2019年9月21日土曜日

マタイによる福音書25章(1)「怠惰から臆病へ」 翻訳の違いで気付いたこと


一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイによる福音書25章24~27節(口語訳)



タラントのたとえを読むたびに、

1タラント預かった者は損失を出したわけではなく全額返還できるのに、主人はなぜ「持っていない人」と評価して外の暗い所に追い出すまでの仕打ちをするのか。
1タラントを紛失することもなく保全するのにも労力はゼロではなかったはず。主人はなぜ「悪い怠惰な僕」と評価するのか。

そんな疑問を持ち続けておりました。

しかし、
先日購入することのできた聖書協会共同訳でこの箇所を読み、ある言葉が別の言葉に翻訳されていたのを読み、その瞬間、これまでわからないわからないと思っていたことがするするとほどけていくような気分になりました。

そのある言葉とは、口語訳では「悪い怠惰な僕よ」という言葉。
それが、聖書協会共同訳ではこう訳されていたのです。
「悪い臆病な僕だ」
・・・おくびょうなしもべ?なまけ者じゃないんだ?


「怠け者」ではなく「臆病」だという主人の評価を読んだとき、
そうか、と思いました。
主人は旅に出かける前、3人と個人的にいろいろ話したのではないかと。
そして最後に主人は3人に「私はお前たち3人には特別に期待しているのだ。目をかけて個人的に訓練もしてきたのだからな。大丈夫、お前たちならきっとできるぞ。万一失敗したって大丈夫だ。責任は私が取るから。いいか、お前たちは何も恐れることはないんだ。自分の思った通り、恐れないで精一杯チャレンジしてごらん?」というようなことを言ったのでは?と思ったのです。
もしもそういうやり取りがあったのであれば、1タラント預かった人がなにもせずに1タラントをそのまま差し出したのでは主人は納得できないはずです。たとえ減っていなかったとしても、「そういうことが問題ではない!」と叱りたくなる
…いや、主人は悲しい思いにだったに違いありません。1タラント預かった僕が「わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。」と言うのですから。
特別に選び、かわいがり、期待して大切な財産を任せたのに、「酷な人」呼ばわりか?と。






ところで、このたとえ話は、そもそもどんな話題から語られたたとえ話だったのかといいますと、


また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。
マタイによる福音書25章14節(口語訳)


ここの箇所をBible Hubのサイトでギリシャ語Stephanus Textus Receptus 1550で読んでみると
文頭は「また天国は」とはなっていなくて

Ὥσπερ γὰρ ἄνθρωπος ἀποδημῶν ἐκάλεσεν τοὺς ἰδίους δούλους καὶ παρέδωκεν αὐτοῖς τὰ ὑπάρχοντα αὐτοῦ

Ὥσπερは英語で[It is] like
γὰρ ἄνθρωποςは英語でfor a man
ἀποδημῶνは英語でgoing on a journey
というふうに書いてありますから、その前の10人のおとめのたとえの冒頭にある
Τότε ὁμοιωθήσεται ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν δέκα παρθένοις αἵτινες λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας ἀυτῶν ἐξῆλθον εἰς ἀπάντησιν τοῦ νυμφίου
というみことばの中の
ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν
英語では「the kingdom of heavens」という訳になりますが、
そこを受けてὭσπερは英語で[It is] likeといっているのですね。
で、日本語に訳した時に主語がないとわかりにくいので「また」という並列の接続詞をつけて「天国or天の国or天の御国」は~のようなものであると訳しているのでしょう。
いずれにしてもこのタラントのたとえ話は前段の十人のおとめと同様な事柄について語られているということが分かります。

なぜこのようなくどい言い方をしたのかと言いますと、
ここで語られている天国が日本人が一般的に使っているような、「~さんは亡くなって今は天国にいる」という表現に登場する天国とは意味が違うということを確認しておきたかったからです。
メシアが再臨し世を裁き天の国を確立するという、その天国の話。

しかし、タラントのたとえ話の前にある十人のおとめのたとえ話とともに
救われているはずの信者が最後に天国に行けないような内容となっています。


彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイ25章10~13節(口語訳)


さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
マタイ25章28~30節(口語訳)


いったいどうしたことなのか
少しの間考えてみたいと思います。