10章29節  

新しいのか古いのか

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」 ルカによる福音書5章36~39節 3日間、ルカによる福音書5章の後半部分で足踏みをしていました。 昔、「新しい服の布」「新しいぶどう酒」と言われているのは「イエスさまの教え」のことで、イエスさまの教えは力強く発酵する新しいぶどう酒のような力に満ちた教えであるから、既存の律法主義的なユダヤ教=古い革袋 の中には収められない?のだ、と教わったなあ…と思い、そうそう、そういう話だった、ということで読み終えようと思ったのですが、ふと見たら「もう一節」ありまして   また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」 ルカによる福音書5章39節 ずっと前からこの節もあったはずなのですが(そりゃ当然) しかし、マタイによる福音書9章やマルコによる福音書2章には無いのと、 5章38節までのところについて昔習った「解説の印象」がとても強かったので「分かったつもりになっていて」飛ばして読んでいたような気がしてきました。 いや、読んではいたのだけれどもなんの違和感を感じなかったのだと思います。 が、今回はどうしたことかとても違和感を感じたのです。   で、一日中39節のことを考えていたのですが、分からないスパイラルに陥ってしまったので、ちょうど休日だった夫に久しぶりに聖書の質問をぶつけてみました。   すると彼は聖書を開くこともなく 「古いぶどう酒=ユダヤ教 ということで、当時のユダヤ教指導者たちが 新しいもの=イエスさまの教え を欲しがらないという意味だよ」と即答。 あまりにもあっさりと「当然」という顔で言われたのには驚きましたが、 「…たしかにそう教わったんだ」と思い、夫の言葉にとりあえず肯いたのではあります。 ...

エレミヤ書、いちじく、ザアカイさん

今日はエレミヤ書の7章8章が通読箇所でした。 エレミヤ8:13 「私は彼らを、刈り入れたい。 ―主のみ告げ― しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、 いちじくの木には、いちじくがなく、 葉はしおれている。 わたしはそれをなるがままにする。」 少し前からいちじくが気になり、 新約聖書マタイの福音書21章に出てくる葉ばかりが茂っている「いちじく」をイエスさまが枯らしてしまわれたところと、創世記3章に出てくるアダムとエバが自分たちが裸であると知ったときにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいをつくった、というあたりが気になって仕方がないというのが気になりだしたきっかけだったのですが 今日の、「私は彼らを、刈り入れたい。」という神さまの言葉にマタイ21章で空腹を覚えられたというイエスさまを見た気がしたのです。 イエスさまが空腹を覚えたとマタイ21章のストーリーは イエスさまのふるまいを見て「あまりにも身勝手」だと感じる人が信者にもいないわけではなく、信者ではない人に至っては「人間だもの」と嘲笑。 しかし、そんなふうに言われてしまうイエスさまが異様に思えて…絶対何か深い意味が、見落としていることがあるに違いないと長い間思っておりまして・・・そういう気持ちを持ちつつ本日に至っております。 今日エレミヤ書で8章13節のみ言葉を読んだとき、ここに至るストーリーから考えると、本当に、本当に神さまのイスラエルに対する思い、悲しみが伝わってきて、そうしたなかで「私は彼らを、刈り入れたい。」ということばにつながっていくということを感じるわけなんですが、イエスさまの空腹という話ももしかしたらここにつながってくるのではないだろうかと。 ただ、エレミヤ書のこのみ言葉では、「いちじくの木には、いちじくがなく、 葉はしおれている。」ということで、マタイ21章とは異なり、葉がしおれているのです。マタイ21章ののいちじくは葉が茂っていますのでちょっと違います。 そうするとまた思い出すのが創世記のいちじくの葉。 創世記では、あのあと、神さまが皮の衣をアダムとエバのために作ってくださって着せてくださったんですね。 この件について、善良なキリスト教徒であったときに繰り返し何度も教えられたことは、「皮の衣を作るためには動物の犠牲が必要だった」ということです。 裸であると知ったのは彼らが神さまの言葉に従わなかった...

