本当はこういうことをしたらいけないのだと思うのですが・・・
口語訳聖書のイザヤ書30章23節から26節までの文をヘブライ語聖書での並び順に入れ替えて言葉も少々変えて並べてみたいと思います。23節24節は入れ替えの必要がないと思えるのでいじりません。
(23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
(24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。(25)すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時
(26)月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光
その日主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる
変更前の文章
(23)主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、
(24)地を耕す牛と、ろばは、シャベルと、くまででより分けて塩を加えた飼料を食べる。
(25)大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時、すべてのそびえたつ山と、すべての高い丘に水の流れる川がある。
(26)さらに主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日には、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。
次に、
この文の流れに注目してください。
大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時
月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光のようになる。
その日、主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる
これを
(1)から(6)で書いた内容と以前書いた「バベルの塔とハルマゲドン」という記事を踏まえて読み直してみます。
(1)から(6)で書いた事
この節で使われている「月」「日(太陽)」という言葉はほかの箇所にはあまり出てこない単語で表現されていて、「月」という言葉はバベルの塔を造るために使った「れんが」と同じ文字列であり、「日(太陽)」という言葉はノアの息子であるハムの名前の後に神聖四文字に二回使われているהヘーというヘブライ文字が付いているものである。
ノアの息子であるハムの名前の後に父なる神さまを表すאアレフというヘブライ文字が付いている単語がダニエル書にあってそれは「激怒」と訳される。
七倍という言葉は災いや復讐などの時に使われている言葉である。
「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」
虐殺という言葉はהרגヘレグで、הרハル=山という意 に גギメル=ラクダを表す文字で大きいというニュアンスが込められることが多い が付いている
やぐらという言葉はヘブライ語ではミグダルの複数形でמגדליםミグダリムとなっている。
Strong's Hebrewで、この単語の前にあるいくつかの単語に目を留めてみると
4022. meged מֶגֶד excellence 優秀
4023. Mgiddown מְגִדּוֹן a tower 塔
4023a. migdol a tower
4023b. Megiddon or Megiddo a place in Manasseh
メギドンまたはメギドという地名は「塔」という言葉に大変近い音(綴り)
「大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる時」を合体させるとヨハネの黙示録16章にあるハルマゲドンという言葉になる可能性が高い。
「月の光」「日の光」
ここでいうところの「月」は、その文字列がバベルの塔を建設するために人間が作った「れんが」と同じであるということと、前節にバベルの塔を思い起こさせるミグダルが登場する事や
30章26節と全く同じ「月」「日」というレアな単語を使用しているイザヤ書の24章23節の箇所を考えあわせると、天体としての月ではない可能性が高いのではないかと思う。
イザヤ書24章23節について
こうして万軍の主がシオンの山
およびエルサレムで統べ治め、
かつその長老たちの前に
その栄光をあらわされるので、
月はあわて、日は恥じる。
イザヤ書24章23節
この箇所の大きな特徴としては月と日が擬人化されているということです。
月は「あわて」というところにあるヘブライ語は
Strong's Hebrew 2659חָפְרです。
2659番はイザヤ書1章29節でも使われているのですが
偶像崇拝者がどうなるのか、ということを描写する「恥じ」という表現に用いられています。
あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、
はずかしめを受け、
みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。
次にイザヤ書24章23節の
日は「恥じる」というところにあるヘブライ語は
Strong's Hebrew 954בּוּשׁです。
これもイザヤ書1章29節で使われていて、口語訳聖書でははずかしめを受けと訳されています。
