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「神の栄光をあらわす」ということについて考えた

コリント人への第一の手紙にこんな箇所があります。 6章20節  あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。 10章31節  だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。 (それぞれ口語訳より引用) 先日朝、聖書を読んでいるときに、その箇所との関連は全くなかったのですが、突然これらのみことばが思い起こされました。 ・・・そういえば最近新約聖書を読んでないなあ、と思いながらこの箇所を開いてじーっと眺めたら何とも言えぬ「違和感」を感じ、 「神の栄光をあらわすだの神の栄光のためになにかをするとか、人間の分際でおこがましいんではないかい?」(;´Д`A ```とかつぶやいてしまいました。 おそらく、 ここのところ旧約ばかり読んでいたということが違和感を感じた原因だと思います。 なぜなら、旧約の中に表現されている「主の栄光」とは人間の意志とは全く関係ないものだからです。 旧約の中で「主の栄光」とは「現れる」ものであって「人があらわす」ものではないですから。 例えば 出エジプト記16:10 それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。 出エジプト記24:16 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、 レビ記9:5、6 彼らはモーセが命じたものを会見の幕屋の前に携えてきた。会衆がみな近づいて主の前に立ったので、モーセは言った、「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」。 民数記14:10 ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。 そのとき、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。 旧約聖書ばかり繰り返し読んでいると、「主の栄光」という表現を見たときに、主が太陽にまさる光を放ってご臨在されているさまが思い浮かぶのです。 ただ、詩編96編を読むとパウロの言わんとしていることが分からなくはない気がしてきます。 (以下引用は口語訳聖書詩篇96篇) 新しい歌を主にむかってうたえ。 全地よ、主にむかってうたえ。 主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。 日ごとにその救を宣べ伝えよ。 もろもろの国の中にその栄光をあらわ...

【調べ学習】杖について聖書辞典と本で調べてみた

今日も朝から杖について考えておりました。 で、そろそろ辞典を見てもいいかな、ということで いのちのことば社から1985年に発行された新聖書辞典で調べてみました。 辞典にはまず、杖には四つのヘブライ語(辞典本文ではヘブル語となっている)があると書いてあります。 マッケール、マッテ、ミシュエネス、シェーベトゥで4つともほぼ同じ意味だそうです。 ギリシャ語で杖はラブドスと言うのだそうです。 で、ちょっと驚いたのは、杖はときとして鞭と同義だと書いてあったこと。 でそれについては詩篇23:4が示されていました。 前回疑問だったレビ記の27章とエゼキエル書の20章のところの杖の下をくぐるとか杖の下を通らせるという表現についても辞典には言及があり、 羊の数を数えるということのようでした。そこから、神の選民を数えるときにも象徴的に使われ、 あとは、黙示録21章15,16節の、新改訳聖書では「さお」と訳され、新共同訳聖書では「ものさし」と訳されているものが元の言葉としては「杖」?? 辞典にそう書いてあったのでBIBLE HUBでギリシャ語を検索したのですが… 黙示録21章15,16節のところ「さお」「ものさし」はκάλαμον、καλάμῳと書いてあり、 https://biblehub.com/greek/2563.htm 見渡しても杖という意味のῥάβδος rhabdos(ラブドス)がない。 Revelation 21:15 https://biblehub.com/texts/revelation/21-15.htm Καὶ ὁ λαλῶν μετ’ ἐμοῦ εἶχεν μέτρον κάλαμον χρυσοῦν, ἵνα μετρήσῃ τὴν πόλιν καὶ τοὺς πυλῶνας αὐτῆς καὶ τὸ τεῖχος αὐτῆς. Revelation 21:16 https://biblehub.com/texts/revelation/21-16.htm καὶ ἡ πόλις τετράγωνος κεῖται, καὶ τὸ μῆκος αὐτῆς ὅσον τὸ πλάτος. καὶ ἐμέτρησεν τὴν πόλιν τῷ καλάμῳ ἐπὶ σταδίους δώδεκα χιλιάδων· τὸ μῆκος καὶ τὸ πλάτος...

