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8月, 2016の投稿を表示しています

二羽の雀

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 マタイによる福音書10章29節 今日、祈っているとき、マタイ10:29のみことばがふと心に浮かびました。 私たちの天の父は小さな小さなすずめたちのいのちもこころにかけていてくださるお方なのだなあと思いました。   アダムによって罪が入って以来、 人はお母さんのお腹の中で存在し始めた瞬間から身体にも心にも弱さを抱えるようになりました。 それで、身体も、心も、病み、苦しまなければならなくなりました。 しかし、それは神さまがうっかり目を離したり私たちのことを忘れてしまわれたからではないのだ、ということを マタイ10章のみことばは語ります。 あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 このみことばを読みながら同時にヨブ記の2章にある神さまとサタンのやりとりを思い出すと「なぜ」と問いたくなることもありますが、 しかし、全地全能のお方に自分のような小さな者がたずね、なにがしの回答を得たところで、レベルが違いすぎてきっと理解できないのです。   ただ、覚えておかなければならない忘れてはいけない間違いのない確かなことが一つ。 ヨブの件についてもそして私たちの苦しみに関することについても神さまは「許可」を出されているのだ、ということ。   身体を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、 心を病み、その結果として万一主のみもとに召されることになったとしても、   それは、神さまが決して無関心であったわけでも、 うっかりしていたわけでも、 失敗したわけでもない。    許可を出されたから。   愛する者を苦しめるほどの意味と価値がそこに在ったから。     二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。 マタイによる福音書10章29節  

新しいのか古いのか

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。 また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」 ルカによる福音書5章36~39節 3日間、ルカによる福音書5章の後半部分で足踏みをしていました。 昔、「新しい服の布」「新しいぶどう酒」と言われているのは「イエスさまの教え」のことで、イエスさまの教えは力強く発酵する新しいぶどう酒のような力に満ちた教えであるから、既存の律法主義的なユダヤ教=古い革袋 の中には収められない?のだ、と教わったなあ…と思い、そうそう、そういう話だった、ということで読み終えようと思ったのですが、ふと見たら「もう一節」ありまして   また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」 ルカによる福音書5章39節 ずっと前からこの節もあったはずなのですが(そりゃ当然) しかし、マタイによる福音書9章やマルコによる福音書2章には無いのと、 5章38節までのところについて昔習った「解説の印象」がとても強かったので「分かったつもりになっていて」飛ばして読んでいたような気がしてきました。 いや、読んではいたのだけれどもなんの違和感を感じなかったのだと思います。 が、今回はどうしたことかとても違和感を感じたのです。   で、一日中39節のことを考えていたのですが、分からないスパイラルに陥ってしまったので、ちょうど休日だった夫に久しぶりに聖書の質問をぶつけてみました。   すると彼は聖書を開くこともなく 「古いぶどう酒=ユダヤ教 ということで、当時のユダヤ教指導者たちが 新しいもの=イエスさまの教え を欲しがらないという意味だよ」と即答。 あまりにもあっさりと「当然」という顔で言われたのには驚きましたが、 「…たしかにそう教わったんだ」と思い、夫の言葉にとりあえず肯いたのではあります。 ...

エレミヤ書、いちじく、ザアカイさん

今日はエレミヤ書の7章8章が通読箇所でした。 エレミヤ8:13 「私は彼らを、刈り入れたい。 ―主のみ告げ― しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、 いちじくの木には、いちじくがなく、 葉はしおれている。 わたしはそれをなるがままにする。」 少し前からいちじくが気になり、 新約聖書マタイの福音書21章に出てくる葉ばかりが茂っている「いちじく」をイエスさまが枯らしてしまわれたところと、創世記3章に出てくるアダムとエバが自分たちが裸であると知ったときにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいをつくった、というあたりが気になって仕方がないというのが気になりだしたきっかけだったのですが 今日の、「私は彼らを、刈り入れたい。」という神さまの言葉にマタイ21章で空腹を覚えられたというイエスさまを見た気がしたのです。 イエスさまが空腹を覚えたとマタイ21章のストーリーは イエスさまのふるまいを見て「あまりにも身勝手」だと感じる人が信者にもいないわけではなく、信者ではない人に至っては「人間だもの」と嘲笑。 しかし、そんなふうに言われてしまうイエスさまが異様に思えて…絶対何か深い意味が、見落としていることがあるに違いないと長い間思っておりまして・・・そういう気持ちを持ちつつ本日に至っております。 今日エレミヤ書で8章13節のみ言葉を読んだとき、ここに至るストーリーから考えると、本当に、本当に神さまのイスラエルに対する思い、悲しみが伝わってきて、そうしたなかで「私は彼らを、刈り入れたい。」ということばにつながっていくということを感じるわけなんですが、イエスさまの空腹という話ももしかしたらここにつながってくるのではないだろうかと。 ただ、エレミヤ書のこのみ言葉では、「いちじくの木には、いちじくがなく、 葉はしおれている。」ということで、マタイ21章とは異なり、葉がしおれているのです。マタイ21章ののいちじくは葉が茂っていますのでちょっと違います。 そうするとまた思い出すのが創世記のいちじくの葉。 創世記では、あのあと、神さまが皮の衣をアダムとエバのために作ってくださって着せてくださったんですね。 この件について、善良なキリスト教徒であったときに繰り返し何度も教えられたことは、「皮の衣を作るためには動物の犠牲が必要だった」ということです。 裸であると知ったのは彼らが神さまの言葉に従わなかった...

