さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)
前回חמハム(חם)という言葉がハマスという言葉に含まれているという話を書きましたが
そういう視点を持つとき、イザヤ書30章26節の「日(もしくは太陽)」という言葉にもחמハム(חם)という言葉が含まれている、ということになります。
「日(もしくは太陽)」と訳されているヘブライ語は多くの場合、絵文字のような象形文字のようなキラキラしたイメージを感ずることのできるこちらの単語
Strong's Hebrew 8121 שׁמשׁが使われています。
שׁמשׁという語はEnglishman's Concordanceによれば聖書中に134回登場しているようです。
しかし、イザヤ書30章26節で「日」と訳されている言葉は聖書中に6回しか登場していないレアな単語です。
イザヤ書30章26節の「日」はStrong's Hebrew 2535です
Strong's Hebrew 2535 חמה
Englishman's Concordanceを見ると、この単語が登場する6回のうち3回はイザヤ書に現れているということがわかります。
Strong's Hebrew: 2535. חַמָּה (chammah) -- heat, sun
口語訳聖書から2535番が登場する箇所を引用します。
太字にしたところが2535番を訳したと考えられるところです。
ヨブ記30:28
わたしは日の光によらずに黒くなって歩き、
公会の中に立って助けを呼び求める。
詩篇19:6
それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。
雅歌6:10
「このしののめのように見え、
月のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。
イザヤ書24:23
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
月はあわて、日は恥じる。イザヤ書30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。(七つの「日」とは太陽のことではなく日数)
聖書は古い書物であり、長い長い時間をかけて66巻がそろったわけですので、そういう書物にありがちなこととして、時代による言葉の変化というものがあります。
また、レアな単語である2535番がトーラーに現れていないということを考え合わせると、それほど一般的な言葉ではなかったのかもしれないとも思えます。
ただ、間違いなく言えることは
詩篇19篇を見ると、その一つの詩の中に両方の単語が登場しているので、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた。詩篇19:4(口語訳)
それは天のはてからのぼって、
天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。詩篇19:6(口語訳)
4節に登場する「日」という言葉はשׁמשׁで6節の方にあるのはחמה です。
詩篇19篇が書かれた瞬間には二つの言葉は共存していたと考えられます。
「日(もしくは太陽)」と訳されている二つの単語はどちらかからどちらかの語に移行していったという性質のものではなく、
どこかの瞬間に二つの言葉となり、
それら二つには古代ヘブライ語を使う人々にとってはきちんと認識できる何らかの「違い」があり、使い分けていたと考えられるような気がします。
口語訳聖書においても詩篇19篇だけは
あまりに近い場所にふたつの「日(もしくは太陽)」と訳される単語があったからでしょうか4節のשׁמשׁは「日」と訳し、6節のחמהは「暖まり」と訳し分けられています。
イザヤ書でも13:10、38:8、41:25、45:6、49:10、54:12、59:19、60:19、60:20に登場する太陽にはשׁמשׁが使われており、複数イザヤ説を考慮するとしても、前半部分においてשׁמשׁとחמהという二つの言葉は共存していたことになります。というか、こういうことを考慮するからこそイザヤは複数存在すると言われるのだ、と納得し、また少し昔の自分の信仰から遠ざかったような気がしました。
さて、ここまでは太陽の事ばかり書いてきましたが、実は「月」=moonについても、イザヤ書30章26節にはメジャーではないこんな単語が使われています。
Strong's Hebrew 3842 לבנה
日本語聖書の中で「月」と訳されているところには、実はこの3842番ではない単語
Strong's Hebrew 3394ירחが多く使われています。
例えば創世記37章9節にこんな箇所がありますが
ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」。
「日と月と」と訳されている箇所にはこう書いてあって
השמש והירח
日のところにはשמשとあり、月というところはירחとあります。
ירחはשמשのように絵文字のような単語で、文字を右から眺めると、新月から満月になっていくように・・・私には見えます。
この3394番は聖書中に26回登場します。
一方イザヤ書30章26節にある月という言葉
Strong's Hebrew 3842 לבנה は
聖書中にわずか3回しか登場しません。
