イザヤ書30章26節についてまだ考えています。
月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
イザヤ書8章20節と創世記1章16~18節を引用します。
わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、わたしはその主を待ち、主を望みまつる。見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。
イザヤ書8章16~20節
神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。創世記1章16~18節
トーラーによれば、「太陽」は昼の光で「月」は夜の光です。
イザヤ8章20節に「ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない」とありますが、そういう理由で闇の中に居続けている人も多いような気がします。
そういう暗闇、夜の間、人々が目にすることのできる見る光は「月」の光です。
自ら光を発しているわけではない月。
そして、イザヤ書30章26節にある「月」は
聖書の中に多く登場するヘブライ語Strong's Hebrew 3394のירחではなく
Strong's Hebrew 3842のלבנהという単語が使われており
この3842番は創世記11章3節、バベルの塔の話に登場する「れんが」と同じ文字列なのだと
2023年11月22日に公開したイザヤ書30章26節の解釈(1)レアな単語という記事に書きました。
そんな風に考えると以下のような解釈もあり得るかもしれない、と思いました。
暗い夜をつかさどるのは月であり、夜の世界にいる人々はずっと月の光を見ている。
だから、月の光が日の光のようになると、月の光を見ている人々は朝が来たと勘違いする。
もちろん、月の挙動(神さまが定められた地球から見た月の動き)を理解している人ならば、月がどんなに明るくなったとしてもそれは月だという事がわかるはずなのだが、
神さまの定められたルール=トーラー=神さまご自身 をないがしろにしている人々は
日のように輝く月の光を、それは月であって日ではないのに、
よく考えもせずに「明るい朝が来た、これが救いだ!」と勘違いしてしまう・・・
・・・それは偽物だ。
夜明けの光(太陽の光)ではない。
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