2024年2月21日水曜日

イザヤ書30章26節の解釈(13)引き続き「七日(間)の光」について

イザヤ書30章26節の解釈について考えておりまして、
昨年末より「七日(間)の光」について考え続けています。
前回までの理解としては、ハバド・ハシディズムの教えによると、これは「創世記の初めのところで神さまが創造された光を指す言葉」らしいという事だったのですが、
ほかのサイトではどうなっているのかということについて引き続き調べておりました。

すると、https://he.wiktionary.org/wiki/  でも

「神が世界創造の初日に創造した光の名前」とあり、

この起源はイザヤ書40章26節 にあると書かれていました。


目を高くあげて、
だれが、これらのものを創造したかを見よ。
主は数をしらべて万軍をひきいだし、
おのおのをその名で呼ばれる。
その勢いの大いなるにより、
またその力の強きがゆえに、
一つも欠けることはない。(口語訳聖書より引用)


また、ユダヤ人の伝統によれば、イザヤ書の聖句に関するタルムードの解説 (ペサヒム冊子、第 6 章、68 ページ) に由来しているとのことです。

光は名士たちの創造とともに棚上げされた(棚にしまわれ一時蓄えられた)が、それは将来、終わりの日に義人の前に現れるだろう。(Googleによる翻訳)


ただ、私は「ペサヒム冊子」がどんなものかわからない。

そこで、פְּסָחִים で検索してみたところ、ウィキペディアにPesachimという項目がありました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Pesachim

で、6章については

Chapter 6 continues to discuss the sacrificial arrangement when Passover falls on a Sabbath, and with related issues such as when another animal must be sacrificed together with the paschal lamb, animals used for this sacrifice, and cases in which slaughtering the Passover sacrifice on the Sabbath is forbidden.

という事で、

過ぎ越しの祭りが安息日に当たる場合の取り決め、
過越の子羊と一緒に別の動物をいけにえにささげなければならない場合、このいけにえに使われる動物、
そして安息日に過越のいけにえを屠ることは禁止されているのでそれに関する問題について

 書かれているらしく、

それと七日の光がどういう関係なのか・・・

で、こんどはPesachim Chapter 6 で検索をかけてみました。
するとSefariaというサイトにたどり着き

Sefaria(セファリア)とは、インターネット上におけるオープンソースかつフリーコンテンツの、ユダヤ教文書のデジタルライブラリーだそうで

https://www.sefaria.org/texts

ここでタルムードの項から第6章を選択、68ページが見られました。

で、כאור שבעת הימיםをページ内検索してみると下の画像のような箇所がありました。



フリーコンテンツだという事なので英訳をキャプチャさせていただきました。
タルムードというものはこういうものなのですね。驚きました。
少年時代のイエスさまが律法の教師と議論したあの光景を思い出しました。

ただ、私が求めていた内容ではなかったので

このサイト全体の中で検索してみることにしました。

すると、たくさんの書物がヒットしたのですが

内容からBereshit Rabbahという書物を見ることにしました。Bereshit Rabbah とは西暦500年 ごろのミドラーシュだそうです。

https://www.sefaria.org/Bereshit_Rabbah.3.6


“God called the light, Day” – are “light” and “day” not the same thing? This is bewildering. It is taught: The light that was created during the six days of Creation cannot illuminate by day, because it would make the orb of the sun seem dim [by comparison], nor can it [illuminate] at night, as it was created to illuminate only during the day. Where is it, then? It was stored away, and is designated for the righteous for the future, as it is stated: “The light of the moon will be like the light of the sun and the light of the sun will be sevenfold, like the light of the seven days” (Isaiah 30:26). 
This is bewildering: “Seven [days]”? Are they not three? Is it not so, that the lights were created only on the fourth day? It is, rather, like a person who says: This and that I am preparing for the seven days of the wedding feast. Rabbi Neḥemya said: These are the seven days of mourning for the righteous Methuselah, during which the Holy One blessed be He conferred extra light upon them. 
“God saw the light, that it was good, and God distinguished between the light and the darkness” (Genesis 1:4). 