לבנה が使われているのは以下の箇所です。
雅歌6:10
6:10「このしののめのように見え、
月のように美しく、太陽のように輝き、
恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。
イザヤ書24:23
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
月はあわて、日は恥じる。イザヤ書30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
そして、この3箇所はすべて上に書いたレアな単語חמハム(חם)の
入った太陽חמה とセットで登場しています。
もっとも、レア単語でない絵文字のような太陽と月もセットで登場することが多いような気がします。
例えば詩篇にはこのような箇所があります。
彼は日と月とのあらんかぎり、
世々生きながらえるように。
彼は刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、
地を潤す夕立ちのごとく臨むように。
彼の世に義は栄え、
平和は月のなくなるまで豊かであるように。
詩篇72篇5~7節(口語訳)
わたしはわが契約を破ることなく、
わがくちびるから出た言葉を変えることはない。
わたしはひとたびわが聖によって誓った。
わたしはダビデに偽りを言わない。
彼の家系はとこしえに続き、
彼の位は太陽のように常にわたしの前にある。
また月のようにとこしえに堅く定められ、
大空の続くかぎり堅く立つ」。〔セラ
詩篇89篇34~37節(口語訳)
この二つの箇所は両方ともレアではない象形文字のような絵文字のような
שמש太陽ירח月
という単語が使われています。
この詩篇における太陽と月は
神さまの被造物であるけれども私たち人間のような短い命ではないものとしてのたとえというか「永遠」というニュアンスをもたせてセットで登場しているわけですよね?
ただ、いつでもそういう良い感じの意味でשמש太陽とירח月が登場しているわけではなく
ヨブ記にはこんな箇所があって
わたしがもし日の輝くのを見、
または月の照りわたって動くのを見た時、
心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、
ヨブ記31章26,27節(口語訳)
これは実は「日」と訳されているのはここまで書いてきた「日(太陽)」ではなく「光」という単語が使われているのですが「月」はでレアではない方のירח月という単語で、
いずれにしてもこの箇所では被造物である日と月を拝む行為=偶像礼拝 についての描写であるわけです。
聖書に登場する「太陽と月」という単語にはそういう場合もあります。
そんなことも踏まえながらイザヤ書30章26節の話に戻りますが
イザヤ書30章26節に登場する「月」と訳されているレアな単語
Strong's Hebrew 3842 לבנה
実は、発音(母音)こそ違うものの、
3842番と完全に同じ文字列を持つ3843番という単語があるのです。
Strong's Hebrew 3843 לבנה
3843番、これは、何を隠そう創世記11章3節、
バベルの塔の話に登場する「れんが」です
彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
バベルの塔を造る場面における「れんが」という言葉と
イザヤ書30章26節に登場する「月」という言葉は
同じ文字列を持つ単語なのです。
イザヤ書30章25節では「塔」に言及しているわけで、
「塔」の話の後に「れんが」と同じ文字列の「月」
とても気になります。
ちなみに
イザヤ書には3843番の「れんが」に該当する単語も2箇所つかわれていまして
1箇所目は9章10節の「かわら」というところ、これが3843番です。
すべてこの民、
エフライムとサマリヤに住む者とは知るであろう。
彼らは高ぶり、心おごって言う、
「かわらがくずれても、
われわれは切り石をもって建てよう。
くわの木が切り倒されても、
われわれは香柏をもってこれにかえよう」と。
イザヤ書9章9、10節(口語訳)
2箇所目は65章3節の「かわら」、これが3843番です。
わたしはわたしを求めなかった者に
問われることを喜び、
わたしを尋ねなかった者に
見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、
「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
よからぬ道に歩み、
自分の思いに従うそむける民に、
わたしはひねもす手を伸べて招いた。
この民はまのあたり常にわたしを怒らせ、
園の中で犠牲をささげ、
かわらの上で香をたき、
墓場にすわり、ひそかな所にやどり、
豚の肉を食らい、
憎むべき物の、あつものをその器に盛って、
イザヤ書65章1~4節(口語訳)
חמハム(חם)の入ったחמה太陽と
「れんが」לבנהと同じ文字列לבנהである月
イザヤ書30章26節の見え方が少し変わるような気がしませんか?
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書30章26節(口語訳)
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