והיה אור הלבנה כאור החמה
ואור החמה יהיה שבעתים
כאור שבעת הימים
ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃
イザヤ書30:26
(ヘブライ語聖書から引用)月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
(口語訳聖書を引用)
七つの日の光(口語訳、新改訳)、七日分の光(聖書協会共同訳)、七日の光(直訳)になる、とは何なのか。
単純に七倍になった事を言い換えているだけだとも考えられますし、
実際、自分はずっとそう考えて読んできたのですが、
ゆっくりじっくりと読んでみると、何かがおかしい。
読者はまず「月の光は日の光のようになり、」という言葉を読み
月の光は日の光のようになるというイメージを膨らませるわけです。
ああ、月が日のように明るくなるのかというイメージを読み取るわけです。
そして続いて「日の光は七倍となり、」とかいてあるので、
月も明るくなるけれども、太陽の光は7倍になるのか、と
それはそれはギラギラとまぶしい7倍の光となった太陽のイメージを心に描くわけです。
で、そこで終わっていれば、そういう話だという事でなるほどね、昼も夜も明るいねという事になるわけですが
そこでは終わらず「七つの日の光のようになる。」と言うわけです。
ヘブライ語で見ますと、「日の光は七倍となり、」という言葉の後にくる「七つの日の光のようになる。」という言葉はヴァヴで接続されていませんので、
新たな話をしているわけではなく、直前に書かれている太陽の話か、もしくはその前の月の光の話も含んだ話(つまり月と太陽の光の変化)を「七つの日の光のようになる。」という表現で受け、まとめているようにも思えるのですが、
七つの日の光はどう読んでも七日間seven daysの光と読め、
石のようにコチコチの頭を持つ私には
「七日という言葉は日数であって光の量を表さない」としか思えないわけです。
それでもどうしても光の量を表すのだと考えるなら
一日分の光を1単位としてそれの7倍ということなのか、とか思ってみるわけですが
それだと七日間の光とは「一日分の光が七日間照射される」という話になってしまい、太陽光の量には何の変化も起こっていないことになってしまうわけです。
ならば、月や太陽の変化が7日間なのかと考えたらどうかと考えましたが、
だったら別の言い方でもっと簡潔に直接的に表現した方が正確に伝わるはずです。
ドツボにはまった感がありますので
とりあえずまずはいつもの調べ学習のパターン。ヘブライ語聖書で
שבעת הימים七日seven days という言葉を含む箇所をコンコルダンスで拾い上げます。
創世記 7:10
こうして七日の後、洪水が地に起った。
HEB: וַֽיְהִ֖י לְשִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים וּמֵ֣י הַמַּבּ֔וּל
出エジプト記 13:7
種入れぬパンを七日のあいだ食べなければならない。種を入れたパンをあなたの所に置いてはならない。また、あなたの地区のどこでも、あなたの所にパン種を置いてはならない。
HEB: אֵ֖ת שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים וְלֹֽא־ יֵרָאֶ֨ה
士師記 14:17
彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。
HEB: עָלָיו֙ שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֔ים אֲשֶׁר־ הָיָ֥ה
1 歴代誌 9:25
またその村々にいる兄弟たちは七日ごとに代り、来て彼らを助けた。
HEB: לָב֨וֹא לְשִׁבְעַ֧ת הַיָּמִ֛ים מֵעֵ֥ת אֶל־
2 歴代誌 30:22
そしてヒゼキヤは主の勤めによく通じているすべてのレビびとを深くねぎらった。こうして人々は酬恩祭の犠牲をささげ、その先祖の神、主に感謝して、七日のあいだ祭の供え物を食べた。
HEB: הַמּוֹעֵד֙ שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֔ים מְזַבְּחִים֙ זִבְחֵ֣י
イザヤ書 30:26
さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
HEB: כְּא֖וֹר שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים בְּי֗וֹם חֲבֹ֤שׁ
エゼキエル書 45:23
祝い日である七日の間は、七頭の雄牛と、七頭の雄羊の無傷のものを、七日の間毎日、燔祭として主に供えよ。また、雄やぎを罪祭として日々ささげよ。
HEB: לַיּ֔וֹם שִׁבְעַ֖ת הַיָּמִ֑ים וְחַטָּ֕את שְׂעִ֥יר
エゼキエル書 45:25
七月十五日の祝い日に、彼は七日の間、罪祭、燔祭、素祭および油を、このように供えなければならない。
HEB: כָאֵ֖לֶּה שִׁבְעַ֣ת הַיָּמִ֑ים כַּֽחַטָּאת֙ כָּעֹלָ֔ה
ドツボの度合いがいっそう増した感ww
特にこれと言って・・・
気付けないのはわたしだけ?(;´Д`A ```
もしかして「七日の光」とは何か慣用句的なものなのでしょうか?
直前の七倍とかそういう数字の表現とは関係なく、
「七日の光」単独で共通理解できるようなそういう表現?