イエスさまの孤独

今日の聖書通読はマルコによる福音書14章でした。     再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。 マルコによる福音書14章41、42節   イエスさまが捕らえられる直前の様子をマルコは描きます。   「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。」 私はこの言葉を読むたびにイエスさまの深い孤独を感じます。   親しい仲間たち=弟子たち は眠っている。 しかも、自分を裏切って敵の手に渡すのは弟子であるユダです。 十字架は「人」の罪の身代わりです。「さばき」です。 父なる神さまとの断絶です。   …主は、人間となられた主イエスは、完全な孤独です。   しかし、   本当は、人間とは孤独なものです。 孤独以外のなにものでもない。 「本当は」と書いたのは、 通常は「孤独」なんて感じないことが多いからです。 でも、何かあった場合、 私のような落ちこぼれ孤羊は痛いほど感じます。 ああ、孤独だ・・・と。 もっとも、囲いの中にいても同じだったのです。 だからこそ外に出てしまったような気もします。 喜びであれ、ましてや苦しみを 真の意味で人と分かち合うことなど 出来るものではなかったのだという絶望、孤独。     東日本大震災のあと、「絆(きずな)」という言葉がもてはやされ、SNSでつながることが流行しましたが、 悟った者のように語らせてもらえば、 どんなにたくさんの人とつながろうと、むしろ、つながればつながるほど孤独を感じるものです。  なにかイレギュラーなことが起こればなおのこと ひとりぼっちであるという事実と感覚は増幅して襲い掛かってきます。 親がいてきょうだいがいて親族がいたとしても同じ。 SNSより少し上質な「つながり」は 上質であると思えば余計に失望させられる。     人に期待し、人を頼っても、 結局人は何もしてくれないし、 逆に自分だって 精一杯行ったつもりでも 誰...

【調べ学習】いちじくについて

「いちじく」について調べ学習をしました。   イエスさまが「いちじくの木を呪って枯らしてしまう話」というのが、今通読しているマルコの福音書をはじめ他の福音書にもあるわけですが、 何度読んでも変な話だとしか思えないのですよ。だってね、イエスさまはまず空腹を覚えられ→いちじくの木のところに行って実がないと知り→呪っていちじくの木を枯らす ってね、簡単にストーリーは展開していくわけですが、でもイエスさまが荒野の試みで空腹だったときどうであったか、5000人給食のあたりの話とのからみではどう考えればいいのか、とか考えると、腹が減って食えなかったから枯らしちゃったというそんな簡単な話であるはずがない。 で、教会や集会でもこれはね、と「解釈」を習ったことはあるのですが、「解釈」ではなく、また、辞書的なものでなく、聖書のみことばをひたすら読んで読み取ったらどう読めるのか大変に興味があったのです。     今回の調べ学習の手順は、 エレミヤ書8章13節に出て来る「いちじく」という語を手がかりにおなじみBible Hubでまず原語(ヘブライ語)を検索。 http://biblehub.com/jeremiah/8-13.htm つぎに、その言葉が聖書(旧約)のどこに使われているかを調べ、 http://biblehub.com/hebrew/8384.htm その全ての箇所を読むことでどういう印象を持つことになるのか、やってみました。   原語は תְּאֵנִים  Transliteration(音訳)すると 「teenah」だそうです。 で、この語は聖書の中に39回登場。 以下聖書の箇所と括弧内はその箇所のざっくりした内容です。 括弧内にA、Bと書いてあるものは、聖書を読んでいて気になった箇所で、この下にAグループBグループ二つのグループに分類して、日本語聖書を引用しています。   創世記3:7(葉) 民数記13:23(エシュコルの谷) 民数記20:5(A) 申命記8:8(B) 士師記9:10(たとえ話) 士師記9:11(たとえ話) 列王記上5:5、新改訳聖書ではⅠ列王記4:25(B) 列王記下18:31(B) 列王記下20:7(B) ネヘミヤ記13:15(安息日を汚す) 詩編105:33(A) 箴言27:18(いちじく...

