ミカ書6章8節
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを
あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、
ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ書6章8節(口語訳)
あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、
ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ書6章8節(口語訳)
הגיד לך אדם מה טוב ומה יהוה דורש ממך כי אם עשות משפט ואהבת חסד והצנע לכת עם אלהיך׃
ミカ書のこの言葉を初めて聞いたのはおよそ40年前
クリスチャンホームの友人一家に誘われて、東京のとある「プリマス」ブレズレン系の集会に行ったときのことです。
神さまが人間に求めておられることはここに要約されていると教えられ、以降今に至るまでそういうものとして心の真ん中におさまっています。
神さまが人間に求めておられることはここに要約されていると教えられ、以降今に至るまでそういうものとして心の真ん中におさまっています。
ただ、正直に言うと、一番大切な部分に見える3行目の部分がよくわからないままです。
「公義」という言葉については、ミカ書が書かれた状況を考えればここに「公義」という日本語を置くことがふさわしいのだと理解できるのですが、「いつくしみを愛し」という表現の意味が分かりにくい。
「愛」を愛する?「いつくしむということを」愛する?好んでそうする?ということでしょうか。
というわけで
今日は「いつくしみを愛し」というミカ書6章8節の3行目のところを学ぼうと思います。
ואהבת חסד というところが「いつくしみを愛し」のヘブライ語です。
「そして愛する いつくしみ」というのが直訳です。
愛するという言葉は
Strong's Hebrew 160 אַהֲבָה アハバ
辞書によるとこの単語は、雅歌における「花嫁と花婿の間の愛」
神とイスラエルの関係の文脈では、神が選ばれた民に抱く契約上の愛
ギリシャ語で言うところのアガペーだと書いてありました。
辞書によるとこの単語は、雅歌における「花嫁と花婿の間の愛」
神とイスラエルの関係の文脈では、神が選ばれた民に抱く契約上の愛
ギリシャ語で言うところのアガペーだと書いてありました。
この言葉が聖書に最初に現れるのは申命記7章8節
ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。(口語訳)
そしてוְאַהֲבַ֤תという形で現れるのはこのミカ書6章8節のほかにはもう一箇所だけ
それはエレミヤ31章3節主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。(口語訳)
で、このエレミヤ書31章3節をヘブライ語で眺めたところ
ここにもליという謎ワードがあり
ここにもליという謎ワードがあり
…謎ワード(Strongの辞書には無い言葉)はホントいたるところに存在しています。が、
今はそういうことを書こうと思ったわけではなく
「限りなき愛をもってあなたを愛している」という
少々不自然な日本語がここにもあり・・・
少々不自然な日本語がここにもあり・・・
愛をもって愛するのは当然で、悪意を持って愛するはずはないのですが、
聖書の著者はここでもこういう表現をするわけです。
つまりどういうことかと言えば、
つまりどういうことかと言えば、
われわれ日本語を使う者は「愛」としか表現しようがないのだけれど、
聖書ヘブライ語を理解する人々にとってはきちんと区別できる別のものがここに表現されているということですね。
聖書ヘブライ語を理解する人々にとってはきちんと区別できる別のものがここに表現されているということですね。
で、この「限りなき愛をもって」の「愛」というところに
ミカ書6章8節と同じ160番のוְאַהֲבַ֤תがあり
「あなたを愛している」というところには
Strong's Hebrew157אָהַב アヘブ があるのです。
Strong's Hebrew157אָהַב アヘブ があるのです。
アハバとアヘブか、似てるじゃん?と思うかもしれませんが
そう、確かに似ているから「愛」なのだけれども
157番は単なる感情ではなく、忠誠心、献身、行動を伴う「愛する」だと辞書は言っています。
157番は単なる感情ではなく、忠誠心、献身、行動を伴う「愛する」だと辞書は言っています。
だから、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」という言葉のあとに「それゆえ」という言葉があるわけです。単なる感情ではなく、忠誠心、献身、行動を伴う「愛する」だからこそ何をするのか、
それが「真実をつくしてきた」というところにつながっていくわけです。
で、その「真実をつくしてきた」というところにある言葉はちょうど
ミカ書6章8節で「いつくしみ」と訳されていたחסד
つまり、ミカ書6章8節の「いつくしみ」とは、
エレミヤ書31章3節の「真実をつくしてきた」と同じ言葉!
