2019年6月30日日曜日

「神の栄光をあらわす」ということについて考えた

コリント人への第一の手紙にこんな箇所があります。

6章20節
 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
10章31節
 だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。
(それぞれ口語訳より引用)

先日朝、聖書を読んでいるときに、その箇所との関連は全くなかったのですが、突然これらのみことばが思い起こされました。
・・・そういえば最近新約聖書を読んでないなあ、と思いながらこの箇所を開いてじーっと眺めたら何とも言えぬ「違和感」を感じ、
「神の栄光をあらわすだの神の栄光のためになにかをするとか、人間の分際でおこがましいんではないかい?」(;´Д`A ```とかつぶやいてしまいました。

おそらく、
ここのところ旧約ばかり読んでいたということが違和感を感じた原因だと思います。

なぜなら、旧約の中に表現されている「主の栄光」とは人間の意志とは全く関係ないものだからです。
旧約の中で「主の栄光」とは「現れる」ものであって「人があらわす」ものではないですから。

例えば
出エジプト記16:10
それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。

出エジプト記24:16
主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、

レビ記9:5、6
彼らはモーセが命じたものを会見の幕屋の前に携えてきた。会衆がみな近づいて主の前に立ったので、モーセは言った、「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」。

民数記14:10
ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。
そのとき、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。


旧約聖書ばかり繰り返し読んでいると、「主の栄光」という表現を見たときに、主が太陽にまさる光を放ってご臨在されているさまが思い浮かぶのです。

ただ、詩編96編を読むとパウロの言わんとしていることが分からなくはない気がしてきます。
(以下引用は口語訳聖書詩篇96篇)
新しい歌を主にむかってうたえ。
全地よ、主にむかってうたえ。
主にむかって歌い、そのみ名をほめよ。
日ごとにその救を宣べ伝えよ。
もろもろの国の中にその栄光をあらわし、
もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。
主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、
もろもろの神にまさって恐るべき者である。
もろもろの民のすべての神はむなしい。
しかし主はもろもろの天を造られた。
誉と、威厳とはそのみ前にあり、
力と、うるわしさとはその聖所にある。
もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、
栄光と力とを主に帰せよ。
そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。
供え物を携えてその大庭にきたれ。
聖なる装いをして主を拝め、
全地よ、そのみ前におののけ。
もろもろの国民の中に言え、
「主は王となられた。
世界は堅く立って、動かされることはない。
主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
天は喜び、地は楽しみ、
海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
そのとき、林のもろもろの木も
主のみ前に喜び歌うであろう。
主は来られる、地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
まことをもってもろもろの民をさばかれる。


さらに、コリント人への第一の手紙6章20節
 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

というみことばをじーっと眺めていたら、イザヤ書44章22~23節の言葉が思い出されました。

わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。
わたしに立ち返れ、
わたしはあなたをあがなったから。
天よ、歌え、主がこの事をなされたから。
地の深き所よ、呼ばわれ。
もろもろの山よ、林およびその中のもろもろの木よ、
声を放って歌え。
主はヤコブをあがない、
イスラエルのうちに栄光をあらわされたから。


そして、イザヤ書44章のみことばを読んでいたら、
新共同訳詩編102編19節のみことばが思い出されました。

後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された。」