イエスさまの孤独

今日の聖書通読はマルコによる福音書14章でした。     再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。 マルコによる福音書14章41、42節   イエスさまが捕らえられる直前の様子をマルコは描きます。   「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」 私はこの言葉を読むたびにイエスさまの深い孤独を感じます。   親しい仲間たち=弟子たち は眠っている。 しかも、自分を裏切って敵の手に渡すのは弟子であるユダです。 十字架は「人」の罪の身代わりです。「さばき」です。 父なる神さまとの断絶です。   …主は、人間となられた主イエスは、完全な孤独です。   しかし、   本当は、人間とは孤独なものです。 孤独以外のなにものでもない。 「本当は」と書いたのは、 通常は「孤独」なんて感じないことが多いからです。 でも、何かあった場合、 私のような落ちこぼれ孤羊は痛いほど感じます。 ああ、孤独だ・・・と。 もっとも、囲いの中にいても同じだったのです。 だからこそ外に出てしまったような気もします。 喜びであれ、ましてや苦しみを 真の意味で人と分かち合うことなど 出来るものではなかったのだという絶望、孤独。     東日本大震災のあと、「絆(きずな)」という言葉がもてはやされ、SNSでつながることが流行しましたが、 悟った者のように語らせてもらえば、 どんなにたくさんの人とつながろうと、むしろ、つながればつながるほど孤独を感じるものです。  なにかイレギュラーなことが起こればなおのこと ひとりぼっちであるという事実と感覚は増幅して襲い掛かってきます。 親がいてきょうだいがいて親族がいたとしても同じ。 SNSより少し上質な「つながり」は 上質であると思えば余計に失望させられる。     人に期待し、人を頼っても、 結局人は何もしてくれないし、 逆に自分だって 精一杯行ったつもりでも 誰...

【調べ学習】いちじくについて

「いちじく」について調べ学習をしました。   イエスさまが「いちじくの木を呪って枯らしてしまう話」というのが、今通読しているマルコの福音書をはじめ他の福音書にもあるわけですが、 何度読んでも変な話だとしか思えないのですよ。だってね、イエスさまはまず空腹を覚えられ→いちじくの木のところに行って実がないと知り→呪っていちじくの木を枯らす ってね、簡単にストーリーは展開していくわけですが、でもイエスさまが荒野の試みで空腹だったときどうであったか、5000人給食のあたりの話とのからみではどう考えればいいのか、とか考えると、腹が減って食えなかったから枯らしちゃったというそんな簡単な話であるはずがない。 で、教会や集会でもこれはね、と「解釈」を習ったことはあるのですが、「解釈」ではなく、また、辞書的なものでなく、聖書のみことばをひたすら読んで読み取ったらどう読めるのか大変に興味があったのです。     今回の調べ学習の手順は、 エレミヤ書8章13節に出て来る「いちじく」という語を手がかりにおなじみBible Hubでまず原語(ヘブライ語)を検索。 http://biblehub.com/jeremiah/8-13.htm つぎに、その言葉が聖書(旧約)のどこに使われているかを調べ、 http://biblehub.com/hebrew/8384.htm その全ての箇所を読むことでどういう印象を持つことになるのか、やってみました。   原語は תְּאֵנִים  Transliteration(音訳)すると 「teenah」だそうです。 で、この語は聖書の中に39回登場。 以下聖書の箇所と括弧内はその箇所のざっくりした内容です。 括弧内にA、Bと書いてあるものは、聖書を読んでいて気になった箇所で、この下にAグループBグループ二つのグループに分類して、日本語聖書を引用しています。   創世記3:7(葉) 民数記13:23(エシュコルの谷) 民数記20:5(A) 申命記8:8(B) 士師記9:10(たとえ話) 士師記9:11(たとえ話) 列王記上5:5、新改訳聖書ではⅠ列王記4:25(B) 列王記下18:31(B) 列王記下20:7(B) ネヘミヤ記13:15(安息日を汚す) 詩編105:33(A) 箴言27:18(いちじく...