חֵסֵדヘセド
Strong's Hebrew 2617
慈愛、慈悲、不動の愛、忠誠心、誠実さ、善良さ
ちなみに、
新約聖書にはחסדという単語の「音(おと)」が
ビミョ~ではありますが見える箇所があるのです。
ビミョ~ではありますが見える箇所があるのです。
それは「ベテスダの池」「ベトザタの池」
ベテスダ ベトザタは
בית חסד と書きます。(右側から読みます。)
בית חסד と書きます。(右側から読みます。)
ביתはベイト
ベツレヘムのベツとおなじ言葉で「家」という意味があります。
ベツレヘムのベツとおなじ言葉で「家」という意味があります。
そしてそのあとにחסדという言葉がくっついたのがベテスダまたはベトザタです。
せっかくなのでヨハネによる福音書5章1~8節を口語訳聖書から引用します。
こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
イエスさまはユダヤ人の祭のためにエルサレムに行かれました。
クリスチャンは祭りはしませんが
イエスさまは祭りを祝います。
クリスチャンは祭りはしませんが
イエスさまは祭りを祝います。
とヨハネはフツーに書いています。
パウロが祭りを祝うのは隠蔽したい人がいるようですが
イエスさまはOK?
で、エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があったんだそうです。
どういう池なのかと言うと
「時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされた」
ないね。(キッパリ)
それは聖書の教えではない。
偽物!偶像崇拝者、異教徒の教えだ。
エルサレムなのに、ヘブライ語なのに異教!ああ。
そんな異教の神殿の人工のプールに!
わざわざイエスさまは行ってくださった。
ああ、まさにחסד
受洗してから昨夏でちょうど38年経った私。
イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。
38年とは
女子高生がアラ還になってしまう
・・・こういう長さなのですね。(苦笑)
それだけの時間がたってしまったように見えるけれど
そんなにも長い時間無駄にしたように感じるけれども
しかしそうではない。
時が満ちたのだ。
永遠の中における38年という時
人間にとっては新卒で就職した人が定年退職するようなとてつもなく長い時間だったかもしれないけれど
その38年間の経験はすべて必要なことだったのだ。
その中で見たこと考えたこと、そのすべてを蓄えた「私」のところに主は来てくださった。
主が御自ら来られ「怒り、混乱する私に」声をかけてくださった。
そうです。私はそんな異教のプールに入る必要なんてないのです!
私も床を取り上げ、ミカ書6章8節のように「道」を歩いていきます。
דרך デレク 道
心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
箴言3章5,6節(口語訳)
日本語の聖書で箴言を読むと、「道」という言葉がとてもたくさん出てくることに気付きます。
聖書協会の本文検索で確かめてみると、箴言のみならず、聖書には「道」という言葉がたくさん登場しています。以下引用口語訳聖書
詩篇1:1悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、申命記5:33あなたがたの神、主が命じられた道に歩まなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつさいわいを得て、あなたがたの獲る地において、長く命を保つことができるであろう。ハバクク書3:6彼は立って、地をはかり、彼は見て、諸国民をおののかせられる。とこしえの山は散らされ、永遠の丘は沈む。彼の道は昔のとおりである。マラキ書2:8,9ところが、あなたがたは道を離れ、多くの人を教えてつまずかせ、レビの契約を破ったと、万軍の主は言われる。あなたがたはわたしの道を守らず、律法を教えるに当って、人にかたよったがために、あなたがたをすべての民の前に侮られ、卑しめられるようにする」。マタイによる福音書7:13,14狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。ヨハネによる福音書14:5,6トマスはイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」。 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。