偶像(2)

最近私は「羊飼いが見た詩篇23篇」という本を読んでいるのですが、
詩篇23篇でダビデが「主は私の羊飼い」とたとえたその深い意味を学ぶ面白さにすっかりはまってしまいました。
羊という動物の性質や行動の細かいことを知れば知るほど、羊飼いとたとえられたお方のいっしょうけんめいな愛を感じます。

例えば41ページのこんな記述や

「(略)予期しなかった小さな犬をちょっと見ただけで(略)二百頭を越える私の羊は(略)逃げた。」「(略)無力で、臆病で、弱々しい、ただ逃げることしかできない動物」

71ページ

「(略)最も強い、時にはもっとも健康な羊でさえ、倒れて、死傷することがありうる」

69ページ

「ひっくり返って、自分で起き上がることのできない羊(略)立ち上がろうとしてもがく中で皮がむけてくる。(略)持ち主がかなり短い時間のうちにそこに到着しないと、羊は死ぬ。」

転びやすい性質を持つ「私」という羊が、うっかり転び、ひっくり返った挙句に起き上がれず、狂ったようにもがいているとき、羊飼いである主は何をおいても飛んできて抱きかかえて起こしてくださるお方なのだ、何回転んでもやさしく起こし、傷だらけの体に薬をを塗って、おいしい露にぬれた青草を毎日毎日食べさせてくださる。だからこそ今もこうして生きていられるんだ、と本当にうれしくなりました。


さて、

今日のタイトルは「偶像」であります。

実はこの本の42ページにこんな文章がありました。
42ページ

「時が経つにつれて、羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。主人、持ち主、保護者がそこにいることで、彼らは何よりも安らぎを感じた。」

そこを読んだとき「ああそうか、だからクリスチャンは偶像をつくってしまうのだ」という思いに至ったのです。
「羊にとっては、私が野にいるのを見るほど、心やすまり、安心させられることはないことに私は気づいた。」と書かれていますが、ここです、羊のこの性質が「無意識下の悪意なき裏切りの自覚なき偶像」を作り出してしまうのです。

人間の目にはっきりと見えたお方イエスさまが地上にいらっしゃらない今、
もちろん私たちには聖霊さまが与えられているわけですが
神さまを「五感で感じられない」という問題は、特に偶像の国「日本」で生まれた羊にとっては大きな不安定要素になるのです。
で、
教会の十字架を見るとほっとする、とかいうことになったりし、
それがエスカレートすると
十字架のペンダントを身につけたり握りしめていると幸せな感じになる、とか、
牧師や伝道者を名乗る者がその立場をわきまえないままに勝手に発した異常な言葉や、地上の権威を着込んで混ぜこんだ「知的」で「深く考えなくてもわかるお得な情報」を、神の言葉と等しいもののように扱ったり、
神の言葉を取り次ぐ通りよき管(くだ)であるべき人々を神のように尊び、その「人の言葉=解釈」を待ち望むようになったりするわけです。


もちろん本人たちには偶像の自覚はないのです。
救いにとって重要な「十字架」なんだから何の問題はないと思い、
聖職者たち教職者たちを尊敬するのは当然のことなんだし、彼らはよく聖書を学んでいるから彼らの語る言葉には吟味など必要なく絶対だ、と思う。
そして、地上に生きているんだから地上の権威はいろんな意味で重要だ、と考えている。




神さまは、目で見えないし手ではさわれないお方です。しかし、
神さまは「ことば」であられ、御言葉によって私たちと豊かな交わりを持ってくださいます。

神さまの御声はかすかな細い声。

そして、求めるものには与え、権威など一切あるはずもない幼子にもご自身を現し理解させてくださるお方です。