いのちのことば社1985年9月20日発行新聖書辞典で「聖」という言葉を調べてみました。
聖とは
まずバビロニア語のquddushu「明るい、輝かしい」が語源であるという説が書いてあって、しかし、有力ではないということらしく
ただ、1985年の辞書なのでちょっと古すぎる感じもしたためとりあえずquddushuというつづりで検索したところ、こんな辞書に出くわしました。
קָדוֹשׁ adj. 1 holy, sacred. 2 saint, saintly. MH 3 martyr. [From קדשׁ. Related to Phoen. קדש, Aram.–Syr. (also BAram.) קַדִּישׁ, Arab. qaddīs, qiddūs (= holy, sacred), Akka. quddushu (= shining, pure).]
https://www.sefaria.org/Klein_Dictionary%2C_%D7%A7%D7%93%D7%93_%E1%B4%B5.1?lang=bi&with=all&lang2=en
しかし、1985年の聖書辞典だけでなく日本の諸教会では聖という言葉について検索すると「分離する」とか「切り離す」というのが 原意とする説を取っておられるようなので
そういうふうに覚えようと思いました。
辞典には
すべての冒涜的事象や行為から分離され切り離されて
神との関係を持つという意味で用いられている
とあり、
また、旧約聖書における「聖」について書かれた項には
どのような事物も人格的存在もそれ自体は聖ではないが、それが神との関係におかれるときに聖なるものとされる。
ただし、神の霊性は恒常的かつ永遠であるが、神以外の事物や人格的存在の聖性は極めて不安定なものであって、神との関係に置かれている時だけのものであるということを忘れてはならない。
と書いてありました。
新約における「聖」については
聖ではあり得ない罪人が神の愛によりキリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるものとして受け入れられるということが述べられている。
とありました。
新共同訳聖書の詩編2編と3編に登場した「聖なる山」という言葉が気になって「聖」という言葉にこだわって調べてきましたが、
こだわって調べて理解できたことは、
私がこれまでに思い描いていたよりも「聖」という概念は重要であるようだ、ということです。
前回の調べ学習で書いた通り
קֹ֫דֶשׁ (qodesh) という言葉とその派生語は464カ所に登場します。
https://biblehub.com/hebrew/strongs_6944.htm
前回は出エジプト記とレビ記の数を数え、そのあと疲れてやめましたが
疲れが回復した本日(笑)民数記以降を数えてみましたところ
民数記 55カ所
3:28
3:31
3:32
3:47
3:50
4:4 2カ所
4:12
4:15 2カ所
4:15
4:16
4:19 2カ所
4:20
5:9
5:10
6:20
7:9
7:13
7:19
7:25
7:31
7:37
7:43
7:49
7:55
7:61
7:67
7:73
7:79
7:85
7:86
8:19
18:3
18:5
18:9 4カ所
18:10 3カ所
18:16
18:17
18:19
28:7
28:18
28:25
28:26
29:1
29:7
29:12
31:6
35:25
ヨシュア記 2カ所
5:15
6:19
サムエル上 3カ所
21:5
21:6
21:7
列王記上 12カ所
6:16 2カ所
7:50 2カ所
7:51
8:4
8:6 2カ所
8:8
8:10
15:15 2カ所
列王記下 3カ所
12:4
12:18 2カ所
歴代誌上 17カ所
6:49 2カ所
9:29
16:10
16:29
16:35
22:19
23:13 2カ所
23:28
23:32
24:5
26:20
26:26
28:12
29:3
29:16
歴代誌下 27カ所
3:8 2カ所
3:10 2カ所
4:22 2カ所
5:1
5:5
5:7 2カ所
5:11
8:11
15:18
20:21
23:6
24:7
29:5
29:7
30:19
30:27
31:6
31:12
31:14
31:18
35:3
35:5
35:13
エズラ記 6カ所
2:63 2カ所
8:28 2カ所
9:2
9:8
ネヘミヤ記 7カ所
7:65 2カ所
9:14
10:31
10:33
11:1
11:18
詩編 たくさん!
