詩篇76篇10節(4)

 (3)でおわったはずなのになぜ(4)なのか、と言いますと、BIBLE HUBで見たヘブライ語聖書を眺めて、どんな訳を付けられるかと自分で考えた過程を記録し忘れてしまったことに気づいたからです。
もっとも、結論としては「これは難しすぎて訳せないな」と思ったわけですが、しかし、今後、どんなヒントと出会えるかわからないわけですから、あきらめてはいけないですよね。

כי־חמת אדם תודך שארית חמת תחגר׃

 

10節のみ言葉は創世記の キ トウブ 「はなはだ良い」でおなじみの
כי キ からはじまっています。キ には「そのため、したがって、一方、確かに、しかし、確かに、疑いなく」というような訳語が充てられるようです。
二語目は חמת は「怒り」とか「熱」とか「毒」などを表す名詞だそうです。

そして三語目は אדם 

アダム、つまり、「人」です。

そして四語目になって初めて動詞が登場します。
 תודך 

これは 元の単語は יָדָה 賛美するとか感謝するという意味の言葉です。

 תודך という形で登場するのは聖書の中ではわずか2回で

詩篇76篇のここと、もう一か所はイザヤ書38章18節です。

「陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、
あなたのまことを望むことはできない。」
イザヤ書38章18節(口語訳)

語尾についているךが、「あなたを」と訳されています。


では、この「あなたをさんびする」という動詞はいったい誰の行動なのか、ということです。

ヘブライ語の文は、多くの場合動詞が先頭に来るので、あなたを讃美するという言葉の直後にある単語を見たわけですが、するとそこには
שארית 残り、残りの者 という単語がありました。

おそらく、聖書協会共同訳の「怒りを免れた者はあなたを祝う」という言葉は、この「残りの者があなたをさんびする」という訳文に前後にある「怒り」という言葉をうまく足して配置したものなのだと思います。

が、「残り」とか「残りの者」と訳せる単語の後ろを見るとあと二つ単語があるわけです。しかも、「残り」とか「残りの者」と訳せる単語の直後にあるのはまた「怒り」とか「熱」とか「毒」とかと訳さなければいけない名詞で、そのあと、つまり文の終わりには
תחגר 帯を締める、身支度をする という動詞があるわけです。

最後に動詞…ならばもしかして次の節の文頭かとおもいきや、次の節の文頭にはちゃんと動詞があるので、この「帯を締める」とか「身支度をする」という動詞は76篇10節の中に納まっている言葉なのでしょう。

したがって、聖書協会共同訳の翻訳だと、最後の動詞「帯を締める」とか「身支度をする」が行方不明、ということになるような気がします。もちろん、翻訳に使った元の文が違うのかもしれません。だとしたら仕方ないことですが。


話を戻します。

聖書協会共同訳の「怒りを免れた者はあなたを祝う」という訳し方のように、「残りの者があなたをさんびする」という内容を10節の核のように据えた場合、文頭の3語と文の終わりの2語をどう扱えばよいのかという問題が起こります。
文頭の3語はどう考えたとしても、「アダム(人)」と「怒り」という言葉は切り離せないわけで、「人の怒り」という言葉の前に「キ」という単語が置かれていると考えるしかないわけです。さらに言えば、聖書のヘブライ語はとてもシンプルに構成されている印象があるので(個人の感想です)「キ」という単語は遠く離れた言葉とからめるのではなく、すぐ後に置かれた言葉とからめるだろう、だから「キ」「人の怒り」がひとまとまりであろう、思うわけです。とすると、

「キ」「人の怒り」「残りの者があなたをさんびする」「怒り」「帯を締める」

という感じでこの文が成立しているということになるわけですが、

ぶっちゃけこれでは全く意味が分からないというか、組み合わせようがないわけです。もしも「人の怒り」という言葉の「怒り」が名詞ではなく、動詞だったら、どうにかできるような、
あとは文末の「帯を締める」という動詞がなかったならと思うけれども、あるものはあるわけで無視するわけにはいきません。


じゃあ、どうするか、ということですが、「残りの者があなたをさんびする」というふうにしてしまった訳を元に戻す、つまり、動詞である「あなたをさんびする」という言葉の行為主体は「残りの者」という思い込みをやめる。限定を外して元に戻す。

そうすると、

「キ」「人の怒り」「あなたをさんびする」「残り」「怒り」「帯を締める」

となり、

2つある動詞「あなたをさんびする」と「帯を締める」を行っているものが何なのか、それぞれに対応させることのできる2つが見えてくる。
2つある名詞、つまり、
「あなたをさんびする」のは前半の「怒り」、
「帯を締める」のは後半の「怒り」ということになるだろう、
と思ったわけです。でもなんだかなあ・・・と。

で、この段階でもう一つ思ったのは、これは詩篇、歌なので、言葉の調子をととのえるために言葉を倒置させている可能性です。
「キ」を除いたものを3語3語に分け、適当なメロディをつけて歌ってみると、なんだかいい感じに歌えます。(個人の感想です)

というわけで、


(2)で書いたような「義憤」説に至ったのです。

でもまだまったくわからない。

(今度こそ終わる・・・と思います76篇10節の話題・・・でも来年も生きていてまたここを読んだらまた何か思うに違いない。)



まことに人の怒りはあなたをほめたたえる。怒りの余りをあなたは帯とされる。詩篇76篇10節(口語訳)


怒り猛る者もあなたを認める
あなたが激しい怒りの名残を帯とされるとき。詩編76編11節(新共同訳)


憤る者さえあなたをたたえ
怒りを免れた者はあなたを祝う。詩編76編11節(聖書協会共同訳)


まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ、あなたは、憤りの余りまでをも身に締められます。詩篇76篇10節(新改訳)