少々長めな詩編18編を読んでいると、あちこちにいつかどこかで読んだ記憶のある見覚えのあるフレーズが登場します。もちろんサムエル記下の22章はこの詩編の故郷のようなものですからそっくりであるのは当然のことなのですが、小預言書や詩編のほかの箇所に繰り返されるフレーズを読むと、ダビデがどのような信仰を持っているのか明確に示されるような気がします。
たとえば144編。
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
主はわたしの岩、砦、逃れ場
わたしの神、大岩、避けどころ
わたしの盾、救いの角、砦の塔。
ほむべき方、主をわたしは呼び求め
敵から救われる。
詩編18編2~4節(新共同訳)
主をたたえよ、わたしの岩を
わたしの手に闘うすべを
指に戦するすべを教えてくださる方を
わたしの支え、わたしの砦、砦の塔
わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ
諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。
詩編144編1、2節(新共同訳)
単なる定型的な文が繰り返されているだけだと考えることもできるかもしれませんが、ダビデが本当に心の底から神さまを信頼できる大きな岩であると信じていたのだと考えることもできます。
繰り返し語られるダビデの言葉は
彼の証言であると同時に未来に向かっての宣言でもあり
読んでいる者の心に唱和する者たちの心に力強い励ましを与えてくれます。
定型的な文が繰り返されている:儀式の式文のようなものであったとしても、儀式の式文とし反復させることで後世へ重大なメッセージを遺している可能性があるかもしれません。祭儀自体がメッセージであればなおさらで、それを知る者たちだけの気付く何か、または知ることのできる何かによって羊と山羊を分けるという可能性も考えられます。
実は、詩編18編のこのあとの箇所(5節以下)を読みながら、唐突かもしれませんがヨハネの黙示録6章9節~17節を思い出しておりました。
小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。
彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。
天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、
山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
ヨハネの黙示録6章9節~17節(新共同訳)
ダビデの叫びが神殿に響く様子、そしてダビデの叫びが主の御耳に届いて怒りが燃え上がった場面の描写などが自分の頭の中にあった黙示録6章9節~17節のイメージと重なり似ていると思ったからであると思います。
「地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ」という部分にはイザヤ書2章10節のイメージも重なるこの箇所ですが、
岩の間に入り、塵の中に隠れよ
主の恐るべき御顔と、威光の輝きとを避けて。
イザヤ書2章10節
明らかなことはこの黙示録の箇所もダビデの詩編18編8節~16節に描写されていることも
報復、復讐であるということです。
死の縄がからみつき
奈落の激流がわたしをおののかせ
陰府の縄がめぐり
死の網が仕掛けられている。
苦難の中から主を呼び求め
わたしの神に向かって叫ぶと
その声は神殿に響き
叫びは御前に至り、御耳に届く。
主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。
(略)
わたしのために報復してくださる神よ
詩編18編5~8節、48節(新共同訳)
「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
ヨハネの黙示録6章10節(新共同訳)
ダビデは大地震に揺れ動く大地に主の怒りを感じます。
そして火山の噴火を見、雹と火の雨、そして稲妻を見ます。
そして、その怒りは
「海の底は姿を現し
世界はその基を示す」(18編16節より)
激しい災いであると語ります。
神さまの報復、復讐。
しかしそのような災いの中にあったダビデはダビデにもたらされる「主の御手による救い」のあることを語るのです。
主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
大水の中から引き上げてくださる。
敵は力があり
わたしを憎む者は勝ち誇っているが
なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日
主はわたしの支えとなり
わたしを広い所に導き出し、助けとなり
喜び迎えてくださる。
詩編18編17節~20節(新共同訳)
ダビデは詩編144編5節~7節でもこのように語ります。
主よ、天を傾けて降り
山々に触れ、これに煙を上げさせてください。
飛び交う稲妻
うなりを上げる矢を放ってください。
高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち
大水から、異邦人の手から助け出してください。
これがダビデの信じることでした。
ダビデは神さまについて
こういうお方である、こうしてくださるお方であると確信していたのですね。
そして主を信じ主に従うダビデに主は究極的な勝利を与え、
(新改訳聖書の真似をして太字で書いてみました)
ダビデとその子孫を永遠に慈しみのうちにおかれるということを
ダビデは18編51節において預言的に語っています。
主は勝利を与えて王を大いなる者とし
油注がれた人を、ダビデとその子孫を
とこしえまで
慈しみのうちにおかれる。
そして、異邦人である私たちについても。
あなたはわたしを民の争いから解き放ち
国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え
わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
敵の民は憐れみを乞う。
詩編18編44節45節(新共同訳)
主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。詩編18編32節(新共同訳)