聖書協会共同訳聖書を読み始めてからハッとさせられることばかりなのですが、
今朝は詩編127編1,2節を読んでいて特に2節を読んだとき、少々驚いたような心持になりまして、思わずこの文章を書き始めてしまいました。
私が持っている4つの聖書からそれぞれ1節と2節の本文部分を書き出し、それぞれの聖書から自分はどう読んでいたのかということをお話します。
口語訳聖書
主が家を建てられるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、
守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。
主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。
口語訳聖書では、
人が家を建てる場合に
主ご自身がそういうご意志を持っておられ、人がそのご意志に従うということにより建てるということでなければ、建設にかかわる人の勤労はむなしい=意味がない
というのです。
また、主ご自身が町を守ろうと考えられて、人がそのご意志に従って守るのでなければ
夜の間ずっと起きていて町を守るというのはむなしい=意味がない
というのです。で、夜の間中起きているというような話題を受けて、でしょうか、早起きしたり遅く寝たり、という話が登場します。そして、辛苦のかてを食べるという言葉が並列されているので、早起きや遅く寝ることになるようなイレギュラーなことを好んでもいないのに強いられるということを辛苦のかてと表現しているのか、
もしくは早起きや夜遅く寝るということのような不快なこととともに辛苦のかてを食べると表現するようなつらく苦しい仕事を、
神さまの御心でもないのに、もしくは、神さまと関わりを持つこともなく行うなどということは、むなしい=意味のないことだ、と聞こえるのです。
で、問題はその次です。
「主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。」というのですが、
「からである」という表現ですから、何かに対しての理由や説明を述べているわけですね。
じゃあどこと関連があるのかと言えば、「眠っている時にも与えられる」と言っていることから、「守る者のさめている」あたりからの一連の睡眠不足におちいってまでの苦しい労働に関わる話であるということが推測できます。
しかしここで「主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてならぬものを与えられるからである。」と言われてしまうと、この文にはその前の文をすべて吹き飛ばすほどの破壊力があり、
新改訳聖書
主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。
あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、
辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。
主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。
新改訳聖書でも、口語訳と同じように「主が家を建てる」という主ご自身の御心に沿った労働でなければ「むなしい」といいます。
ただ次の「町を守る」ことについて、口語訳聖書では夜の間中起きているということにむなしさの中心がありましたが、こちらでは起きているというよりも「見張る」という労働行為にむなしさの中心を置いています。もちろん、見張りは夜回りのことでしょうから次の「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも」という言葉につながっていくのだとは思います。
口語訳聖書と大きく異なるのは「あなたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、」という具合に「~のも」という言葉で事柄を並べているところです。
その言葉と語感のゆえに口語訳聖書よりも「むなしい」ことをシリーズとして並べている印象を受けます。ただ、「~のも」という言葉のせいで決定的に違う印象を与えているのが「辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。」という言葉です。口語訳聖書では「辛苦のかて」が睡眠不足と関連するのかしないのかはっきりしませんでしたが、新改訳聖書の「~のも」という表現により「早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、」ということになり、辛苦の糧は睡眠不足とは別の話だ、ということが分かります。
で、新改訳聖書でも問題はその次のみことばにあります。
「主はその愛する者には、眠っている間に、
このように備えてくださる。」というのですが、まずは「このように」ということばどのようになのかがわからない。
ソロモンが書いているということが分かっていますので、ソロモンが「このように」といっているとすれば、神さまがソロモンにしてくださったように、ということでしょうか。