細かいことを考えるものなんだなあという印象をもちましたが、
たしかに、言われてみればそういう疑問はありますよね。
 “God called the light, Day” – are “light” and “day” not the same thing? 
「神は光を昼と呼んだ」―「光」と「昼」は同じものではないのか?
冒頭のこの一文を読んだときに、まずはこの発想を私は持っていなかったと思いました。
そして次のあたりを読んで「七日(間)の光」の意味するところに気付きました。

The light that was created during the six days of Creation cannot illuminate by day, because it would make the orb of the sun seem dim [by comparison], nor can it [illuminate] at night, as it was created to illuminate only during the day. 
創造の6日間に創造された光は、[比較すると]太陽の球が暗く見えるため、昼間に照らすことはできませんし、また、それが創造されたので、夜に[照らす]こともできません。日中のみ点灯します。

そう、神さまはまず「光」を創造されたと聖書には書かれているわけです。
神さまは光源となる物(太陽や月、星という天体)を造られたのではなく、「光」を創造されたわけです。
だから、太陽や月よりも前から「光」はあるという事になる。(もっと言えばその「光」よりも前に創造主とその言葉が存在しているわけですが)
「神は光を昼と呼んだ」―「光」と「昼」は同じものではないのか?
そう、光がクリエイトされ、光を昼と名付けという順番で
で、「昼」と名付けられたけれどもまだその段階では太陽がない!
太陽が造られたのは創世記1章14節~19節のところ、つまり第四日!
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。第四日である。

 だから上に引用したBereshit Rabbahではこういう話の展開になるわけですよね

Where is it, then? It was stored away, and is designated for the righteous for the future, as it is stated: “The light of the moon will be like the light of the sun and the light of the sun will be sevenfold, like the light of the seven days” (Isaiah 30:26). 
では、どこにあるのでしょうか?それは保管されており、次のように述べられているように、将来義人のために指定されています。
「月の光は日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる。」(イザヤ書 30:26)。 

This is bewildering: “Seven [days]”? Are they not three? Is it not so, that the lights were created only on the fourth day? It is, rather, like a person who says: This and that I am preparing for the seven days of the wedding feast. 
これには当惑しています:「七[日]」?三日ではないの?そうではないですか、光は第四日にしか作られなかったのですか?それはむしろ、「私は婚宴の七日間に向けてあれやこれや準備をしている」と言っている人のようなものです。

Rabbi Neḥemya said: These are the seven days of mourning for the righteous Methuselah, during which the Holy One blessed be He conferred extra light upon them. 
“God saw the light, that it was good, and God distinguished between the light and the darkness” (Genesis 1:4). 
ラビ・ネヘミャはこう言いました。これは正義のメトセラのための七日間の喪であり、その間、聖なる方は祝福されますように。主は彼らに特別な光を与えられました。 
「神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:4)

righteous Methuselah正義のメトセラについては、クリスチャンたちが教会では聞かないストーリーがいろいろあるようだという事をウィキペディアを読んで知りましたがhttps://en.wikipedia.org/wiki/Methuselah

とにかく、創世記の初めの「光」について
そんなふうに読んだことも考えたこともなかった自分の浅さに
あらためて気づかされたのでした。



もちろん、今回ネット検索で与えられたタルムードやミドラーシュの内容が100パーセント正しく、100パーセント依存すべきとは思ってはいません。
ただ、高校生時代の愚かな私が教科書ガイドを丸写しして日本語の古文や漢文の時間を乗り切っていたというような 大脳を通さない=思考しない読み方 はいい加減卒業したいのです。
疑問は自由に持ち、疑問を解決したいと思う心、そして解決のための行動を、
放棄するようなことだけは
もう、したくないのです。

そして、
キリスト教という宗教によって自分は聖書に導かれたけれども
聖書は永遠に変わることの無い古い古い「イスラエルの神さま」の御言葉であり
イエスさまご自身はユダヤ人であるということを
悪い世、悪い時代の中で、忘れずにいたい。




話を戻します。
というわけで、
タルムードやミドラーシュによれば、
イザヤが30章26節の「七日(間)の光」とは、
創世記の初めの「光」のことであり
イザヤ30章26節の預言が成就するときに義人に「与えられる」光
という事になっていて

だとするとそれはおそらく

イザヤ60章1~2節の箇所や

起きよ、光を放て。
あなたの光が臨み、
主の栄光があなたの上にのぼったから。
見よ、暗きは地をおおい、
やみはもろもろの民をおおう。
しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ
主の栄光があなたの上にあらわれる。

また同じくイザヤ書60章19節20節と同義で

昼は、もはや太陽があなたの光とならず、
夜も月が輝いてあなたを照さず、
主はとこしえにあなたの光となり、
あなたの神はあなたの栄えとなられる。
あなたの太陽は再び没せず、
あなたの月はかけることがない。
主がとこしえにあなたの光となり
あなたの悲しみの日が終るからである。



ヨハネの黙示録の21章や22章にあるこの言葉も
「七日(間)の光」と同義であるのかもしれません。

 都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。21:23

 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。22:5

 





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