昔教会の先生に「異端って何ですか」と尋ねた時にその先生はこうおっしゃいました。
「簡単に言うとね、聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本というのを持っていて、その本の方が聖書より上だと信じている人たちってことかなあ。
クリスチャンはね、聖書は神さまの言葉であって最も権威があると信じているんだよ。」
しかしよくよく考えてみると、クリスチャンが異端と呼んでいる方ではなくとも、クリスチャンは全員が全員そういうことをやっているわけです。聖書は読むには読んでいるのかもしれないんだけど、権威ある別の本を全員が持っている。
以前、「不正な管理人」の例えの解釈についていろいろ考えた挙句、よくわからないのでネット検索をしていくつかの記事を読ませていただいたことがありました。
すると、それが見事なまでにバラバラな解釈で、しかし、不思議なくらいどの方も自信満々、断定的に述べていらっしゃる。たぶん、それぞれの方が、それぞれ所属している教会で「先生からそう教わったので」それが正しいと信じておられ、自信をもって書かれたのでしょう。
大学生のころ「聖書研究部」という超教派のサークルに所属していたときに、若気の至りという部分もありましょうが教派教団による考え方の違いが原因で、ときどき論争、悪く言えばケンカのようなことが起こりました。
弁の立つ学生がいて、自分の教会の正統性を聖書を示して主張するわけです。
まあ、私などは当時は洗礼を受けたか受けないかというあたりだったので黙ってやり取りを聞いているしかなかったわけですが、
しかし、論争の終着点はいつも同じ。権威ある有名な先生の説であるか否か、というところでした。
本当は論争でもなんでもない。右から左に流してるだけ。ご自分がみことばを読んで異議を唱えているわけではなく、通り良き管として(笑)聞きかじった知識を流し出しているだけ。他人の権威を着てケンカをしているだけのことなのです。問題意識なんてありゃしない。そして本当は教義の問題でもない。自分のよりどころとしている派こそが正しいと言いたい思いたいだけ。自己肯定のために。
統計を取ったわけでもないのに断定的に語りますが、教会に所属しておられるほとんどのクリスチャンは教義を理由に教会を選んで通い始めたわけではありません。
もちろんごくたまに、教派や教団について考え、積極的な理由をもって教派を選んで転籍したりする私のような人間もいるにはいますけれども、
たいていの場合は、なんとな~くそこに居ついた?はずです。親が~とか友だちが~とか近所で~とかイベントが~とかそういう理由。
で、求めていたことがそこにあって、それは教えという点だけでなく居心地の良さであったりするわけですが、そうやって教会に居続けることになるわけです。
しかしある時、別の教会の教義や文化を当然のことのように語るクリスチャンに出会ったとき、それまで考えてもいなかった自分の教会の正統性というものを自分自身の存在の肯定と同一のもののように思えて戦いたくなるんでしょうね、特に男性は。
本当は聖書にも教派にもそれほど詳しくないのに、
そう、だからこそそこで登場するのです、聖書ではない別の本が。
別の本とは、所属教会で教わった信仰のイロハと根拠となるみことば、そしてその解釈がまとめられているであろう手引きのことですが、
それだけをたよりに空っぽの論争をする様子を眺めていたむなしい青春時代を思い出します。
さて、クリスチャンのほとんど全員が持っている有形無形の権威ある別の本は、第一章にあるであろう「神」という項目以外、多くの部分が新約聖書にあるパウロやお弟子さんたちの言葉に基づいて作られています。
パウロが熱心に述べ伝えた結果の実がキリスト教会なのですからそれは当然のことでしょうし、異邦人にとって聖書の神さまはわかりませんから、パウロ先生やお弟子さんたちの言葉に一生懸命耳を傾けるのは当たり前です。
しかし、これがズレの原因なのではなかろうか、と近年は思っております。
パウロは一生懸命語り一生懸命書いたのですが、旧約聖書と呼ばれる部分をほとんどよくわからない異邦人にとって、パウロの言葉は非常に難解です。
だから教会は、
ほぼほぼ旧約聖書の注解書みたいなものであったパウロの言葉だったにもかかわらず、そのパウロの言葉を解釈するための注解書、つまりは注解書の注解書を作る必要が出てきたわけです。(;´Д`A ```
パウロが生きていた頃ならば、本人に真意について確認を取ることも出来たのかもしれませんが、今パウロはいません。
しかも、そもそもパウロの書簡の原本というものは現存しておらず写本が残っているだけだというのですから・・・絶対何かしらの間違いはあります。(ないと信じている方は多いと思いますけれど・・・人間がやることは人間だからこそ間違いが無くはないと思っています。無ければいいのですが・・・)
それに、生きる時代によって物の見方や考え方は大いに変化しますから、人の集合体であるキリスト教会もその時代の影響というものを少なからず受けると思うのですね。
それゆえのズレ、というか、そういうことからいろいろな解釈の違いが出たり、極端な場合には教派となっていく。
また、そして教派とまではいかぬまでも、ときどき小さなさざ波が起こり、
初めはさざ波でも同じ時代を生きる者の共感は得やすいので小さなさざ波はやがてうねりとなったりすることが少なからずあると思うのですね。
そのさざ波やうねりが良いのか悪いのかということについては注意ぶかく聖書を読むしかないのですが、「著名な誰々先生がこの説を支持しておられる」という一言で正しいか否か考えることすらやめてしまう。
著名な誰々先生という言葉が偶像となっているということにも気付かずにーーー。
たとえ多くの人々が支持する教えであっても、よく考えず他人の判断に身をまかせることはとても危険だ、と私は思います。
主がなんどもなんども「目をさましていなさい」とおっしゃったのは、
私たちが個人的または時代的な何らかの岐路に立たされた時、
権威ある指導者から道が示され、しかも大多数の信者がそれに付き従っているというようなときに、
自分の判断を停止した状態でついていきたい衝動に駆られるかもしれないが、
そんなときであっても「考えること」はやめるなよ、ということだったのではないかと思っています。
人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。マタイによる福音書24章26節(口語訳)
この間「聖」という言葉の意味が「分離する」とか「切り離す」というのが 原意であったと書きましたが、熱狂が起こっている時こそ、踊らされることなくそこから身を引き、しずかにしずかに、心を静まらせてかすかな細い声に聞こうとすること、
聖とは徹底してそういうものであるのではないか
そして神さまは私たちにはそうあってほしいと願っておられるのではないかと
私は思っています。