主はわたしの岩、砦、逃れ場聖書に登場する「岩」という語句について今日は調べてみることにしました。
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
詩編18編3節
引用聖句は新共同訳聖書です。
まず、ダビデが語るような「神こそが岩」という表現がどこから始まっているのかという観点をもっていつものように語句検索をしてみると、申命記32章(モーセの歌)にこういうみことばがありました。
主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。
申命記32章4節
このみことばで使われている「岩」はヘブライ語で
צוּר tsur
この言葉は出エジプト記17章に登場するホレブの「岩」に使われている言葉と一緒です。
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
出エジプト記17章6節
詩編18編の
「主はわたしの岩」に使われているヘブライ語は
סֶלַע sela
ですが、民数記20章8節の「岩」もこのselaという言葉が使われていたので
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
民数記20章8節の「岩」と、出エジプト記17章6節の「岩」は同じ話の中での岩ですから、ほぼ同じ意味と考えていいのかなあと思いましたが、
詩編18編の「わたしの神、大岩、避けどころ」の「大岩」という言葉に使われているのは
צוּר tsur
で、日本語の聖書の訳語から違いを見ると岩と大岩なので大きさの違いなのかしら、と思うわけですが、
סֶלַע selaの方は
Strong's Concordanceで見てみると
a crag(ごつごつの岩,険しい岩山), cliff(崖)
NAS Exhaustive Concordanceで見ると
NASBでの訳語としてはcliff (4), cliffs (4), crag (2), crags (3), mountain* (1), Rock (1), rock (39), rocks (4), rocky (1), Sela (1)だと書いてありました。
で、Strong's Exhaustive Concordanceによると
ragged rock, stony, strong holdとあり、
raggedとか言うと、なんとなくボロボロな感じがしてしまいますけれども(私個人のイメージでしょうか)
ボロボロなのではなく「ごつごつの,でこぼこの,ぎざぎざの」という意味のようです。
stonyは石が多い?そしてstrong holdは「要塞」という意味だそうです。
צוּר tsurの方は
Strong's Concordanceで見てみるとrock(岩), cliff(崖)で、
NAS Exhaustive Concordanceで見ると
NASBでの訳語としてはRock (10), rock (54), rocks (7), rocky (1), stones (1), strength (1)だと書いてありました。
Strong's Exhaustive Concordanceには
edge, mighty God one, rock, sharp, stone, strength, strongとあり
edgeやsharpは鋭い?イメージがあるということなのでしょうか
そしてmighty God は力強い神さま、strength, strongという訳も力強そうです。
そういう意味とともにrockとstoneが出ている・・・。
ちなみに、聖書協会共同訳聖書でも新共同訳と同じように「岩」「大岩」と訳されています。
運動が苦手で体幹のしっかりしていない私の個人的な興味としては
詩編40編3節にあるような「岩」の場合、どんな単語が使われているのかということがありましたので調べてみましたが
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ
しっかりと歩ませ
詩編40編3節
ここにある「岩」という言葉にはסֶלַע selaが使われていました。
さて、
神さまが岩であると語っているのはダビデだけのことではなく
イザヤ書26章4節にも
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。ハバクク書1章12節でも
岩なる神よ、とあります。
イザヤ書ではほかに
恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせとあり、主ご自身がご自身を「岩」と表現しておられる箇所もあります。
告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない。
イザヤ書44章8節
ただ、間違ってはいけないのは、「岩」は神さまではないということです。(当然!)