【調べ学習】塩について

マルコ9章49節「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」の「塩」という言葉についてギリシャ語を調べました。 いつものように http://biblehub.com/ です。 はじめに Berean Study Bible の英語の訳。 For everyone will be salted with fire.   will be saltedに該当するギリシャ語は ἁλισθήσεται. で、聖書には3回登場するそうです。 マタイ5章13節「何によって塩けをつけるのでしょう」 マルコ9章49節「塩けをつけられる」 もう一箇所も、 マルコ9章49節…ん???   ここで、さっそく「知らなかったこと」の発見。  マルコの9章49節は 新改訳では 「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」 と書いてあり、 また多くの英語の聖書も will be salted ἁλισθήσεται. という言葉は1回だけ使われているのですが、 以下1回登場する聖書の聖句 New International Version Everyone will be salted with fire. English Standard Version For everyone will be salted with fire. Berean Study Bible For everyone will be salted with fire. New American Standard Bible  "For everyone will be salted with fire. 以上。   ところが新改訳聖書や上に引用した聖書とは異なり ἁλισθήσεται. という言葉が2回使われているものがあるのです。 King James Bible For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt. International Standard Version Because everyone will be salted with fire, and every sacrifice wil...

神がともにいてくださるということ

新共同訳をメインの聖書として読むことにしました。 で、 今日はマルコによる福音書の11章1~7節を読みました。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 マルコによる福音書11章3~6節(新共同訳)   聖書を読み慣れている人にとって、そして聖書の神さまを既に信じている人にとってこの箇所は、取り立てて違和感を覚える場所ではないかもしれません。 しかし、初めて聖書を読む人にとっては、とても不思議な感覚を覚える箇所なのではないか、と思うのです。   イエスさまが二人の弟子をいま使いに出そうとしておられます。 イエスさまは弟子にまだだれも乗ったことのない子ろばを連れてきてほしいのです。 で、イエスさまは言うのです。「向こうの村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが見つかるから、それをほどいて持ってきてね」と。 ほどいて持ってきてね??勝手にほどいて持ってきたら泥棒じゃん、と思うわけですが、そういう読者や、おつかいに行く弟子たちのために、イエスさまは持ってきちゃうにあたっての注意点をあらかじめ伝えて下さるわけです。   もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)   この箇所を読むといつも同時に思い出す箇所があります。 イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 マルコによる福音書14章13~16節 ...

偶像(1)

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今朝は通読箇所の他に黙示録の七つの教会のところを読みました。 で、ちょっと気になった「ニコライ派」という言葉。どんな教えのことなのかと検索してみましたら、中学生の頃ほぼ毎日聴いていたラジオ番組のサイトにとてもわかりやすい説明があり感謝でした。 http://www.jesus-web.org/radioprg09/prg_box190_20090325.htm …偶像。 一瞬、「偶像かあ。じゃあ私には関係ないこと」という思いになりました。 しかし次の瞬間、いや、待てよ、偶像って… クリスチャンは、おそらく偶像なんて拝まないでしょう。金メッキされた像とか、石を削った物とかその手の物など聖書の言葉を知っているクリスチャンが「通常は」そんな物を拝むはずなんて無いと思います。 しかし、 「偶像」が文字通りの「像」でなかったならば、偶像を避けることは難しいかもしれません。 先日、私は一本の動画を見ました。それは以前所属していた集会で人気のあった伝道者の方の動画でありました。 しかし、視聴し始めてそれほど経たないうちに、私はその動画を見なければよかったと後悔しました。 https://youtu.be/FBtiC7m4GS4?t=11m56s 実はそのメッセージには、原発に関連した内容が含まれていました。 伝道者の彼は軽い調子で「福島でがんは増えていない」と語りました。 医師でも研究者でもない、ご自分で調査をしたわけでもないはずの彼がなぜそんなことを断言できるのか知りませんが、彼は「福音」を語るために上がった壇の上からそう聴衆に語りました。 しかし私は、岡山大学の津田敏秀教授の論文により福島では少なくとも甲状腺がんは増加していると認識しています。 もっと言うとそれは福島だけの問題ではなく、群馬県内に住む私の親族でも成人の一人が膀胱がん、別の一人が心疾患、別の三人に謎の大きな腫瘤(ピンポン玉大)がそれぞれ身体の数か所にでき、そしてさらに別の二人の「男性」は甲状腺の疾患を発症しました。 申し添えるなら、がんについては家系的にそういう疾患が多いわけではなく、腫瘤についても甲状腺疾患についても初めてそういう病名を親族から聴いたので驚いているのと、彼らに共通する考え方や生活習慣がこういう文章を書いている私自身とは真逆・・・というかそれ以上の積極性を感ずるものであったので、悲しみと恐怖を覚...

