イザヤ書30章26節をずーっと考え続けてる中で、困っているのは「光」という単語です。
これまでの人生経験・・・いや、聖書のメッセージを聴いている中で「光」は闇の対極であって、100パーセント良いものとして教えられてきたからです。
聖書辞典も眺めてみましたが、案の定、悪い意味での「光」なんてないわけです。
なんかないかなあ・・・と考えていて気付いたのは目の前のディスプレイ。
これ、私の目に悪いw。長時間じっと眺めていると片頭痛を催すし、そもそもまぶしすぎて不快なのでメガネをかけて使っております。
最近の研究ではブルーライトカットグラスをかける方が悪いとか言う説もあるようですが、私は自然光であっても強い光を浴びると閃輝暗点を起こすので、駄目なものは駄目ということで、サングラスやブルーライトカットグラスは友達です。そう、ブルーライトで虫が死んでしまうという研究もありましたし・・・ってブルーライトは聖書とは関係ないわけですが
そんなことを考えていて気付いたのは「~の光」という表現。
たとえ「光」が良いものであったとしても「~の」に当たる部分が悪であればその光は悪なのではないかと。
(苦し紛れのこじつけか)
神さまの「栄光」もあるが悪い集団の長の「栄光」だってある
とそこまで考えたときパウロが言ってた言葉を思い出しました。
新改訳聖書を30年近く読んでおりましたので、こういう時に思い出すのは新改訳聖書の言葉なのですが、太陽の栄光もあり月の栄光もあり星の栄光もあります・・・というところ。第一コリントの15章。著作権の関係があるので口語訳から引用します。
コリント人への第一の手紙15章41節
日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
栄光の話であって光ではないとは思いますが、
光にもいろいろあると言えばあるのではないか、と。
確信を持って言っているわけではないので今後10年間でまた話が変わっていくのかもしれませんが、現時点の思い付きと思い込みとして、そういう「~の光」という
修飾語が付くことによって
また、その光を受け止める人々の状況などによって
「性質の異なる光」というものがある、と
一般的には光と言ったら好ましいものではあるけれども
だいたい、この夏の尋常ではない暑さを思えば
暑さではなく「熱さ」であり、
いつになってもやむ気配もなく、
…12月になってもまだ20度に行きそうで…
太陽の光がこんなに恐ろしいものなのかと
白く筋の入った新米をとぎながら思っているわけです。
光という言葉をヘブライ語の聖書で眺めてみました。
イザヤ書30章26節に登場する「月の光は日の光のように」
というところはどういうふうに書かれているかというと
אור הלבנה כאור החמה
意味は
אור 光
הלבנה the「月」
כאור 光のように
החמה the「日(太陽)」
で、
אורという言葉は122回聖書に登場しているのですが、
כאורという表現になるとわずか3回しかないのです。
言い換えると、「光のようになる」という聖書の箇所は3か所しかないということです。
で、3回のうち2回はイザヤ書にあります。
光という言葉は聖書の中ではほとんどの場合(122回中52回)
אור’ō·wrオウル という何も付かない状態で現れるのですが、
イザヤ書には文字がついていることがあり
…ヨブ記もいろいろついている気がしますが
時代の問題だったり、書の性質の問題だったり、いろいろあるとは思うのですが
イザヤ書はトーラーの学びというか、トーラーでしっかり単語の基本を押さえていないと読み解けない仕様になっているような気がします。(個人の感想です)
אור’ō·wrオウルという語の使われ方
bā·’ō·wr — 1 回 ヨブ記
bə·’ō·wr — 7 回 ヨブ記1回、詩篇3回、箴言1回、イザヤ書1回、ミカ書1回
bə·’ō·wr·ḵā — 1回 詩篇
ḵā·’ō·wr — 1回 詩篇
hā·’ō·wr — 7回 創世記3回、士師記1回、ネヘミヤ記1回、伝道の書2回
kā·’ō·wr — 1回 ハバクク書
kə·’ō·wr — 3回 箴言1回、イザヤ書30章26節に2回
lā·’ō·wr — 7回 創世記1回、ヨブ記2回、イザヤ書2回、ミカ書1回、ゼパニヤ書1回
lə·’ō·wr — 13回 ヨブ記2回、イザヤ書7回、エレミヤ書3回、ハバクク書1回
lə·’ō·w·rêḵ — 1回 イザヤ書
lə·’ō·w·rōw — 1回 ヨブ記
mê·’ō·wr — 1回 ヨブ記
’ō·wr — 52回
’ō·w·rām — 3回 ヨブ記1回、イザヤ書1回、エレミヤ書1回
’ō·wr·ḵā — 1回 詩篇
’ō·w·rêḵ — 1回 イザヤ書
’ō·w·re·ḵā — 2回 イザヤ書2回
’ō·w·rê·hū — 1回 ヨブ記
’ō·w·rî — 1回 詩篇
’ō·w·rîm — 1回 詩篇
’ō·w·rōw — 4回 ヨブ記2回、イザヤ書1回、エゼキエル書1回
ū·ḵə·’ō·wr — 1回 サムエル記下
way·yā·’er — 1回 詩篇
wā·’ō·wr — 1回 イザヤ書
wə·hā·’ō·wr — 1回 伝道の書
wə·’ō·wr — 7回 ヨブ記1回、詩篇3回、イザヤ書2回、エレミヤ書1回
wə·’ō·w·rōw — 1回 ヨブ記1回
さて、
כאור 光のように
ということばについてですが、
この言葉は上に書いた通り聖書の中にはこの形で3回出てきます。
でそのうち2回はイザヤ書ですがもう一つ箴言にこの形の言葉が登場します。
正しい者の道は、夜明けの光のようだ、
いよいよ輝きを増して真昼となる。
箴言4章18節
この箴言の言葉を眺めていて思ったのは、
夜明けの光のようだ、というのは夜明けの光ではないということです。
「正しい者の道は夜明けの光のようだ」と書かれているものを読んで
正しい者の「道」が夜明けの「光」になってしまう様子を思い描く人はいないということです。
イザヤは、そういう「ストレートではない」文学的な表現を、この30章の箇所と限らず多く用いているわけです。
だとすると、
「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。」
というこの箇所は天体である月の光や太陽の光の話をしているわけではなく、
れんがと同じ文字列の「月」という言葉を用いたり、
激怒という言葉と同じ文字列の「日(太陽)」という言葉を使うことで
イエスさまがたとえ話をなさったように
「謎」を提示しているのかもしれません。
そして
預言者のことですからそもそも「謎」が標準仕様であるのに
すべては解明しつくされていて、注解や講解を読めばちゃちゃっと理解できるものだと思い込んでいた私の態度が間違いだったのだと思います。
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