イスラエルの地勢というか地形というか地質というか、行ったことがないのでよくわかりませんけれど(;^_^A ・・・そういうあたりからの比喩でしょう。
そのあたりの人々の共通理解?として「依り頼むもの」を「岩」と表現しているのだろうと思います。根拠となるみことばを引用しておきます。
しかし、彼らの岩は我々の岩に及ばない。我々の敵もそのことは認めている。ちなみに、この申命記32章の「岩」についてはすべて
申命記32章31節
主は言われる。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。申命記32章37節
צוּר tsur
が使われています。
しかし、いずれにしても、みことばをたどって確認するとやはりすべての大元は תּוֹרָהTorahにありそうでした。
主は岩、その御業は完全で
その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく
正しくてまっすぐな方。
申命記32章4節
そして、当然のことですが「岩」という物体が神なのではなく、
イエスさまがマタイによる福音書やルカによる福音書で語られた
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
マタイによる福音書7章24節、25節
それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。
ルカによる福音書6章48節
この意味における「岩」なのだと思います。
何を自分の土台(基礎)部分とするのか、自分はどこに立つのか、
そういう意味での「岩」。
頑丈で崩れることのない、全人生をかけて信ずるに足る、自分の心からも身体からもすべてから力を抜き去って委ねることのできる、依り頼むのにふさわしい「岩」
それが聖書の神さまである、そういう事だと思います。
また、
見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。神さまの奇蹟が岩から起こり、水が岩から湧き出たというイスラエルの実体験が、岩を見るたびに思い起こされ、その奇蹟は繰り返し繰り返し語られるのです。
出エジプト記17章6節
荒れ野では岩を開き
深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。
詩編78編15節
主が岩を開かれると、水がほとばしり
大河となって、乾いた地を流れた。
詩編105編 41節
岩を水のみなぎるところとし
硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。
詩編114編8節
炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、
申命記8章15節
彼らが飢えれば、天からパンを恵み
渇けば、岩から水を湧き出させ
必ず与えると誓われた土地に行って
それを所有せよと命じられた。
ネヘミヤ記9章15節
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも
彼らは渇くことがない。主は彼らのために岩から水を流れ出させる。岩は裂け、水がほとばしる。
イザヤ書48章21節
ところで、
ここまで書いてきてふと思ったことがあります。
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。イエスさまは、ほんとうにこんなふうにおっしゃったのだろうか・・・
マタイによる福音書16章18節
マタイによる福音書16章のこの辺りのこと(ペトロの信仰告白)はマルコによる福音書8章27~30節とルカによる福音書9章18~21節にもあるのですが
そこにはマタイによる福音書16章18節のような部分はありません。
ヨハネによる福音書では1章でいきなりケファと呼ぶという話が出てくるのですが、
そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。ここもペトロの信仰告白に絡んで出てくる話なのでとにかくそのタイミングでイエスさまがシモンにアラム語でケファ(岩)という愛称をつけたのでしょう。
ヨハネによる福音書1章42節
ヨハネはそれ以上のことには言及していません。
Κηφᾶς Képhas という言葉は新約聖書には9回登場するようです。ヨハネによる福音書に1回、コリントの信徒への手紙一に4回、ガラテヤの信徒への手紙に4回。
ただ、ケファは岩には違いないのですが、
「ケファ」と呼んでいるパウロの話を聞いていると
わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
コリントの信徒への手紙一9章5節
それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、
ガラテヤの信徒への手紙1章18節
また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。
ガラテヤの信徒への手紙2章9節
さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。ケファさんの相変わらず・・・な感じが…まあ、パウロ先生も…人間らしい方ですが・・・
なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。
ガラテヤの信徒への手紙2章11節~13節
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ケファという単語ではなく教会(エクレシア)という単語に注目してみても
Strong's Greek 1577 ἐκκλησία エクレシアは新約聖書中に114回登場しますが、
福音書ではこの「この岩の上にわたしの教会を建てる」とイエスさまがおっしゃったというマタイの16章18節に1回と、マタイ18章17節の「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」という計3回登場するだけで、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書には登場しません。そして使徒言行録に23回、以降、書簡には何度も登場するので新約聖書におけるエクレシアの登場回数は合計114回という事になるわけですが
このようなことを考えたとき、
このマタイによる福音書に書かれている3回の「エクレシア」という語は何かの間違いではないか、と思えてくるのです。