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 3

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。 マルコの福音書9章42節   高校のクラスメートの一人に、いつも難しそうな本を読んでいる女の子がいました。彼女の親族の方が著名な思想家であったことから、彼女は宗教や思想、そして哲学についていろいろと興味を持っているようでした。 同じクラスとはいえ、一クラス45人、女子ばかりが集合しているその空間で、私たちには長い間接点はありませんでした。趣味の合う者同士、気の合う者同士、が友だちになるのは当然の流れですから、哲学なんてものに一切興味のない自分にとって、彼女と何かを分かち合うとか話そうという動機がなかったからです。   ところが、ある日。 そのころの私は、学校の近くにあった「キリスト集会」の高校生会に出席するようになっていたのですが、聖書の話が難しくて分からないので予習しようと思い、学校の図書館にあったバークレーの聖書注解を、(禁帯出だったので毎朝図書室に通って)ノートに写していたのです。で、いつものように図書室に行ってごそごそやっていたところ、そこに「彼女」がやってきて声をかけてくれたわけです。   「聖書をお読みになるの?」   お読みになるっていうレベルじゃないんだけど…まあ、ちょこっとな、ちょこっと。週に10節程度のもの…ん?なんて答えればいいんだ、こういう場合… 「ぁ、少しだけ。最近学校の近くの教会に行き始めたから。」   「ぁ、教会。あ、そうなのね。私はキリスト教を信じるつもりはないので布教とかはしていただかなくてもよろしいのですけど、それにしても聖書ね、新約聖書ですけれど一箇所どうしても腑に落ちないところがあるのよね。」   「はぁ…。腑に落ちないんですか?」   「そう。殺すな自殺はするな、っていう教えであるはずの聖書がね、そう教えていたはずなのに、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい、だとか、片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさいというような残酷なことを言い出すのよね。それまでのイエスとは明らかに様子が違うのよ。まあ、〒#¥*※◯&#℃%‰♪…(ムズカシイ言葉がいろいろあったので細かい記憶がない)」 ...

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 2

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼に首をゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。 マルコの福音書9章42節 このマルコの福音書9章42節の箇所というのは、他にマタイ18章とルカ17章に似ている箇所があるのですが、 実は、マタイとルカの箇所を読む時には悩まないで通り過ぎることができるのです。しかしマルコの福音書だとムムムっとなる。 なぜそうなるのか、と言いますと、ここに至るストーリーの構成が違うからなのです。   マタイはこの石臼問題の直前に「天の御国で一番偉いのは子どものように自分を低くする者」というストーリーを一本入れ、「このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。」と結論づける。そしてすぐに「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、…」と続くから、一般論としての「漠然とした小さい子どもにつまずきを与える話」として読み流すことが出来るのです。 また、ルカは、マルコにあるような誰が偉いかとか悪霊を追い出している者を見たけれどやめさせた話というのは石臼の話よりもずーっと前の9章に出て来るのです。それで、石臼の話はずいぶんあとの17章に唐突に登場するのですね。しかも石臼の直前の話は「金持ちとラザロ」の話。というわけで、ルカのみ言葉は内容としては同一のように見えますが、マタイやマルコとは「文脈」が異なりますのでルカの17章は同列に扱ってはいけない気がします。ルカはむしろ9章が同じ「時」の話のように見えます。     最近私は聖書のストーリーを映像作品にしたものを何本か見る機会を得ました。で、素晴らしいなあ、と感謝したのでありますが、感謝しつつも実は少々の不満を感じたのです。 何が不満だったか? それは、私が聖書を読んで思っていたイメージと、役者さんの演技がかなり違うものだったからです。←生意気なことを言ってやがる まあ、そんなのは仕方のないことですけどね、ちょっと不満に思えてしまいました。   同じ小説を題材にしても監督さんによって全く別の映像作品に仕上がるということは普通にあるわけですが、それはどうしてそういうことになるかと言えば、同じ作品を読んでも理解というか解釈というかそういう...