【調べ学習】詩編2編の鉄の杖

詩編2編9節 お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」 詩編2編9節鉄の杖の「杖」という語はבְּשֵׁ֣בֶטでbə·šê·ḇeṭ https://biblehub.com/hebrew/beshevet_7626.htm 詩編2編9節のほか Judges 5:14 2 Samuel 7:14 Isaiah 11:4 Lamentations 3:1 で使われています。 そのほかの「杖」という単語でBIBLE HUBを見ていて気になったものをピックアップします。日本語の聖書は口語訳です。 Psalm 110:2 maṭ·ṭeh https://biblehub.com/hebrew/matteh_4294.htm HEB: מַטֵּֽה־ עֻזְּךָ֗ יִשְׁלַ֣ח 主はあなたの力あるつえをシオンから出される。 あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。 Psalm 23:4 šiḇ·ṭə·ḵā https://biblehub.com/hebrew/shivtecha_7626.htm HEB: אַתָּ֥ה עִמָּדִ֑י שִׁבְטְךָ֥ וּ֝מִשְׁעַנְתֶּ֗ךָ הֵ֣מָּה たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 Psalm 89:32 ḇə·šê·ḇeṭ https://biblehub.com/hebrew/veshevet_7626.htm HEB: וּפָקַדְתִּ֣י בְשֵׁ֣בֶט פִּשְׁעָ֑ם וּבִנְגָעִ֥ים わたしはつえをもって彼らのとがを罰し、 むちをもって彼らの不義を罰する。 Micah 5:1 baš·šê·ḇeṭ https://biblehub.com/hebrew/bashshevet_7626.htm HEB: שָׂ֣ם עָלֵ֑ינוּ בַּשֵּׁ֙בֶט֙ יַכּ֣וּ עַֽל־ 今あなたは壁でとりまかれている。 敵はわれわれを攻め囲み、 つえをもって イスラエル のつかさのほおを撃つ。 Micah 7:14 ḇə·šiḇ·ṭe·ḵā https://biblehub.com/...

【調べ学習】白い馬に乗っている者の冠(黙示録6章と黙示録19章)

小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた。 ヨハネの黙示録6章1~2節(口語訳) 日本の個人や教会のいろいろなサイトを見ていたら黙示録6章に出て来る白い馬に乗っている者について、本物のキリストだと言っている方と偽キリストだと言っている方がおられ、 特に何も考えることもなく読み過ごしていた「教会にも行かず年数だけ長い信者」の私は驚いてしまいました。 で、ヨハネの黙示録の19章に登場する白い馬に乗っている者が本物のキリストである、という点では共通していて、 論点は騎手の「冠」という言葉のギリシャ語と あとは持ち物。 6章の人は鉄の杖ではなく弓を持っているのでニセモノだという話と、 あと真偽はともかく弓はあるのに矢はどこだ?と言っている方がいらっしゃったので なんだかとても興味をひかれました。 なので、6章と19章の冠と6章の弓、または矢、鉄の杖について 自分でも調べてみることにしました。 まずはBIBLE HUBで調べてみました。 黙示録6章2節の冠についてはギリシャ語でστέφανος https://biblehub.com/greek/4735.htm stephanosというらしいのですが (ステパノさんの名前に似てる) BIBLE HUBで見られるEnglishman's Concordanceによれば この言葉と派生語は 箇所と回数について引用させていただきますとこのように書かれていました。 *この項の口語訳聖書は http://bible.salterrae.net/  さまからコピペさせていただきました。 Matthew 27:29 27:29また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。 Mark 15:17 15:17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 John 19:2 19:2兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、 John 19:5 19:5イエスはいばら...

【調べ学習】新約に引用されている旧約聖書

私が読んでいる新共同訳聖書には聖書を読むのに便利な付録がいろいろついているのですが、中でもこれは大変便利!と思ったのは 「新約聖書における旧約聖書からの引用箇所一覧表」というものです。 各書でどこが引用されているのかが一目でわかるのです。 新改訳を使っていた時にも引照付きの聖書を使っていたので、どこが引用されているとかどこと比較して読むと良いとかいうことが読んでいる最中にわかってとても便利でしたが、一覧表になっていると、傾向みたいなものが見てとれますよね。 で、それぞれの書でどこが何回引用されたのか、ということを数えてみました。 各書に登場するのが早かった順に書物名を拾い、その書の中での登場回数を数えました。 つまり、例えばマタイによる福音書では、一番最初1章23節ににイザヤ書の引用が見られたので、まずはイザヤ書という名を書き、マタイによる福音書の中で、イザヤ書からの引用が何回であるか数えたら、11回だったので、「イザヤ書11回」と書きました。そして、2章6節にミカ書から引用されていたので、イザヤ書の下にミカ書と書き、マタイによる福音書の中でミカ書は全体として何回引用されているのか数えたら2回だったので「ミカ書2回」と書きました。 また、参考までにモーセ5書を 太字でアンダーライン 、各書で最も引用回数の多い書の背景色を 黄色で塗りました 。 マタイによる福音書 イザヤ書11回 ミカ書2回 ホセア書3回 エレミヤ書1回 申命記13回 詩編9回 出エジプト記7回 レビ記5回 民数記1回 マラキ書1回 ヨナ書1回 創世記2回 ゼカリヤ書3回 ダニエル書2回 マルコによる福音書 マラキ書1回 イザヤ書5回 出エジプト記4回 申命記8回 創世記2回 詩編5回 レビ記2回 ダニエル書2回 ゼカリヤ書1回 ルカによる福音書 出エジプト記3回 レビ記2回 イザヤ書5回 申命記6回 詩編7回 マラキ書1回 ダニエル書1回 ホセア書1回 ヨハネによる福音書 イザヤ書4回 詩編7回 ゼカリヤ書2回 出エジプト記1回 民数記1回 使徒言行録 詩編11回 ヨエル書1回 出エジプト記11回 申命記3回 レビ記1回 創世記4回 アモス書2回 イザヤ書5回 サムエル記上1回 ハバクク書1回 ローマの信徒への手紙 ハバクク書1回 イザヤ書18回 詩編13回 創世記9回 出エ...

