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オリーブ山について

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。 長い間新改訳聖書に慣れ親しんだ私にとってこの新共同訳のみ言葉にはちょっと驚きました。この箇所の始めのところは新改訳ではこう書かれているのです。   だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、 この箇所を新改訳聖書で読んでいた私が長い間頭の中に思っていたことは、動かない山(難題)でさえ強い信仰によって動く(解決する)ということです。しかし、「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い」ということになると何だか話が変わってしまう。まあ、ずっと新共同訳を読んでいて「信仰によって難題は解決するのだ」と思ってきた方もいると思うので、「話が変わってしまう」というのは私個人の印象かと思いますが、この二つの訳(新改訳と新共同訳)の間には共通していない「別の思想」があるような気がするのです。   新改訳を読んで、自分が頭の中で描いていた絵は sink mountain into the sea というイメージで、わりと静かに、山が命令を聞いて自ら意志を持ってずれて沈んでいくような感じ。一方、新共同訳のみ言葉にはかなり激しさがあって、山に命令をしているのだけれど、山が自らどうこうするというよりも、葦の海を分けたような神さまの大いなる力が急激に働いてどっかーんとなる感じ。山が海に飛び込んだら爆弾どころの騒ぎじゃなくなりますから。 (と、イメージを今書きながらふと思ったのですが、これって、どのみち海を埋め立ててるってこと?ちがうね、ちがうちがう。埋め立て工事の祈りであるわけがない)   そうそう、この山が何山であるか一応確認しておくと、マルコ11章1節より、「オリーブ山」ですよね。 あっ、オリーブ山がどっかーんとなる聖書の箇所を思い出した! ゼカリヤ書14章!   その日、主は御足をもって エルサレムの東にある オリーブ山の上に立たれる。 オリーブ山は東と西に半分に裂...

仮庵

このところ詩編を新共同訳で読んでいます。 新改訳だけをウン十年間読み続けたのち、突然通読用の聖書を新共同訳聖書に替えてヨハネによる福音書を読んだとき、それまで全くその存在に気づきもしなかった「わたしはある」ということばが何度も登場していて衝撃を受けたわけですが、このところ読んでいる詩編の箇所でも「仮庵」ということばが登場し、驚いています。 まず、詩編27編5節のところにこういう御言葉があります。 「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ幕屋の奥深くに隠してくださる。」 で、ここは、新改訳では 「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい」 となっているわけです。 まあ、「幕屋」ということばが登場するのだから、どちらの訳で読んでも出エジプト記の一連の出来事を思い起こせるのかもしれませんが、新改訳でこの箇所を読んでいたころの私の脳内では、まず「隠れ場」という何らかの場所というものをイメージするわけです。洞窟だか木の陰だか岩の陰だか、そういう身をひそめるにふさわしい何かがそこにあることを想像するわけです。で、続いて登場する言葉「その幕屋のひそかな所」をどう関連付けるのか一瞬迷うのです。また、「その幕屋」の「その」は「主の」という意味なのか「隠れ場の中の」という意味なのか、もしくは「隠れ場に隠し」と「ひそかな所に私をかくまい」は同義であって単なる言いかえなのか・・・とか。 で、わからないから私の脳内ではこう考えることにしていました。 「要するに、大変な時には守ってくれるということ」 もちろん、そうなのかもしれません。それでよいのかもしれません。ダビデと私は文化的背景が違うわけですから、「要するに」どうであるのか、それさえわかればよいのかもしれません。 しかし、です。新共同訳で読んだこの節に「仮庵」ということばを見つけたとき、私の「要するに」という理解と「ダビデの言いたいこと」は違うのかもしれない、と思ったのですね。 「仮庵」と聞くと「仮庵の祭」を思い出すわけですが、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちがモーセに率いられてエジプトを出、荒野で過ごしたときの天幕、それが「仮庵」ですよね。 つまり、「仮庵」ということばによってあの時のあの主、あの神さまが、あの時と同じように今の自分にもしてくださるのだ、と、ダビデは信じ告白している。すべては...