30年間悩んでいる「大きい石臼に首を」の話 1

ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。 マルコの福音書9章38~40節 引用したのは新改訳聖書第3版です。 ふと疑問がわき、またマルコの9章に戻ってきてしまいました。 疑問がわいたのはこの直後の箇所だったのですが、そこを調べるために Bible Hub で検索してみたところ、今日引用した新改訳聖書の訳に?(はてなマーク)がついてしまったので、忘れないよう記録しておくことにしました。     New International Version "Teacher," said John, "we saw someone driving out demons in your name and we told him to stop, because he was not one of us." "Do not stop him," Jesus said. King James Bible And John answered him, saying, Master, we saw one casting out devils in thy name, and he followeth not us: and we forbad him, because he followeth not us. But Jesus said, Forbid him not   New American Standard Bible  John said to Him, "Teacher, we saw someone casting out demons in Your name, and we tried to prevent him because he was not following us." But Jesus said, "Do not hinder him     しかし、イエスは言われた。「やめさせるこ...

主は寛容なお方(4)「感じたことを感じたままに感じたとする」

「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」 すると彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。 だからといって、人から、と言ってよいのだろうか。」 ―彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。 そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません」と言った。 マルコの福音書11章30~33a節     私の頭の中に現れた変な等式 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる 子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる   A=B、B=CならばA=Cで、 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる   にこだわってこのところの通読でマルコの福音書を少しずつ読み進めているわけですが、 今日もまた「これだよ、これ」というみ言葉に出会うことになりました。 冒頭に引用したマルコの福音書11章のみ言葉がそれです。   これは、イエスさまと祭司長、律法学者、長老たちとのやりとりが書かれている箇所ですが、イエスさまの問いに対して「わかりません」と答えた彼ら。これは「子どものように」の対極だ、と思いました。 わからなくて「わかりません」と言うのなら子ども。しかし、そうではなくて、事が自分にとって有利になるよう考えた結果の「わかりません」という言葉。   別の箇所でイエスさまはこんなことを言われたことがあります。 わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。 ヨハネの福音書14章11節 これともまた別の箇所で「見ずに信じる者は幸い」とイエスさまはおっしゃったことがありますが、もしも見たのなら、(「見る」とは肉体の目で見ると言うことだけではありません、あっ、と何かを得る瞬間感じる瞬間というものを 主 は与えてくださる) だいたい、イエスさまが地上を歩まれていたあの時代には、福音書に書かれているようなこと=わざ を皆が実際に体感出来たわけです。そういうことを「見て」しまったのなら、当然そのことによって何かを感ずるはずです。 しかし、祭司長、律法学者、長老たちはどうだったでしょ...

主は寛容なお方(3)「子どものように、自分を低くする者」とは

前回まではマルコの福音書10章15節の「子どものように神の国を受け入れる」 ということばを読んでいましたが、今日は関連するみ言葉としてマタイの福音書18章のみ言葉を読んでみることにしました。 マルコの福音書の10章15節に対応している箇所はマタイの福音書19章14節のところだと思うのですが、 イエスさまが「子どもたち」のことを具体的にどのようであるとお考えになっているのかがはっきり書かれているのがマタイの18章4節なので、そのことについて考えようと思いました。     そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。 マタイの福音書18章1~4節 「だから、この子どものように、 自分を低くする者 が、天の御国で一番偉い人です。」 イエスさまは、子ども=自分を低くする者 だと言われています。 しかし、…子どもって自分を低くしているだろうか?? 実はずっとこの新改訳聖書の「自分を低くする者」という言葉が引っかかっているのです。 引っかかったまま放置し続け30年。(;^_^A だって、そう書いてあるんだからそうなんだよ、と納得しなくてはならないまま30年。 しかし!つい最近知ったBible Hubという素敵なサイトがあるじゃないか!そう、2016年のオバサンはついに誰かが作って下さった素敵なサイトによって、完全にあきらめていたギリシャ語で聖書を読むということが出来るようになったのでありました。 世の中が英国のEU離脱の件で大騒ぎしている最中、みんながどよーんと不安いっぱいの顔でいるのに、ひとりうきうきへらへらとパソコンに向かいマタイ18章4節をBible Hubに入力してオバサンmet Greek word at last!!! ταπεινώσειという言葉なんだそうですよ。で、マタイ18章4節の他、マタイ23章12節に出て来るらしい。 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。 というみ言葉...

主は寛容なお方(2)「子どものように神の国を受け入れる」ということの真意

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは何とむずかしいことでしょう。」 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」 マルコの福音書10章17~27節       前回の「主は寛容なお方」という記事で、私はこんな「変な」等式を書きました。   律法学者やパリサイ人の義にまさる義=天の御国に入れる 子どものように神の国を受け入れる=天の御国に入れる   A=B、B=CならばA=Cで、 律法学者やパリサイ人の義にまさる義=子どものように神の国を受け入れる   何の話を書いていたかというと、「どんな人が神の国に入れるのか」という話です。 マタイの福音書5章には、私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさる義...

