2019年9月21日土曜日

マタイによる福音書25章(5)十人のおとめに生じた「差」


そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
マタイによる福音書25章1~13節(口語訳)


クリスチャンはキリストの十字架によって罪が赦された=義としていただいた者であるはずなのに、なぜ『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。



「十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。」

花婿を待ちわび、迎えに行く者は信者でしょう?
なぜ、主人は『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言われたのでしょうか。ただ、そういうことを考える前に気付くべきことはこの十人は「花嫁」ではないということです。
再臨のキリストが花婿で教会(信徒)が花嫁であると教会や集会に通っていた頃に習いましたが、このたとえ話に登場する十人は花嫁ではありません。
信者が花嫁であるというのならこの人たちは信者ではないということになります。


行って、エルサレムに住む者の耳に告げよ、主はこう言われる、
わたしはあなたの若い時の純情、
花嫁の時の愛、
荒野なる、種まかぬ地で
わたしに従ったことを覚えている。
エレミヤ書2章2節(口語訳)

若い者が処女をめとるように
あなたの子らはあなたをめとり、
花婿が花嫁を喜ぶように
あなたの神はあなたを喜ばれる。
イザヤ書62章5節(口語訳)

ヨハネの弟子とパリサイ人とは、断食をしていた。そこで人々がきて、イエスに言った、「ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。
マルコによる福音書2章18~20節(口語訳)




ただ、とにかく十人のおとめのうち半数は思慮が浅く、半数は思慮深い者、いや、割合で言わない方が良いでしょうか、五人は思慮が浅く五人は思慮深い者だった。
口語訳は思慮が浅い深いという表現をしていますが、新共同訳では文語の聖書と同じように愚か賢いと翻訳されています。



「思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。」

十人全員「あかり」は持っていたのです。なのでおそらくは初めのころには全員が明るく点灯させていたのではないでしょうか。
しかし、補充用の油を持っている人と持っていない人がいて、イエスさまは持っている人の方を思慮深い者と呼び持っていない人の方を思慮の浅い者と呼ばれた、と。




「花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。」

思慮が深いおとめも浅いおとめも寝ています。
とりあえず寝るのは全員だということが分かります。花婿の到着が遅れに遅れて夜中だったのですから寝るなというのは可愛そうな気がしますが、
呼ぶ声がしたので彼女らは全員起きてあかりを整えた。ところが、


「ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。」


このやり取りで分かるのは、この「油」については、たとえ不足していて困ってる人がいたとしても融通してあげることができない、ということです。でも、店には売っているようです。



「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。」

思慮深いおとめ五人は花婿を迎え一緒に楽しそうな婚宴の部屋へ。そして部屋のドアが閉められます。
油を買いに行っていた思慮深くない五人は時間切れでアウト。しめだされてしまいました。


「そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」


開けてくださいと頼んでも、主人からは「あなたがたを知らない」と言われてしまいました。
そしてイエスさまはこうおっしゃるわけです。「目をさましていなさい。」
注意すべきことは、
イエスさまは「目をさましていなさい」と言われたということです。
油を買っておきなさいではないのですね。
十人全部が寝ていましたし、思慮深いおとめと思慮の深くないおとめの差は「予備の油」だけだった気がするのですが、目をさましていなさいとはどういう意味なんでしょうか。