直前の「七倍」という数字が「7という数字」つながりで
「七日の光」という言葉について異邦人読者に疑問を抱かせにくい一体感、ナチュラル感、聖書っぽさを醸し出しているのだけれども実際には「七倍」とは全く関係のない独立した言葉であって、
うーん・・・たとえば
例文1 彼は、朝ご飯を食べながら、「そんなの朝飯前だ」と言った。
例文2 彼は、夕ご飯を食べながら、「そんなの朝飯前だ」と言った。
という二つの文があったとして、
日本語ネイティブであれば、「朝飯前」という言葉は「簡単である」という意味だと知っていますから、その前にどんな言葉があっても「そんなの簡単だ」とわかるわけですが
朝飯前という言葉を文字通りの「朝ごはん前」と読んでしまうと、
例に挙げた二つの文は???ということになり
人によっては勝手に言葉を補って
「そんなの朝飯前にやった」と「完了形」でとらえてしまうかもしれない、というような
聖書ヘブライ語ネイティブではないゆえの誤解をしているのではないか・・・
で、とにかく何かしら読解の手がかり足がかりになるものはないかしらということで
12月5日の記事の最後に書いた謎サイトの文章を読んでみることにしました。
שבעת הימים
この文字列を検索にかけたところ、想像していたのとは異なる検索結果が現れて…というのが12月5日の記事の最後だったわけですが
אור שבעת הימים – חב"דפדיה 七日間の光
יום(日)ではなくてים(海)と読んでしまって「七つの海」というのはさすがにイザヤ書の場合文脈に沿わないと思うので、
「七日間の光」という記事の方(ハバド・ハシディズムの教えについて書かれているChabadpediaにおけるשבעת הימים)をグーグル翻訳の力を借りて読んでみました。ハバド・ハシディズムがどういう教えなのかはよくわかりませんが、「七日間の光」という言葉にヘブライ語を知る人たちが何を感じるのか知りたいのです。
すると、まず最初にこんなことが書いてありました。
בפי חז"ל 賢者?
全体を一括で翻訳すると日本語に訳された言葉の意味が全く見えなかったので、
一語一語、そしていくつかの言葉をまとめて翻訳してもらったりいろんなことをして読んでみたのですが
ドツボから今度は大海のど真ん中に引きずり出されたような(笑)
しかし、やはり「七日間の光」という表現は見出し語となりうる一つの決まり文句というか、ヘブライ語聖書を読む人々が共有する特別な表現であるということに気付かされました。
ちょっとまだはっきりと言える段階ではないのですが、
ただ、これが創世記の初めのところで神さまが創造された「光」を指す言葉なのだと認識されているのだとすれば、
そこにはまだ罪などはないわけで
これは以前、エデンの園とイエスさまという記事を書いたときに
「ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
トーラーを持たない私がこの言葉を聞いたとき、
この言葉は、自分の現在の立ち位置を原点として未来という一方向だけに限りなく伸びる半直線をイメージさせました。
そして、「死んでも死なない」という意味での「永遠の命」そして漠然とした「天国」を思い描いたわけですが、
トーラーを持つ人々がこの言葉に出会った場合、
おそらく線は自分の立つ原点を中心に、未来だけではなくはるか遠い創造の昔にも向かっているのです。
そして、こんなメッセージを聞くことになるのです。
「エデンの園に帰れるのだ!
神さまは御子によって人間を再びエデンの園に戻してくださった!
神さまとの断絶が完全に終わったのだ!」
と書きましたが、
ちょうどそれと同じような気分で語る
「創造」の時の光というのが「七日間の光」であって
だとすれば
月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
(口語訳聖書を引用)
というのは、
「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、」というところで
イザヤの気持ち、イザヤの言わんとしたことはいったん終了して
そういう「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、」となることで
創世記の初めのようになる、つまりこの「七日間の光」という言葉のあとの「いやし」の内容につながっているということなのかもしれません。
ביום חבש יהוה את שבר עמו ומחץ מכתו ירפא׃
(9)の記事でも書いた事の繰り返しになりますが
月の光日の光の話の後にあるのは、単語の意味を並べてみればこういうふうになっているわけで
「その日」
「包む」
「主(神聖四文字)」
אֶת
「壊れている、破滅状態、(クラッシュしている)」
「彼の民」
「そしてひどく傷ついている(砕け散っている)」
「虐殺、疫病、刃物や銃による傷」
「完全にいやす」
そして、「包む」というのは「ろばにくらを置く」という事であり、
「ろばにくらを置く」というのはすなわち
ろばがろばとしてそのやるべきことをやるために必要な準備ですから
イスラエルにはいろいろなことがあったけれども、
月がうんぬん日がうんぬん・・・というようなことがあり
このようにして「七つの日の光のように」なったので
彼らは癒され、
創造の初めのあるべき姿となり
彼らは彼らのなすべきことを行うようになる
ということでしょうか。
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