コリントの信徒への手紙一1章21節
神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった
新改訳第3版でここはこう訳されています。
神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた
「宣教という愚かな手段」、「宣教のことばの愚かさ」、というパウロの言葉を繰り返し読みながら
「神さまというお方は、いつもこうなのだ」
と思いました。
そもそも、
神さまはイスラエルを、強く大きく期待大だったから選んだのではなく、むしろ彼らが貧弱だったから選んだのでありました。(申命記7章6節参照)
いつも神さまは、人間が好んで選びそうな「効率が良い」とか「体裁が良い」とか
そういうのとは真逆を行かれます。
主は
小さくて弱いものを
ご自身の御力によって
大きく大きく強く強くしてくださる。
そして主は、
幼子、乳飲み子の口によって力を打ち建てられる。
「大きく大きく」とタイピングしながら、
「マグニフィカティオ」という言葉を思い出しました。
イエスさまのお母さんであるマリアが神さまをほめたたえる「マリアの賛歌(マグニフィカート)」ルカ1章46節。マリアの最初の言葉「わたしの魂は主をあがめ」というのはラテン語で、マグニフィカティオ=大きくする
神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく
賛美とは本来そういうものなのですね。
賛美とは
神を大きく大きくする
自分は小さく、ますます小さくなっていく
そう書きながら
今度はミカ書6章8節が思い出されたのでありますが
人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
「へりくだって神と共に歩む」とは
ちょうど「神を大きく大きくする 自分は小さく、ますます小さくなっていく」と同じ意味であって
そういう中で神さまは
小さくて弱い私たちをご自身の御力によって大きく大きく強く強くしてくださる。
ところで、
聖書には「大きくて強い」と思い込んでいた教会の話が書かれていました。
黙示録に登場するラオディキア教会。
ラオディキア教会と言えばなまぬるいというイメージがありますが、
なまぬるいということだけでなく、神さまはこの教会に対してこんな指摘をされていました。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。
この御言葉を読んでわかることは、
神さまの語られる豊かさというのは人間の考えている豊かさとは違うらしい、ということです。
それは、同じく黙示録に登場するスミルナ教会に対する御言葉でもわかります。
わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。
そしてそれは有名な山上の説教でもわかることです。
貧しい者は幸いだと語られ
悲しむものは幸いだと語られた主。
そしてイエスさまは
小さく貧しい人の友、罪びとの友となってくださり
小さく弱いものをご自身の力で大きく強くしてくださいました。
この世で人は強い人にすがり、金持ちに媚びて友となろうとするけれども
神さまはそうではない、
この世で人は賢い人を優れたものとし知恵ある人を称賛するけれども
神さまは人々からさげすまれるような者たちの友となられるのだ、と
人となられた神さま=イエスさま はご自身の行いをもって教えてくださったのです。
ここでもう一度「ラオディキア教会」の箇所を引用します。
あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
ラオディキア教会に
主はこう語りかけられます。
クリスチャンの群れである教会に
主はこう呼びかけておられます。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。
主は教会の外におられるのです。そして教会の戸口をたたいておられる。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう、と。