主は寛容なお方(1)「神の国は誰のものなのか」

クリスチャントゥデイを読んでいたら、「パキスタンのイスラム教徒たち、キリスト教会再建を支援」というニュースに出会いました。 http://www.christiantoday.co.jp/articles/21180/20160617/pakistan.htm   パキスタンのキリスト教徒たちが、パンジャブ州にあるゴジュラで賛美歌を歌う。ゴジュラはキリスト教徒居住地の近くにある。2009年、1人のイスラム教徒の暴徒による襲撃事件が起きた。キリスト教徒の1家族7人はじめ10人が殺され、数十の家々や四つの教会が放火された。 この記憶を癒やす異教徒間の協力が始まっている。異教徒同士の対立があまりにも頻繁に起こる国家で、イスラム教徒とキリスト教徒が一緒になってキリスト教会の会堂を建築しているのだ。 (続きはクリスチャントゥデイのサイトで) 素晴らしい! 本当に感謝なことです。   このニュースを読んだとき、 マルコ9章41節にあるイエスさまのみ言葉が思い出されました。   あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。   「あなたがたがキリストの弟子だからというので」 という言葉のニュアンスとこのニュースの話は異なるかもしれませんが、 キリスト教徒を助けてくださっているパキスタンのイスラム教徒の方たちにゆたかな報いがございますように。         ところで、 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。 という イエスさまのみ言葉を読むたびに思うのは 主 は 寛容なお方である ということです。 こういう言い方をしたら怒られるかもしれませんが イエスさまはクリスチャンにはない自由さ寛容さを持っておられると感じます。 まあ、イエスさまは神さまですから、 神さまご自身ですから権威がありますからね、 ご自身のみ言葉がルールとなるわけですが、 一方クリスチャンはタダの人間でありますから、 与えられたルール内でああじゃないこうじゃないと必死に判断し、 また一生懸命聖書の行間を読んでゴチャゴチャやっておりますからね...

【調べ学習】聖書に書かれている「鳥」と「からし種」について(冒頭に2022年の追記あり)

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2022年8月に書いた追記 2016年のこの頃はまだギリシャ語やヘブライ語聖書を読むことは完全に無理でした。…でも読みたかった…本当に読みたかった。そう求めていたこの日、たまたま?BIBLE HUBというサイトに出会ったのでありました。ここから人生が変わったと言っても過言ではない   今日の聖書通読はマタイ13章でした。 先日、旧約部分を読み終えてから、「毎日2章ずつ通読」というのをやめ、「基本は1章、でも足踏みしたり戻ったり」という読み方に変えたのでなかなか先に進みません。でも、1章の系図のところなど焦らずにひとりひとり確認してから進むことが出来たので良かったと思いました。   というわけで、今日は一応13章を読む日だったのですが 「からし種」のところ(32節)でつかえてしまったので、また止まることにしました。   イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来てその枝に巣を作るほどの木になります。マタイ13章31、32節   ここの箇所は、何度もお話を聴いたことのある場所で、メッセージでも聖書研究でも 「天の御国の生命力の強さ」を表すというプラスのイメージで習ってきたのですが、ちょっとだけ、ちょっとだけなのですが疑問がわいたのです。   一つはヨハネの黙示録のみ言葉とのからみで 倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた憎むべき鳥どもの巣くつとなった。ヨハネの黙示録18章2節より   もう一つはエゼキエル書31章のみ言葉との絡みでどうかと。 (略)その小枝にはあらゆる鳥が巣を作り、(略)それゆえ神である主はこう仰せられる。そのたけが高くなり、そのこずえが雲の中にそびえ、その心がおごり高ぶったから、(略) まあ、黙示録のところは、倒れた後の話ですし、しかも倒れたのは大バビロン。エゼキエルのところは、杉の木の話で、…いずれにしてもからし種の木は倒れていませんので、絡めたところでどうってことはないとは思うのですが、 からし種のたとえの次に来る話がパン種の話で… 一応、マタイのパン種...