本物か偽物か

ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。                   申命記18章20~22節(口語訳) スーパーに行くと、商品を手に取り、裏側の表示を見る習慣が私にはあります。 そして、表示を見ながらいつも心の中でつぶやくのです、 (これってほんとに書かれている通りなんだろうか・・・。) 子どもが小さかったころ、当時私はとある生協を通して「無薬鶏」という名前のつけられていた特別な飼育方法で育てられたとされる鶏肉を買っていました。娘がデリケートな体質であったため、食べ物にはかなり神経を使っていたからです。 ところで、「無薬鶏を買っていた」と書かなかったのには理由があって、実は、その無薬鶏という名前を付けられていた鶏肉は実際には無薬鶏ではなかったのですね。いわゆる、「偽装」でした。 当時この件についてマスコミで取り上げられた時、まさか自分が該当するとは思っておりませんでしたが、ある日生協から連絡があり、購入代金が一括返金され大変驚いたことを覚えています。 かなりの長期間、トータルではかなりの量をいただいておりましたが、娘の身体に異常が生じるようなことはなかったので感謝でした。もっと言うと、「無薬鶏でなくても大丈夫なんだ、食べられるんだ」という知見を与えられた!?ということとなりそのことのゆえに主に感謝いたしました。また、何かあった場合にその生協の対応は大変早い、ということも分かり、そちらに対する信頼も改めて確認することができたのでした。 さて、そんな経験もあるため、スーパーの食品を手に取ったとき、表示を見ながら (これってほんとに書かれている通りなんだろうか・・・。) とつぶやくと同時にもう一言、 (もしもウソだったら、しかも何か被害があったら、神さまは絶対におゆるしにならないからね!)と考えるようにもなってしまいました。 なぜなら食べ物という直...

言(ことば)は神であった、ので (2)

あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 ヨブ記41章2節(新共同訳) これ以上ない苦しみの中で 神さまのみ言葉を耳にしたヨブ。 そしてヨブは、神さまにはすべてがおできになり、どんな計画も成し遂げることが出来るということ、「御旨の成就を妨げることはできない」と悟った、と告白します。 ヨブの言葉を聞いて、おそらくは全てのクリスチャンがアーメンと言うに違いありません。 しかし、私たちは忘れるのです。「アーメン」と思っても忘れてしまう。 目に見えること、日々のことに追われ、 昨日のつぎの今日であり、今日のつぎの明日であり、 1年後、5年後、10年後 今と同じ暮らしがそこにあり続けるのだと 本当は神さまのご計画など成就しないと思っているわけです。 しかし、やはりそうではない。 …あり得るとは予想で来ていても、わが身に起こるとはまったく想定していなかったあらゆることが起こっているのです。 そして私たちは何度も何度も「神さま、なぜ?どうして?」と問いかける。 しかし、私たちがどう思おうと、私たちがヨブのように主張しようとも その全てはみこころのままであります。 みこころは成し遂げられ、 そして何事もなかったようにひろがる青空。 あまりにも爽やかなその青さに、 不信をもたらすむなしさと、そして怒りにも似た感情が クリスチャンであったとしても心の中に拡がっていくのを感じてしまう。 けれども、そんなときに「こそ」私たちは「あえて強く」心の中に思い出せなければいけません。神さまは天の「父」であるのだということを。神さまの私たちへの愛は変わらないということを。 そしてたとえあの瞬間が、私たちから何もかもを奪い去り、生きていく自信や気力をすべて失わせたとしても、 それは、間違いなく神のみわざが私たちを通して現れるためである、ということを。 そして、もう一つ。 誰が何と言おうと 父なる神さまのご計画は必ず成し遂げられる マタイの福音書の25章にはともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のたとえがあります。 マタイの福音書が書かれてから今に至るまで、このたとえ話はたくさんの人々に読まれ続け、おそらくその読者のほとんどが単純な発想としてあのような愚かな5人の娘にはなるまじと思うわけであります。それで、「油をあらかじめ準備しておく」というのは聖霊の満たしであるから、聖書...