【調べ学習】塩について

マルコ9章49節「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」の「塩」という言葉についてギリシャ語を調べました。 いつものように http://biblehub.com/ です。 はじめに Berean Study Bible の英語の訳。 For everyone will be salted with fire.   will be saltedに該当するギリシャ語は ἁλισθήσεται. で、聖書には3回登場するそうです。 マタイ5章13節「何によって塩けをつけるのでしょう」 マルコ9章49節「塩けをつけられる」 もう一箇所も、 マルコ9章49節…ん???   ここで、さっそく「知らなかったこと」の発見。  マルコの9章49節は 新改訳では 「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」 と書いてあり、 また多くの英語の聖書も will be salted ἁλισθήσεται. という言葉は1回だけ使われているのですが、 以下1回登場する聖書の聖句 New International Version Everyone will be salted with fire. English Standard Version For everyone will be salted with fire. Berean Study Bible For everyone will be salted with fire. New American Standard Bible  "For everyone will be salted with fire. 以上。   ところが新改訳聖書や上に引用した聖書とは異なり ἁλισθήσεται. という言葉が2回使われているものがあるのです。 King James Bible For every one shall be salted with fire, and every sacrifice shall be salted with salt. International Standard Version Because everyone will be salted with fire, and every sacrifice wil...

神がともにいてくださるということ

新共同訳をメインの聖書として読むことにしました。 で、 今日はマルコによる福音書の11章1~7節を読みました。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 マルコによる福音書11章3~6節(新共同訳)   聖書を読み慣れている人にとって、そして聖書の神さまを既に信じている人にとってこの箇所は、取り立てて違和感を覚える場所ではないかもしれません。 しかし、初めて聖書を読む人にとっては、とても不思議な感覚を覚える箇所なのではないか、と思うのです。   イエスさまが二人の弟子をいま使いに出そうとしておられます。 イエスさまは弟子にまだだれも乗ったことのない子ろばを連れてきてほしいのです。 で、イエスさまは言うのです。「向こうの村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが見つかるから、それをほどいて持ってきてね」と。 ほどいて持ってきてね??勝手にほどいて持ってきたら泥棒じゃん、と思うわけですが、そういう読者や、おつかいに行く弟子たちのために、イエスさまは持ってきちゃうにあたっての注意点をあらかじめ伝えて下さるわけです。   もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(3節)   この箇所を読むといつも同時に思い出す箇所があります。 イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 マルコによる福音書14章13~16節 ...

偶像(1)

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今朝は通読箇所の他に黙示録の七つの教会のところを読みました。 で、ちょっと気になった「ニコライ派」という言葉。どんな教えのことなのかと検索してみましたら、中学生の頃ほぼ毎日聴いていたラジオ番組のサイトにとてもわかりやすい説明があり感謝でした。 http://www.jesus-web.org/radioprg09/prg_box190_20090325.htm …偶像。 一瞬、「偶像かあ。じゃあ私には関係ないこと」という思いになりました。 しかし次の瞬間、いや、待てよ、偶像って… クリスチャンは、おそらく偶像なんて拝まないでしょう。金メッキされた像とか、石を削った物とかその手の物など聖書の言葉を知っているクリスチャンが「通常は」そんな物を拝むはずなんて無いと思います。 しかし、 「偶像」が文字通りの「像」でなかったならば、偶像を避けることは難しいかもしれません。 先日、私は一本の動画を見ました。それは以前所属していた集会で人気のあった伝道者の方の動画でありました。 しかし、視聴し始めてそれほど経たないうちに、私はその動画を見なければよかったと後悔しました。 https://youtu.be/FBtiC7m4GS4?t=11m56s 実はそのメッセージには、原発に関連した内容が含まれていました。 伝道者の彼は軽い調子で「福島でがんは増えていない」と語りました。 医師でも研究者でもない、ご自分で調査をしたわけでもないはずの彼がなぜそんなことを断言できるのか知りませんが、彼は「福音」を語るために上がった壇の上からそう聴衆に語りました。 しかし私は、岡山大学の津田敏秀教授の論文により福島では少なくとも甲状腺がんは増加していると認識しています。 もっと言うとそれは福島だけの問題ではなく、群馬県内に住む私の親族でも成人の一人が膀胱がん、別の一人が心疾患、別の三人に謎の大きな腫瘤(ピンポン玉大)がそれぞれ身体の数か所にでき、そしてさらに別の二人の「男性」は甲状腺の疾患を発症しました。 申し添えるなら、がんについては家系的にそういう疾患が多いわけではなく、腫瘤についても甲状腺疾患についても初めてそういう病名を親族から聴いたので驚いているのと、彼らに共通する考え方や生活習慣がこういう文章を書いている私自身とは真逆・・・というかそれ以上の積極性を感ずるものであったので、悲しみと恐怖を覚...