「祝福」という言葉について(7)ギリシャ語の単語とヘブライ語の単語の比較
日本語の新約聖書で「祝福」と翻訳されている言葉がひとつわかりました。
Strong's Greek 2127 εὐλογέω eulogeó (動詞) という言葉です。
Englishman's Concordanceによれば、この言葉は聖書中に43回登場しています。
どこにどういう翻訳で登場するのか、口語訳聖書から引用させていただきたいと思います。
マタイ5:44 ←うーむ・・・いきなり問題発生です。下の方であらためて書きますが、日本語の聖書には2127番に該当する言葉がありません!ギリシャ語聖書とKJV、INTには2127番の言葉があるようですが。
前に聖書の読み比べということで使徒18章21節のところの事を書きましたが、こういうことってよくあるのでしょうか?
前に聖書の読み比べということで使徒18章21節のところの事を書きましたが、こういうことってよくあるのでしょうか?
マタイ14:19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。
マタイ21:9 「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。詩篇118篇25,26節からの引用文
マタイ23:39 『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』詩篇118篇26節からの引用文
マタイ25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
マタイ26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
マルコ6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
マルコ8:7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。
マルコ10:16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。
マルコ11:9 「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
マルコ11:10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
このマルコ9節10節も詩篇118篇25,26節からの引用
マルコ14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。
ルカ1:42 声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。
ルカ1:64 すると、立ちどころにザカリヤの口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえた。
ルカ2:28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
ルカ2:34 するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――
ルカ6:28 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
ルカ9:16 イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。
ルカ13:35 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。わたしは言って置く、
『主の名によってきたるものに、祝福あれ』
とおまえたちが言う時の来るまでは、再びわたしに会うことはないであろう」。
詩篇118篇26節からの引用
ルカ19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
ルカ24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
ルカ24:50 それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。
ルカ24:51 祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕
底本のゆえにかっこが付いている。
ルカ24:53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。
ヨハネ12:13 「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
詩篇118篇25,26節からの引用。福音書、祝福、旧約からの引用と言えば詩篇118篇26節ということが分かった。
この箇所は新共同訳では12章12節
詩篇118篇26節はברךバラクがつかわれている。
使徒3:26 神がまずあなたがたのために、その僕を立てて、おつかわしになったのは、あなたがたひとりびとりを、悪から立ちかえらせて、祝福にあずからせるためなのである
ローマ12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。
1 コリント4:12 苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、
1 コリント10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
祝福の杯の「祝福」は2129番εὐλογία eulogia (名詞)
1 コリント14:16 そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。
ガラテヤ3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。
ちなみにこのみ言葉の前の節であるガラテヤ3章8節の
「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」
の「祝福」は
Strong's Greek1757 ἐνευλογέω eneulogeóで、Definitionはto confer a benefit on。
ガラテヤ3章9節のほかにもう一か所、使徒3章25節だけに使用されている。
ガラテヤ3章9節のほかにもう一か所、使徒3章25節だけに使用されている。
あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である。神はアブラハムに対して、『地上の諸民族は、あなたの子孫によって祝福を受けるであろう』と仰せられた。
この箇所は創世記22章18節と26章4節の引用で、神さまがアブラハムを祝福される箇所。
創世記では両方ともברךバラクがつかわれていて、両方ともוְהִתְבָּרֲכ֣וּ となっている。
詩篇118篇26節も踏まえると
Strong's Greek 2127 εὐλογέω eulogeó (動詞)
Strong's Greek 1757 ἐνευλογέω eneulogeó (動詞)
この二つのギリシャ語は両方ともヘブライ語ではברךバラクと同義ということになる。
1757番は2127番にenが付いた形なので、2127番eulogéō "bless"という意味を強めるということらしい。
Strong's ConcordanceのDefinitionを見ると
2127番はto speak well of, praise、1757番は上の方に書いた通りto confer a benefit onで to blessということで
だとすると、
たたえる、賛美する=praiseという行為はベネフィットを与える行為=to blessよりも弱いということだろうか。
「たたえる」とは言葉や口先の事、相手に益を与えるのは与える側としたら身を切るということ、
しかし、両方とも同じ心持ちであることは確かですねえ。
エペソ1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
エペソ1章3節は3種類の「祝福」という言葉が含まれています。ペールピンクでマークしているのがここまでずっと話題にしていた2127番の「祝福する」という言葉です。
そして、「もろもろの祝福」というところの「祝福」は名詞なので2029番。
さらに、ここに来て初めて登場するのが「ほむべきかな」というところに使われている言葉
Strong's Greek 2128 εὐλογητός eulogétos
Strong's Greek 2128 εὐλογητός eulogétos
eulogētósは、父なる神とキリスト (子なる神) についてのみ使用される言葉のようです。
神さまこそが称賛に値するということを接尾辞 (- tos ) が示している?