イザヤ書におけるほかの用例を探しましたら、イザヤ書19章9節の「恥じる」という言葉も 同じStrong's Hebrew 954でした。
練った麻で物を造る者と、
白布を織る者は恥じる。
イザヤ書19章は「エジプトについての託宣」が書かれているところです。
そういう恥ずかしめだったり恥というものを24章23節の月や太陽は受けるとイザヤは語るわけですが、そうなってくると、単なる文学的な表現としての月と太陽の擬人化ではなく、月や太陽に関係する偶像崇拝を象徴しているのではないかと考えたくなります。
イザヤ書3章16節から23節にはこのような言葉があり
主は言われた、
シオンの娘らは高ぶり、
首をのばしてあるき、目でこびをおくり、
その行くとき気どって歩き、
その足でりんりんと鳴り響かす。
それゆえ、主はシオンの娘らの頭を
撃って、かさぶたでおおい、
彼らの隠れた所をあらわされる。
その日、主は彼らの美しい装身具と服装すなわち、くるぶし輪、髪ひも、月形の飾り、 耳輪、腕輪、顔おおい、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、 指輪、鼻輪、 礼服、外套、肩掛、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、帽子、被衣などを取り除かれる。
太字にしましたが、「月形の飾り」という言葉があります。
この言葉はヘブライ語ではשַׂהֲרֹןサハロンといい、コンコルダンスで調べると、この箇所のほか士師記に二度登場するものだということがわかります。
士師記8:21
そこでゼバとザルムンナは言った、「あなた自身が立って、わたしたちを撃ってください。人によってそれぞれ力も違いますから」。ギデオンは立ちあがってゼバとザルムンナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった月形の飾りを取った。
士師記8:26
こうしてギデオンが求めて得た金の耳輪の重さは一千七百金シケルであった。ほかに月形の飾りと耳飾りと、ミデアンの王たちの着た紫の衣およびらくだの首に掛けた首飾りなどもあった。
ヨブ記31章にもこんな箇所がありますが
わたしがもし日の輝くのを見、
または月の照りわたって動くのを見た時、
心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、
これもまたさばきびとに罰せらるべき悪事だ。
わたしは上なる神を欺いたからである。31章26節~28節
選ばれ愛されている民であるにもかかわらず
創造主であるまことの神さまを主と仰がず
偶像(月)崇拝の罪を犯す者がたくさんいたのだということを改めて認識できる箇所かと思います。
ヨブ記31章26節で「日」と訳されているところは太陽ではなく
אוֹרという単語が使われています。翻訳聖書では日の光のように訳されていることがありますが基本的には創世記1章3節のところで創造された「光」が אוֹרオウルです。
ヨブ記31章26節で「月」と訳されているところはיָרֵחַで、イザヤ書30章26節に登場するレアな単語ではありません。メジャーな方の象形文字のような絵文字のような「月」という単語です。
だとすると、イザヤは月を崇拝しているという表現をするためにレアな単語を使ったわけではないということだと思います。メジャーな単語を使っても表現可能であったにもかかわらずあえてレアな単語を用いたということになるのだということになろうかと思います。
つまり、イザヤは、あえてレアな単語を使うことでその単語でしか伝えることのできないメッセージを盛り込もうとしたのではないでしょうか。
月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七日分の光
月という天体は創造の初めに神さまがどんな役割を与えたのかということについては(3)で確認しましたが、
創世記1章に、月は夜をつかさどる光、と書いてあります。
しかしそのような役割を持っているはずの月の光は日(太陽)の光のようになってしまうとイザヤは語ります。
大虐殺の時、塔という塔が倒れ、倒れればそこは塔の形を成さないれんがの山になるのでしょうが、そのれんがの光が日の光のようになるというのです。れんがが太陽になるのではなく、れんがの光が太陽の光のようになる。
ただし、この「太陽」もレアな単語חַמָּהで、明るさよりも「熱さ」を意識させる語ですから、月が昼の担当になるのではなく、夜のままで熱い太陽の光を放つということでしょうか。
「そして光、太陽 7倍」
七倍となる日の光というものが月の光の変化したものを指すのか、月とは異なる昼の天体である太陽を指すのかわかりにくいのですが、
レアなחַמָּהが連続して使われ、それが7倍だと言っていますので、別の天体の話を始めたようには思えないのですが、もしも日の光を発するようになってしまった月とは別の天体としての太陽だったとしても、七倍の熱は尋常ではありません。そして、七倍とは、(6)で書いたように怒りや復讐わざわいという意味で使われることの多い表現ですので、少なくともこれは楽しく素敵な光景を描写しているわけではありません。
そして七日の光…なのですが
七倍という言葉の補強なのかなんなのかちょっとよくわからないのですが
七日分と訳したところにはこういう言葉があります
שבעת הימים
で、この文字列を検索にかけたところ
想像していたものとは異なる検索結果が現れました。
אור שבעת הימים – חב"דפדיה 七日間の光
調べ学習も考察も終わることはありません。
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