いけにえよりも

しかし神は悪しき者に言われる、 「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、 わたしの契約を口にするのか。 あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。詩篇50篇16、17節 日本語の聖書 サイト様から口語訳聖書を引用させていただきます。  このところずっと新共同訳で詩編を読んでいます。 冒頭に引用した聖句は口語訳詩篇50篇16、17節のところですが 神さまが悪い者に向かって語られる言葉、とても恐ろしく思いました。 なぜならば悪しき者が口にしているのは神さまの定めと契約だからです。 神さまの教えを憎み、神さまの御言葉を捨て去ったにもかかわらず 悪しき者は神さまの定めと契約を口にしているのです。 『主よ、主よ』と言う者がみな天の国に入るわけではないとは福音書でも聞いているところですけれども、本当に怖い。 しかし神は悪しき者に言われる、 「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、 わたしの契約を口にするのか。 あなたは教を憎み、わたしの言葉を捨て去った。 神さまがあえて 「あなたはなんの権利があってわたしの定めを述べ、わたしの契約を口にするのか」 と問われていることを考えれば、きっとこの人は御言葉を取り次ぐような働きをしているのです。一般人がことわざのように御言葉を語るのではなく、権威があるような顔をして、「これが神さまの御言葉だ!」と偉そうに語っているのかもしれません。 新共同訳でここを読むとこうなっています。 神は背く者に言われる。 「お前はわたしの掟を片端から唱え わたしの契約を口にする。 どういうつもりか。 お前はわたしの諭しを憎み わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。 新共同訳の翻訳では、この人は掟を片端から唱えている!というのです。 今の日本で考えてみてください。御言葉を片端から唱えているような人がいた場合、私たちはどういう印象を持つでしょう。少なくとも、普通のクリスチャンの見立てとして、御言葉を片端から唱えているような人に対して抱く印象は、 このひとはおそらく御言葉をよく知っている=熱心なクリスチャン=交わりを持っても安心安全! ではありませんか? ところが、人の内側をご覧になる神さまにはそう見えないわけです。 パッと見、聖書に詳しいのであろう、神学に明るいのであろうこの人のことを 悪しき者、背く者と呼ばれる。そして 「あ...

【調べ学習】「名」という言葉

今朝の通読中、エペソ1章21節の「名」 ὄνομα という言葉が気になったのでBIBLE HUBのコンコルダンスで調べました。 Strong's Greek: 3686. ὄνομα (onoma) ギリシャ語の聖書では「名」という言葉が マタイ10:41にも使われているといいます。 GRK: προφήτην εἰς ὄνομα προφήτου μισθὸν Nestle GNT 1904のマタイ10:41全文 ὁ δεχόμενος προφήτην εἰς ὄνομα προφήτου μισθὸν προφήτου λήμψεται, καὶ ὁ δεχόμενος δίκαιον εἰς ὄνομα δικαίου μισθὸν δικαίου λήμψεται. このNestle GNT 1904だけでなくほかのいろいろなギリシャ語聖書に「名」という言葉に相当するギリシャ語ὄνομαがありました。 英語の聖書ではKJVには「名」という言葉があり KJV: in the name of a prophet KJV41節全文 He that receiveth a prophet in the name of a prophet shall receive a prophet's reward; and he that receiveth a righteous man in the name of a righteous man shall receive a righteous man's reward. ところがNIVになるとマタイ10:41ではnameという単語がなくなっているのです。 Whoever welcomes a prophet as a prophet will receive a prophet’s reward, and whoever welcomes a righteous person as a righteous person will receive a righteous person’s reward. その代わりに「a prophet as a prophet」という表現となっていて、これは新改訳聖書や新共同訳聖書でもつかわれている表現と同じ。 新改訳「預言者を預言者だ...

【調べ学習】神殿について

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 コリントの信徒への手紙一3章16節 一コリントの通読をしております。3章を読んでいる中で「神殿」という言葉が気になったので今日は神殿について BIBLE HUB   http://biblehub.com/ を使わせていただいての調べ学習をしようと思います。 まずは英語から NIVでは Don't you know that you yourselves are God's temple and that God's Spirit dwells in your midst? とあり、神殿はGod's templeという風に訳されています。 で、ほかの訳ではtemple of GodとかGod's sanctuary、sanctuary of Godなどと訳されていますが、God's templeまたはtemple of Godというのが多数派です。   次にギリシャ語templeに該当するところは ναὸς  (naos)という語で 新約聖書全体では ναῷ で 8回  ναοῖς で 1回  ναὸν で 13回 ναὸς という形で 10回 ναοῦ で 12回 ναοὺςで 1回   「ναὸς」が使われている御言葉は(日本語の聖句は新共同訳から引用しています)   マタイ2:17「黄金を清める 神殿 」 ヨハネ2:20「この 神殿 を建てるのに46年も」 一コリント3:16「自分が神の 神殿 であり」 一コリント3:17「神の 神殿 」 一コリント6:19「聖霊が宿ってくださる 神殿 」 黙示11:19「天にある神の 神殿 」 黙示15:5「天にある証しの幕屋の 神殿 」 黙示15:8「この 神殿 は、神の栄光と」 黙示21:22「主と子羊とが都の 神殿 」     そして、 Thayer's Greek Lexicon STRONGS NT 3485: ναός によれば、 このギリシャ語はヘブル語の הֵיכָל に該当する言葉で、 http://biblehub.com/hebrew/1964.htm BIB...

