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律法が終わっていないからこそメシアが必要

昨日は申命記の23章を読みました。どんな箇所を読んだのか「 日本語の聖書 」サイト様より口語訳聖書で引用してみたいと思います。 23:1すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。 23:2私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。 23:3アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。 23:4これはあなたがたがエジプトから出てきた時に、彼らがパンと水を携えてあなたがたを道に迎えず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたをのろわせようとしたからである。 23:5しかし、あなたの神、主はバラムの言うことを聞こうともせず、あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである。 23:6あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。 今ここには口語訳聖書で引用しましたが、私は新共同訳聖書で読んでいますので、1節の「去勢」ということばや2節の「私生児」ということばは別の表現となっており、なんだかとても不快な気分になりました。 しかし、神さまがそうおっしゃるわけですからそれには意味があるわけで、考えなければいけないな、と思いたちどまったわけです。 おそらく、以前ならば、「だからこそ律法は終わったわけよ」と自分に言い聞かせて通り過ぎて行ったと思うわけですが、律法は終わったわけではないと思うようになったからには通り過ぎて知らん顔をしているわけにはいかないのです。 では1節のところから順にみていきたいと思います。 なぜ去勢した男子は主の会衆に加わってはならないのでしょうか。 新共同訳で読んでいると、ここは「去勢」とは書いておらず「睾丸のつぶれた者」「陰茎を切断されている者」と書かれているので、私は最初それが「去勢」であるとは読み取れず、「病気や事故によるハンディキャップ?」と思ってしまったわけですが、口語訳聖書を読むと「去勢」とありますので、これはやむを得ない事情ではなく何らかの意志をもって行った行為であるということになります。 ウィキペディアに「性器切断」という項目があったので読んでみました。 https://ja.wikipedia.org/wi...

【調べ学習】新共同訳の詩編119編に律法という言葉は何回あるか

新共同訳の詩編119編に律法という言葉は何回あるか調べてみました。 アレフ 1回 いかに幸いなことでしょう まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。 ベト 0回 ギメル 1回 わたしの目の覆いを払ってください あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎます。 ダレト 1回 偽りの道をわたしから遠ざけ 憐れんで、あなたの律法をお与えください。 ヘー 1回 あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。 ワウ 1回 わたしがあなたの律法を守る者でありますように 常に、そしてとこしえに。 ザイン 3回 傲慢な者はわたしを甚だしく見下しますが わたしはあなたの律法から離れません。 神に逆らう者に対する燃える怒りが わたしを捕えています。彼らはあなたの律法を捨て去る者です。 主よ、夜ともなれば御名を唱え あなたの律法を守ります。 ヘト 1回 神に逆らう者の縄が わたしをからめとろうとしますが わたしはあなたの律法を決して忘れません。 テト 2回 彼らの心は脂肪に閉ざされています。わたしはあなたの律法を楽しみとします。 あなたの口から出る律法はわたしにとって 幾千の金銀にまさる恵みです。 ヨド 1回 御憐れみがわたしに届き 命を得させてくださいますように。あなたの律法はわたしの楽しみです。 カフ 1回 傲慢な者はわたしに対して落とし穴を掘りました。彼らはあなたの律法に従わない者です。 ラメド 1回 あなたの律法を楽しみとしていなければ/この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。 メム 1回 わたしはあなたの律法を どれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。 ヌン 1回 わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。 サメク 1回 心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。 アイン 1回 主の働かれるときです。人々はあなたの律法を破棄しています。 ペー 1回 わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。 ツァデ 1回 恵みの御業はとこしえに正しく あなたの律法はまことです。 コフ 1回 悪だくみをもって迫害する者が近づきます。彼らはあなたの律法に遠いのです。 レシュ 1回 わたしの苦しみを顧みて助け出してください。わたしは...

中身は何も変わらない、着ているだけ

今朝デボーションをしながらふと思いました。 黙示録3章にあるサルディス教会のところに(新共同訳聖書を読んでいます) 「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」 と書いてあるわけですが 白い衣を着せられているこの人自身は何も変わっていないんだなあ、と。 マタイ22章の婚宴のたとえにおいても、 その人自体が善であるか悪であるかということではなく 問われているのは「婚礼の礼服」を着ているか着ていないのかということ。 創世記3章にさかのぼると 罪を犯したアダムと女(エバ)に 「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」とあり 神さまは彼ら自身の状態はそのままに 動物に血を流させて皮を取り衣をつくって着せてくださったわけです。 つまり、人は衣を着せられるだけであって本質的には何も変わっているわけではない。 ルカ15章の放蕩息子のたとえにおいて、父親は、放蕩の限りを尽くした息子が、 しかし、どん底まで落ちた後に悔いて父親のもとに帰ってきた時、 「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、…」と語るわけですが、 神さまはまず良い服を着せてくださるわけです。 放蕩息子に着せられる「良い服」を「拡張自我」というような解釈をすれば、そういう方法での癒しがある可能性ということを考えたりしなくはないのですが、 信仰を持ったからといって本質が変わることはないのだ、と改めて思いました。 まずはボロボロの状態で神さま所に行って、すると、神さまは私たちを愛してくださったゆえの良い服を着せてくださるので、着せていただいた後は着せていただいたものをしっかりと身にまとい続けている これが信仰生活なのですね。 「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」ヨハネの黙示録16章15節 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。 あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。 肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。 ローマ人への手紙13章12~14節