本物か偽物か

ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。 あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。
                  申命記18章20~22節(口語訳)




スーパーに行くと、商品を手に取り、裏側の表示を見る習慣が私にはあります。
そして、表示を見ながらいつも心の中でつぶやくのです、
(これってほんとに書かれている通りなんだろうか・・・。)

子どもが小さかったころ、当時私はとある生協を通して「無薬鶏」という名前のつけられていた特別な飼育方法で育てられたとされる鶏肉を買っていました。娘がデリケートな体質であったため、食べ物にはかなり神経を使っていたからです。
ところで、「無薬鶏を買っていた」と書かなかったのには理由があって、実は、その無薬鶏という名前を付けられていた鶏肉は実際には無薬鶏ではなかったのですね。いわゆる、「偽装」でした。
当時この件についてマスコミで取り上げられた時、まさか自分が該当するとは思っておりませんでしたが、ある日生協から連絡があり、購入代金が一括返金され大変驚いたことを覚えています。
かなりの長期間、トータルではかなりの量をいただいておりましたが、娘の身体に異常が生じるようなことはなかったので感謝でした。もっと言うと、「無薬鶏でなくても大丈夫なんだ、食べられるんだ」という知見を与えられた!?ということとなりそのことのゆえに主に感謝いたしました。また、何かあった場合にその生協の対応は大変早い、ということも分かり、そちらに対する信頼も改めて確認することができたのでした。

さて、そんな経験もあるため、スーパーの食品を手に取ったとき、表示を見ながら
(これってほんとに書かれている通りなんだろうか・・・。)
とつぶやくと同時にもう一言、
(もしもウソだったら、しかも何か被害があったら、神さまは絶対におゆるしにならないからね!)と考えるようにもなってしまいました。
なぜなら食べ物という直接身体に取り込んでしまうものについて偽りを表示するということは、人の命を危険にさらすことになるからです。たかが表示、ではありません。その程度のこと、ではありません。殺人という重罪に至る可能性を持ったものであるという認識をお持ちいただきたいと思います。

さて、スーパーの話からいきなりではありますが聖書のお話に移りたいと思います。

私は長い間、福音的な教会の教えに親しんでまいりましたので、「聖書は原典において誤りない神のことばである」という信仰を持ってきました。もちろん今でもそう思っているつもりなのではありますが、
しかし、あまりに長い間孤羊でいるためでしょうか、どうも最近は「余計なこと」を心の中でモゴモゴと思うようになりました。



初信者の頃、聖書という書物がどういう書物であるのかということを先輩クリスチャンたちから何度となく教わったわけですが、たいていの場合パウロが語った第二テモテ3章のあたりを引用して説明されました。

しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、よくも続いてきてくれた。そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(口語訳)

特に、
「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」というところ。

で、当時10代後半~20代前半だった私は聞くや否や「なるほどそういうものか」と納得したわけです。そして深く考えることなく転送、いや、次の人に自信満々で「聖書っていうものはね、」と伝達し続けてまいりました。

しかし、いろいろな経験を経てうざいババア孤羊となった今、どうもそのパウロの言葉をを昔のように納得できない。なんとなく変なことを言いたくなるのです。
「でもさ、やっぱりパウロがここで言ってる『聖書』って今私が持っている66巻の聖書のことじゃないよね・・・」とか。←完全に私は福音派、福音的な教派から落ちこぼれたようです。
実際問題として、パウロがここで言っている聖書とは私の聖書66巻とは別物に違いありません。ただ、いろいろな考え方とか解釈とかがあることは無学ではあっても年の功で気付いています。しかし、私が長いこと聖書だと信じて読んできたこの聖書という本についても申命記18章のみことばは適用できるんじゃないかしら、と、最近頻度高く思うのです。

もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。

聖書は試すものではなくて信じるものだ、とか、聖霊さまに導かれて語られる先生や兄弟たちの教えに従っていれば間違わない、ということを言われる方もいますが、
正統を自称していてもおかしな教えに流されていく、そういうケースは絶対にあるはずです。なぜならば人間は間違う存在だからです。理由はどうであれモーセも人を殺しました。ダビデも他人の妻に手を出しました。ペテロは3度主を知らないと言いました。
赦される云々の問題ではなく、間違うのか間違わないのか、という点において、人間は絶対に間違うわけです。完璧な人間なんて、…そもそもキリスト教の立場からの説明としてイエスさま以外いないわけです。

だからこそヨハネの黙示録に7つの教会のうちに描かれるようなおかしな教会が出現するわけです。もちろんヨハネの黙示録がインチキだったのならば7つの教会の話もインチキだということになり、変な教会なんてないわけですけれども。
いずれにしても申命記18章のみことばは
万一このみことば自体の翻訳に多少の問題があったとしても、この言葉の言わんとしている内容は至極もっともなことであって、聖書を信ずる者たちは時々ここに立ち返る必要があるような気がするのですね。


またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
           マタイによる福音書24章3~14節


イエスさまが再びおいでになるときには
・・・このマタイの福音書が偽物のことばでないならば←くどい

「人に惑わされないように気をつけなさい。」
とイエスさまは教えておられます。
小さな子どもたちにそう語られたのではありません。
弟子たちに向かってイエスさまは
「人に惑わされないように気をつけなさい」
とおっしゃったのです。
重いですよね?危うさを感じませんか?
「多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」 ともイエスさまは語られました。

Bible Hubで見てみると「多くの者がわたしの名を名のって」という箇所は多くの英語の聖書でFor many will come in my nameという表現になっており
For many=たくさんの者たちが
will come=来るであろう≒現れるであろう
in Jesus name=イエスさまのお名前の中に=イエスさまの権威の中に≒イエスさまの権威を着て 
ということになりますよね。
そう、
in Jesus nameでやってくる人間が惑わす人間として現れるわけです。
in Jesus nameでやってくる人間を見分けることは容易なことではないような気がします。
パッと見、仲間っぽいのです。
そしてそいつはもしかしたら「上の方」の立場の人かもしれません。なぜならそいつは
 claiming, 主張するのですね、
‘I am the Christ,’ =わたしはキリストだと。
and will deceive many=そしてたくさんの人を欺くであろう
というのですが、
deceiveの代わりにmisleadと言う語をあてている英語の聖書もあるのです。
misleadとはミスリードのこと、つまり間違った情報を与えて人々を間違った方向に導いていくということです。
つまりミスリード出来るポジションにあるということかもしれません。


弟子のようなベテラン?クリスチャンでさえ騙される危険性があるかもしれない・・・
イエスさまの警告に私たちは耳を傾けなければいけません。
よく考えることなくホイホイと人の言説に安易に乗らないようにしようと思います。
騙す側にも騙される側にも立たないように注意深くありたいです。

私のような孤羊は本当はとても危険だと思うのですが、物理的にも身体的にもどうしようもないので、1タラントをフルに活用して羊飼いの声を聞きもらさぬよう努力したいと思います。