そしてもう一つの問題はとても大きな問題で、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」というみことばはいったい何が言いたいのかがわからないのです。
もちろん意味は分かります。が、なぜそんなことをこの場所で唐突に言うのかがわからない。口語訳聖書の場合は「からである」という言葉で無理はあっても上の文とくっついており、関係がありましたが。
ただ、しかし、ここでも口語訳聖書と同じようにこの一文が前段のすべてを吹き飛ばしてしまうのです。
そのため、新改訳聖書を読んでいた20年くらいの間、この箇所をこんなふうに読んでいたのです。
「神さまに愛されてない人関わりを持っていない人のやることはみんなむなしいよね。みんな必死にやるけどさ、そんなことしなくたって神さまはみんなやってくださるのにね」
新共同訳聖書
主ご自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい。
主ご自身が守ってくださるのでなければ町を守る人が目覚めているのもむなしい。
朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか
主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。
新改訳聖書だけを読むという生活を20年くらいした後で新共同訳聖書を読むようになったため「町を守る人が目覚めている」という細かい描写に、見張りが夜の見張りであるということをはっきり理解したのでした。しかし、それはそうと口語訳と新改訳でごちゃついていた「睡眠不足と辛苦の糧問題!?」について、新共同訳聖書は私に驚くような言葉で語って聞かせるのでありました。これは衝撃的でした。
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか」
「辛苦の糧を食べる」だとずっと思っていたところが「焦慮してパンを食べる人よ」という呼びかけになっていて本当に驚きました。焦慮という言葉を辞書で調べると「あせっていら立つ」ということらしいのですが、
「睡眠不足でつらく苦しいけれども辛抱していた」ことがむなしい=意味がない のではなく「超絶忙しくてバタバタしててムカついた~!」なんてむなしいよね、とソロモンに言われているようなそんな感覚になり・・・。
しかも、です。
口語訳新改訳と、眠っている間に何かしらを神さまが備えてくれていたはずだったのですが、主が与えてくださっていたのは「眠り」だったという!
これには本当にぶっ飛びました。
ただ、わからなかったのです。なぜここでいきなり眠りが与えられるという話になるのか。
なので、口語訳と新改訳聖書のみことばと、他の詩編の箇所も踏まえ、
神さまに愛され神さまを信じている人には「主に愛され主を信じる者には眠っている間も主ご自身が働いてくださりあふれるばかりの祝福を与えてくださるので私たちには眠りという平安な休息が与えられる」
のだろうと思うことにしておりました。
そんな中出会った新しい聖書・・・
聖書協会共同訳聖書
もし、主が家を建てるのでなければ
それを建てる人々は空しく労苦することになる。
もし、主が町を守るのでなければ
守る人は空しく見張ることになる。
空しいことだ
朝早く起き、夜遅く休み
苦労してパンを食べる人々よ。
主は愛する者には眠りをお与えになるのだから。
この聖書協会共同訳聖書を読んで、あっと思ったのはここの箇所以降です。
「空しいことだ
朝早く起き、夜遅く休み
苦労してパンを食べる人々よ。」
「空しいことだ」ということばが先に来ることによって
新共同訳の
「朝早く起き、夜おそく休み
焦慮してパンを食べる人よ
それは、むなしいことではないか」
ソロモンが「それは、むなしいことではないか」と言った「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる人々」と「愛する者」とが比較されくっきりと対照的であることを教えられたのです。
それゆえ次の瞬間、主の与えてくださる「眠り」というものが、ただの眠りではなく、
主の愛する者であるイスラエルに対する安息
「安息日」について書かれた十戒を想起させてくれたのです。
十戒(律法)は「縛り」ではなく「恵み」であるのだ!ということを。
「主は愛する者には眠りをお与えになる」のです。
眠りは主が選び愛される者たちに与えられた特権。
眠りという安息は主が選び愛される者たちに与えられた特権。
律法は縛りではなく特権!
そこからさかのぼって1節に戻り読んでみました。
そう、愛する者に、愛するイスラエルには、主が建ててくださるのです。
愛する者を、愛するイスラエルを主はお守りになる。
主は主の愛する者たちに主は主を愛する者たちに一方的な恵みの契約を与えてくださり
神さまの契約の民は約束の祝福を受けることができる。
まあ、どの聖書を読んでいても大筋では同じかもしれませんが、
かゆくて仕方のないところに指の先がちょっとだけ届いた「ような気がする」というのは
かゆくて仕方のない私にとっては、とてつもない喜びなのです(笑)