ヘブル6:14 「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。
この箇所は日本語では祝福という言葉が一度書かれているだけなのですが、
ギリシャ語ではεὐλογῶν εὐλογήσωという具合に2127番が繰り返されています。
ヘブル7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、
ヘブル7:6 ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、約束を受けている者を祝福したのである。
ヘブル7:7 言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。
ヘブル11:20 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。
ヘブル11:21 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。
ヤコブ3:9 わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
1 ペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
一つめの「祝福」が2127番=動詞 で、後に出てくる「祝福」は2129番=名詞
と、ここまでひたすら2127番の言葉を追ってきて
「祝福」という言葉のおおもとにあるもの=心の中にあるもの、根底を流れるもの は一つだが
程度の違いや現れ方がいろいろあり、
しかし、日本語にはそれをあらわす単語がないので
一つの場面において適切だと考えられた「祝福する」もしくは「祝福」という言葉を充当したが、
祝福という日本語は「結婚を祝福します」というような「おめでとう」的な意味で使うことが多くあるため、
別の場面において、
例えば「神さまを祝福する」と言ってしまうと「神さまおめでとう!」って何だ?ということになってしまうので、
そこには別の訳語「ほめたたえる」「賛美する」というという言葉を充てたのだ
と、ただそれだけのことが確認できた、というような気がします。
と同時に、聖書を持たない民の言語に聖書を翻訳するということの苦労は並大抵ではないということを改めて知ることができたような気もします。
翻訳に取り組んでおられる先生方に「御祝福」をお祈りいたします。
ひたすら「祝福」という言葉を追い続けて、2127番については上に書いたような結論でありますが、
これまで考えてきたいろいろな仮説について、
どれもこれも瞬時に崩れていきはしましたが、
しかし、ברךバラクという言葉を持たない民としてברךバラクをどう定義し理解するのか考え続けること、探し続けることは
しかし、ברךバラクという言葉を持たない民としてברךバラクをどう定義し理解するのか考え続けること、探し続けることは
トーラーを持たない異邦人である自分がいかにしてトーラーを自分のことばとしていくのかという旅のようなものなのかもしれないと思えました。
ドグマではなくロゴス。
「祝福」という言葉を追い続けて、「祝福」という言葉を発するときの意識、頭の中に思い浮かぶものはものすご~く深く、ものすご~く細かくなった気がいたします。そして言葉を発したことに伴う責任として、自分が今後何をどう行なうことがよいことなのか、そんなことも考えたりして。
そうか、もしかしたらそうなることもברךバラクなのかもしれない。
アバに求めるברであり、そしてרךとなる。
さて、書き残したマタイ5章44節の件です。
またギリシャ語聖書の言葉が二種類あったのです。
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 5:44 Greek NT: Westcott and Hort 1881
Ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν, ἀγαπᾶτε τοὺς ἐχθροὺς ὑμῶν καὶ προσεύχεσθε ὑπὲρ τῶν διωκόντων ὑμᾶς·
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 5:44 Greek NT: RP Byzantine Majority Text 2005
ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν, Ἀγαπᾶτε τοὺς ἐχθροὺς ὑμῶν, εὐλογεῖτε τοὺς καταρωμένους ὑμᾶς, καλῶς ποιεῖτε τοῖς μισοῦσιν ὑμᾶς, καὶ προσεύχεσθε ὑπὲρ τῶν ἐπηρεαζόντων ὑμᾶς, καὶ διωκόντων ὑμᾶς·
短いやつと長いやつ。
水色のマーカーで塗ったところが短い方にはない。
で、水色のマーカーで塗ったところの初めに来ている単語εὐλογεῖτεが2127番です。
εὐλογεῖτε祝福しなさい τοὺς καταρωμένους ὑμᾶς あなたを呪うものを
καλῶς 正しいこと、良いこと、賞賛されることを ποιεῖτε行いなさい τοῖς μισοῦσιν ὑμᾶς あなたを憎むものに
ἐπηρεαζόντων ὑμᾶς, あなたを侮辱するもの
なので、口語訳聖書の5章44節
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
と合体させてみますとこんな感じになりますか?
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、
祝福しなさいあなたを呪うものを。
祝福しなさいあなたを呪うものを。
正しい良いことを行いなさいあなたを憎むものに。
そして祈れあなたを侮辱するものと迫害する者のために。
前回の使徒18章21節のところもそうだったんですが、ウェストコット・ホートの聖書が短くなっているんですよね。
一生懸命やっていい仕事をしてくださったのだとは思うのですが
なんかアレなので(アレって何だ?)
ちょいとアレなので、検索してみたのです、そうしたらなんかヤバいうわさがあり
ただまあ、うわさはうわさだし、
私はなんだかんだずーっとこの方々の聖書を読んできたわけで
でもたしかに気持ち悪い感じもしないわけでもなく
ただ、確かなことは一つあって
教える立場の者の責任ってのは重いって聖書は言っていますから
わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。ヤコブ3章1節
もしもうわさが本当なら
それはそれなりの責任を取らされるでしょう神さまから。
(いつかどこかに「祝福」シリーズはつづく・・・ww いったん終わります。)