自分の前に神を置くということ、そして、神さまご自身が私たちの前に置かれたもの

新共同訳で詩編54編を読んでいて5節が気になりました。

異邦の者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者がわたしの命をねらっています。
彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
詩編54編5節


「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」

創造主である神さまを「置く」という表現に、ちょっと違和感を感じつつも、置くということがどういう意味であるのかしばらく思いを巡らしておりました。


「置く」という日本語は、人間が何かを自分の手で持ち、テーブルだの棚だの自分の望むところに持っていき固定するとか、役職等に人員を配置するというような意味ですよね。

だから、異邦の暴虐な者たちが「自分の前に神を置こうとしない」というのはどういうことなのか、と言うと、
まずはポジション(位置)の問題として「自分の前」ではないということ。
では、「自分の前」とはどこでしょう。英語の翻訳を併せて考えると
(Bible hubでヘブライ語聖書も見たのですがよく分からなったので英語を参考にしました)
これはbeforeであり、 in front ofなので、「not far from 自分」であることが分かります。自分のすぐ前。はっきり見えるポジション。拡声器を使わずに対話できる位置。


「 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」

そして、ここにはポジションの問題のほかに、置こうとするのかしないのかという「意志」という問題があるわけです。
「置こうとしない」という日本語訳に忠実にそのニュアンスをとらえようとするなら、過去、現在、という時の流れの中でいくらでも置くチャンスはあるにもかかわらず、「置く」という行為を選択しようとしない「彼ら」がいる。この詩編の作者であるダビデ、自分の前に神を置こうとし神を置くダビデには理解できない「異邦の暴虐な者たち」がいるのです。


ただ、なぜ私が「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。」と語るダビデの言葉に思いを巡らしているのかと言うと、自分の前に神を置こうとしないのは「異邦の暴虐な者たち」だけのこととして読み済ませてよいのか、と思ったからです。
本当に私たちは、
「神を信じていると公言している」私たちは、
神さまを自分の前に置いているだろうか、と思うのです。
日々の歩みにおいて、祈りにおいて、様々な場面において私たちのすぐ前に神さまを置いているでしょうか。

 
 
 

 


神よ、傲慢な者がわたしに逆らって立ち
暴虐な者の一党がわたしの命を求めています。
彼らはあなたを自分たちの前に置いていません。
詩編86編14節
今日の「自分の前に神を置く」という言葉は、新共同訳聖書の詩編86編14節のところからの引用です。

詩編54編のところで登場した「自分の前に神を置く」という言葉をまた詩編86編14節のところで読みました。
二つの詩が全く別のものなのか、そうではないのかはわかりませんが、両方ともダビデの詩と書いてありますので、とにかくダビデは、「傲慢な者や暴虐な者は神さまを自分たちの前に置かない」と言っている。
そんなことを考えながら最近詩編91編を読んでおりましたところ、「自分の前に神を置く」という言葉のイメージが少し膨らんだような気がしました。

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ
全能の神の陰に宿る人よ
主に申し上げよ
「わたしの避けどころ、砦
わたしの神、依り頼む方」と。
神はあなたを救い出してくださる仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。
神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。
詩編91編1~4節

1節「 隠れ」「陰に宿る」

自分の前に神を置いている人は、自分の前の神さまに身を寄せて隠れ、神さまの陰にとどまっている人です。

4節「覆い」「翼の下にかばう」「盾」

神さまを前に置いている人を神さまは覆い、翼の下にかばってくださり盾になることがおできになる。
 
 
 
導く雲は先を行き、羊飼いも羊の前を行くのです。
わたしは在るという方が私たちの前にあり、
私たちが迷わぬように導き、私たちを守ってくださる。
 
ですから私たちは決して神の先を歩いていかない。
私たちは神さまを前に置き、神さまの後について行くのです。
 
 

 
新共同訳から95編の10、11節を引用します。
四十年の間、わたしはその世代をいとい
心の迷う民と呼んだ。
彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
わたしは怒り、
彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。
(新共同訳)

次に新改訳から同じ箇所を引用します。

わたしは四十年の間、
その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。
彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。
「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。
(新改訳)