大きい小さい

コリントの信徒への手紙一1章21節 神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった 新改訳第3版でここはこう訳されています。 神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた  「宣教という愚かな手段」、「宣教のことばの愚かさ」、というパウロの言葉を繰り返し読みながら 「神さまというお方は、いつもこうなのだ」 と思いました。 そもそも、 神さまはイスラエルを、強く大きく期待大だったから選んだのではなく、むしろ彼らが貧弱だったから選んだのでありました。(申命記7章6節参照)   いつも神さまは、人間が好んで選びそうな「効率が良い」とか「体裁が良い」とか そういうのとは真逆を行かれます。 主は 小さくて弱いものを ご自身の御力によって 大きく大きく強く強くしてくださる。 そして主は、 幼子、乳飲み子の口によって力を打ち建てられる。   「大きく大きく」とタイピングしながら、 「 マグニフィカティオ 」という言葉を思い出しました。 イエスさまのお母さんであるマリアが神さまをほめたたえる「マリアの賛歌(マグニフィカート)」ルカ1章46節。マリアの最初の言葉「わたしの魂は主をあがめ」というのは ラテン語で、マグニフィカティオ=大きくする 神を大きく大きくする 自分は小さく、ますます小さくなっていく 賛美とは本来そういうものなのですね。 賛美とは 神を大きく大きくする 自分は小さく、ますます小さくなっていく ということ。     そう書きながら 今度はミカ書6章8節が思い出されたのでありますが 人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。  「へりくだって神と共に歩む」とは ちょうど「神を大きく大きくする 自分は小さく、ますます小さくなっていく」と同じ意味であって そういう中で神さまは 小さくて弱い私たちをご自身の御力によって大きく大きく強く強くしてくださる。 ところで、 聖書には「大きくて強い」と思い込んでいた教会の話が書かれていました。 黙示録に登場するラオディキア教会。 ラオディキア教会と言えばなまぬるいというイメージがありますが、 ...

偶像(2)

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最近私は「羊飼いが見た詩篇23篇」という本を読んでいるのですが、 詩篇23篇でダビデが「主は私の羊飼い」とたとえたその深い意味を学ぶ面白さにすっかりはまってしまいました。 羊という動物の性質や行動の細かいことを知れば知るほど、羊飼いとたとえられたお方のいっしょうけんめいな愛を感じます。 例えば41ページのこんな記述や 「(略)予期しなかった小さな犬をちょっと見ただけで(略)二百頭を越える私の羊は(略)逃げた。」「(略)無力で、臆病で、弱々しい、ただ逃げることしかできない動物」 71ページ 「(略)最も強い、時にはもっとも健康な羊でさえ、倒れて、死傷することがありうる」 69ページ 「ひっくり返って、自分で起き上がることのできない羊(略)立ち上がろうとしてもがく中で皮がむけてくる。(略)持ち主がかなり短い時間のうちにそこに到着しないと、羊は死ぬ。」 転びやすい性質を持つ「私」という羊が、うっかり転び、ひっくり返った挙句に起き上がれず、狂ったようにもがいているとき、羊飼いである主は何をおいても飛んできて抱きかかえて起こしてくださるお方なのだ、何回転んでもやさしく起こし、傷だらけの体に薬をを塗って、おいしい露にぬれた青草を毎日毎日食べさせてくださる。だからこそ今もこうして生きていられるんだ、と本当にうれしくなりました。 さて、 今日のタイトルは「偶像」であります。 実はこの本の42ページにこんな文章がありました。 42ページ 「時が経つにつれて、羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。主人、持ち主、保護者がそこにいることで、彼らは何よりも安らぎを感じた。」 そこを読んだとき「ああそうか、だからクリスチャンは偶像をつくってしまうのだ」という思いに至ったのです。 「羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。」と書かれていますが、ここです、羊のこの性質が「無意識下の悪意なき裏切りの自覚なき偶像」を作り出してしまうのです。 人間の目にはっきりと見えたお方イエスさまが地上にいらっしゃらない今、 もちろん私たちには聖霊さまが与えられているわけですが 神さまを「五感で感じられない」という問題は、特に偶像の国「日本」で生まれた羊にとっては大きな不安定要素になるので...