このところ詩編を新共同訳で読んでいます。
新改訳だけをウン十年間読み続けたのち、突然通読用の聖書を新共同訳聖書に替えてヨハネによる福音書を読んだとき、それまで全くその存在に気づきもしなかった「わたしはある」ということばが何度も登場していて衝撃を受けたわけですが、このところ読んでいる詩編の箇所でも「仮庵」ということばが登場し、驚いています。
まず、詩編27編5節のところにこういう御言葉があります。
「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ幕屋の奥深くに隠してくださる。」
で、ここは、新改訳では
「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい」
となっているわけです。
まあ、「幕屋」ということばが登場するのだから、どちらの訳で読んでも出エジプト記の一連の出来事を思い起こせるのかもしれませんが、新改訳でこの箇所を読んでいたころの私の脳内では、まず「隠れ場」という何らかの場所というものをイメージするわけです。洞窟だか木の陰だか岩の陰だか、そういう身をひそめるにふさわしい何かがそこにあることを想像するわけです。で、続いて登場する言葉「その幕屋のひそかな所」をどう関連付けるのか一瞬迷うのです。また、「その幕屋」の「その」は「主の」という意味なのか「隠れ場の中の」という意味なのか、もしくは「隠れ場に隠し」と「ひそかな所に私をかくまい」は同義であって単なる言いかえなのか・・・とか。
で、わからないから私の脳内ではこう考えることにしていました。
「要するに、大変な時には守ってくれるということ」
もちろん、そうなのかもしれません。それでよいのかもしれません。ダビデと私は文化的背景が違うわけですから、「要するに」どうであるのか、それさえわかればよいのかもしれません。
しかし、です。新共同訳で読んだこの節に「仮庵」ということばを見つけたとき、私の「要するに」という理解と「ダビデの言いたいこと」は違うのかもしれない、と思ったのですね。
「仮庵」と聞くと「仮庵の祭」を思い出すわけですが、エジプトで虐げられていたユダヤ人たちがモーセに率いられてエジプトを出、荒野で過ごしたときの天幕、それが「仮庵」ですよね。
つまり、「仮庵」ということばによってあの時のあの主、あの神さまが、あの時と同じように今の自分にもしてくださるのだ、と、ダビデは信じ告白している。すべてはあそこから始まっている、根拠はそこにあり、自分はそれを信じているのだ、と。
私が脳内変換したような「要するに」「神さまは守ってくださる」のではない。
私がもしダビデの詩を読みアーメンと言うのなら、私自身もあの「ユダヤ人たちをエジプトから脱出させてくださった」神さまであるというところまでを考えるべきなのではないか、と細かいことがとても気になる今日この頃。