私は長い間新改訳聖書だけで読んでおりました。で、新改訳だけで「読み流して」いたので「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」というニュアンスを読み取ることができずにおりました。新共同訳と新改訳を読み比べてみると、言わんとしていることは間違いなく一緒なのですが、「道」を「知ろうとしないから」知らないという、人間の意志によって行うか行わないかという問題の存在については新共同訳の方がわかりやすいかな、と思います。

「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」という御言葉を読んで思い出したのは、詩編37編23節の御言葉です。
これもまずは新共同訳聖書から引用してみます。

主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。
(新共同訳)
次に同じ箇所を新改訳から引用します。

人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
(新改訳)
一歩一歩を定めるのも確かにされるのもニュアンスとしては同じ感じもしますし、道を備えてくださるのも道を喜ばれるのもざっくり言えば同じ方の同じ行為と言えなくはないのですが、「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」とおっしゃる神さまに「いかにしたら彼らは(私たちは)道を知ることができたのですか?」と尋ねた場合、新共同訳の詩編37編が回答となっているような気がするのですね。神さまこそが道を備えてくださるお方、しかも神さまは42.195キロの道を作られて「はいどうぞ」と与えるお方ではなく「一歩一歩」私たちの歩むべきことを定めるとおっしゃってくださる。
神さまは私の前を行ってくださり私たちは神さまの後にいるのですから、当然神さまの定められたように歩むしかないのであります。「歩むしかない」というと、非常に消極的かつイヤイヤな感じに聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、「限定される」という意味での「しか」です。
とすればその一歩一歩は、つまり毎日毎日の一瞬一瞬、次々と突き当たる良いことも悪いこともすべての物事は神さまの与えてくださった私たちの歩むべき一歩であると理解出来ます。
だとすれば、自分の前に神さまを置く人に起こる出来事はどんなことであれ、あやしんだりおそれたりする必要はないのです。この一歩こそが御旨、神さまが私にそしてあなたに与えてくださった一歩であり、その先は私たちにとっての最良なもの、安息であり、憩いの地であるからです。

上で私は、

「導く雲は先を行き、羊飼いも羊の前を行くのです。
わたしは在るという方が私たちの前にあり、
私たちが迷わぬように導き、私たちを守ってくださる。」
と書きましたが、

イエスさまがヨハネによる福音書14章6節で「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(新共同訳)」と語られたことを思うと、わたしは在るという方は単純に私たちの前を行ってくださるわけではないような気がします。
私たちが自分の前に神さまを置くとき、私たちの意識としては先を行く導く雲であり羊飼いであるかもしれませんが、一歩一歩私たちは先を行かれる主に負われさらには主を踏んで、その結果至ることのできる場所に至る、そんな気がします。
困難に直面した時、私たちはたった一人先頭に立って困難にぶつかっていくのではないのです。神さまを信じる者=神さまを自分の前に置く者 は前を行かれる主が私たちを背負い主ご自身が私たちをかばって真っ先にぶつかり、ご自身の犠牲をもって私たちを次に行かせてくださる・・・私たちの日々は、一歩一歩とは、御旨にかなう道とは、安息に至る道とは、そういうものなのだと思います。




 


申命記を読んでいて、神さまご自身が私たちの前に置かれたものがあることに気付きました。
わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
申命記30章1~3節(新共同訳)
見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
申命記30章16~20節(新共同訳)


神さまは私たちの前に、自由に選んで取ることのできる二つの選択肢を置いてくださったのです。

「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い」
「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」
「生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。」


それを踏まえるならば、もしかすると
ダビデの語った「自分の前に神を置く」という表現は、
神さまが置かれた二つのものから、呪いを排除して「祝福、命、幸い」を選び取ったということなのでしょうか。
 

結局、聖書における「祝福」とは新約旧約どの場面においても、
人が罪を犯す前のエデンの園、エデンの園にいたころの日々であり
呪いとは、そこから追放されたことによってもたらされたもの。
で、神さまがくださったチャンスをしっかりものにして!?神さまとの交わりを回復すること=エデンの園の頃のような祝福
ということなのでしょう。

御子の十字架によって完全な交わりの回復がもたらされた今、
命の木の実をいただくことができるまでに!