2:6
3:4
略
というわけで、数え間違いがあるかもしれませんが
しかしはっきりしていることはモーセ五書にたくさん!たくさん!登場しているということです。
まあ、それは当然と言えば当然です。辞典にある通り「神との関係におかれるときに聖なるものとされる」のですが、神さまとのかかわりは律法を守ることによるのだからです。
ところで、今日も詩編4編をあさいちで読んだのですが、קֹ֫דֶשׁ (qodesh) ではないけれども「分ける」という意味の פָלָה (palah)という言葉がありました。
主の慈しみに生きる人を主は見分けて
呼び求める声を聞いてくださると知れ。
おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り
そして沈黙に入れ。〔セラ
詩編4編4、5節(新共同訳)
פָלָה (palah)はほかに
出エジプト記の中でこんなふうに使われています。
(以下口語訳聖書から引用)
8:22
その日わたしは、わたしの民の住むゴセンの地を区別して、そこにあぶの群れを入れないであろう。
9:4
しかし、主はイスラエルの家畜と、エジプトの家畜を区別され、
11:7
しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。
そう言えば、少し前にこだわっていた「マタイによる福音書25章」にこんな箇所がありました。
25:32
そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
これは ἀφορίζω aphorizó という言葉が元になっているギリシャ語で
使徒行伝13章2節にも使われているのですが
一同が主に礼拝をささげ、断食をしていると、聖霊が「さあ、バルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた仕事に当らせなさい」と告げた。
聖別するという意味でも用いられてます。
使徒行伝ではほかに19章9節に使われていて
ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。
またローマ人への手紙1章1節
キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから――
さらにはコリント人への第二の手紙6章17節でも使われているのですが、
だから、「彼らの間から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触てはならない。
これはイザヤ書52章11節からの引用なので
去れよ、去れよ、そこを出て、
汚れた物にさわるな。
その中を出よ、主の器をになう者よ、
おのれを清く保て。
ヘブライ語の סוּר (sur)に ギリシャ語の ἀφορίζω をあてたものなのかもしれません。
ただ、ヘブライ語の סוּר (sur)が使われている箇所をあたってみたのですが、ほとんどが単純に「取り除く」とか「離れる」という意味のみことばだったので、特に「聖」というニュアンスはないのかもしれません。ギリシャ語として直訳したというような感じなのでしょうか。
あちこち行ってしまいましたが、
しかし、神さまは聖なる方であり、
レビ記19章2節において語られている通り
「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。
イスラエルもそうですけれどもクリスチャンも意志をもって罪から離れ、悪から分離していかねばならないのだと思います。
新聖書辞典の著者が語るように、「聖ではあり得ない罪人が神の愛によりキリストの贖いによって救われ、聖霊の働きにより聖なるものとして受け入れられる」にはちがいありませんが、だから何も考えなくてもどうにかなるということではないと思うのです。
聖という言葉が新聖書辞典の著者が語るように「すべての冒涜的事象や行為から分離され切り離されて神との関係を持つ」
ということであれば、
私たちは異邦人であることを理由に、
そして、現代は旧約時代とは異なりイエスさまの血潮があるから最終的に悔い改めればいいので何をやってもOKだというような
・・・ある面それは真実ではあるのですが、
しかしほんとうにそれを前面に押し出していれば?よいのでしょうか。
まあ、基本的にクリスチャンは「感じの良い人?」が多いですから、いいのかもしれませんけれど・・・
でも、
やろうと思い努力はしたが結果としてできなかったというのと
やる気は毛頭なく、結果、当然のこととしてできなかったというのは
結果においては同じでも・・・違うような気がするのは私だけでしょうか。
あ、律法について言っております。
本当に異邦人クリスチャンは律法を無視していてよいのでしょうか。
あ、教会によっては道徳律法だけは無視しないということは知識として知っておりますが・・・
ペテロ第一の手紙1章14~17節にはこうあります。
従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。 あなたがたは、人をそれぞれのしわざに応じて、公平にさばくかたを、父と呼んでいるからには、地上に宿っている間を、おそれの心をもって過ごすべきである。
ペテロはレビ記19章2節を引用しているのです。
なぜペテロがレビ記を引用するのか
ペテロは何を考えながらこの手紙を書いていたのか
・・・心におきつつ新約聖書を読もうと思います。