2019年9月21日土曜日
マタイによる福音書25章(2)聖書の世界の「財産管理」
また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。
マタイによる福音書25章14~17節(口語訳)
今日は聖書の中で財産という言葉を含む場所を検索してみました。
すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。マタイ21章38節(口語訳)
アブラハムは、全財産をイサクに譲った。
創世記25章5節(新共同訳)
その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。
疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。
申命記21章16、17節(新共同訳)
財産を「もらえる」のは子どもですが、タラントのたとえのように、信頼できるしもべに財産を管理させるというシステムがあったようです。
創世記24章にはアブラハムが財産を管理させている様子が登場します。上で引用したイサクに財産を譲ったのが25章ですからその前の出来事です。
アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。 しもべは彼に言った、「もしその女がわたしについてこの地に来ることを好まない時は、わたしはあなたの子をあなたの出身地に連れ帰るべきでしょうか」。アブラハムは彼に言った、「わたしの子は決して向こうへ連れ帰ってはならない。 天の神、主はわたしを父の家、親族の地から導き出してわたしに語り、わたしに誓って、おまえの子孫にこの地を与えると言われた。主は、み使をあなたの前につかわされるであろう。あなたはあそこからわたしの子に妻をめとらねばならない。けれどもその女があなたについて来ることを好まないなら、あなたはこの誓いを解かれる。ただわたしの子を向こうへ連れ帰ってはならない」。そこでしもべは手を主人アブラハムのももの下に入れ、この事について彼に誓った。
創世記24章1~9節(口語訳)
ルカによる福音書には「不正な管理人」のたとえがあります。
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
ルカによる福音書(新共同訳)
主人は僕に財産を預けて運用を任せたということなのですね。
そういうふうに考えると
1タラントの預かった人は増やすように努力するのは当然の仕事ですから、穴を掘って埋めたなんて、怒られて当然だったようです。
で、少額をうまく増やせた人は主人から信頼を得て大きな額を任せてもらえるようになる、そういう話だったわけですね。
それにしても、
1タラント預かった者は損失を出したわけではなく全額返還できるのに、主人はなぜ「持っていない人」と評価して外の暗い所に追い出すまでの仕打ちをするのでしょうか。
かつて教会や集会で教わったのは、「タラントは才能のことで、その才能をつかって主のために働くこと、つまり、教会や集会で奉仕したり家族や親族友人知人を教会や集会に誘ったりして伝道することこそがタラントを活用して増やすことである」ということでした。
しかしもしそうであるならば教会も集会もやめてしまった今の自分にはそんなことはできないわけです。
もっとも、それでもどうにかして主のために働かなければいけないという強迫観念のようなものがあったのでこのブログもはじめたわけですが、
タラントのたとえとは本当にそういう教えなのでしょうか。