2017年8月1日火曜日

オリーブ山について

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

長い間新改訳聖書に慣れ親しんだ私にとってこの新共同訳のみ言葉にはちょっと驚きました。この箇所の始めのところは新改訳ではこう書かれているのです。
 

だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、

この箇所を新改訳聖書で読んでいた私が長い間頭の中に思っていたことは、動かない山(難題)でさえ強い信仰によって動く(解決する)ということです。しかし、「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い」ということになると何だか話が変わってしまう。まあ、ずっと新共同訳を読んでいて「信仰によって難題は解決するのだ」と思ってきた方もいると思うので、「話が変わってしまう」というのは私個人の印象かと思いますが、この二つの訳(新改訳と新共同訳)の間には共通していない「別の思想」があるような気がするのです。
 
新改訳を読んで、自分が頭の中で描いていた絵は sink mountain into the sea というイメージで、わりと静かに、山が命令を聞いて自ら意志を持ってずれて沈んでいくような感じ。一方、新共同訳のみ言葉にはかなり激しさがあって、山に命令をしているのだけれど、山が自らどうこうするというよりも、葦の海を分けたような神さまの大いなる力が急激に働いてどっかーんとなる感じ。山が海に飛び込んだら爆弾どころの騒ぎじゃなくなりますから。
(と、イメージを今書きながらふと思ったのですが、これって、どのみち海を埋め立ててるってこと?ちがうね、ちがうちがう。埋め立て工事の祈りであるわけがない)
 
そうそう、この山が何山であるか一応確認しておくと、マルコ11章1節より、「オリーブ山」ですよね。
あっ、オリーブ山がどっかーんとなる聖書の箇所を思い出した!
ゼカリヤ書14章!
 

その日、主は御足をもって
エルサレムの東にある
オリーブ山の上に立たれる。
オリーブ山は東と西に半分に裂け
非常に大きな谷が出来る。
山の半分は北に退き、半分は南に退く。
あなたたちはわが山の谷を通って逃げよ。
山間の谷はアツァルにまで達している。
ユダの王ウジヤの時代に
地震を避けて逃れたように逃げるがよい。
わが神なる主は、聖なる御使いたちと共に
あなたのもとに来られる。
ゼカリヤ書14章4、5節

とするとミカ書のこれもオリーブ山かな
 

見よ。主はその住まいを出て、降り
地の聖なる高台を踏まれる。
山々はその足もとに溶け、平地は裂ける。
火の前の蠟のように
斜面を流れ下る水のように。
ミカ書1章3、4節

そんなふうに考えていたら、オリーブ山と言えば
マタイ24章の終末の教えを語られた場所(マタイ24:3)
ですし、イエスさまが天に上げられたところもオリーブ山でした。(使徒1章)
 
そのオリーブ山に向かって、

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

 
 
 
 
ここでもう一度ここに至る文脈を確認します。
「いちじく」についての調べ学習
という記事の所で書きましたが、
いちじくの実が無いということは、旧約聖書のあちこちを読んで検証した結果、喜びも平安もなく、神さまから見捨てられた状態を表現するときの象徴的なできごと、もしくは、実際に実は無いし木も枯れるのかもしれませんが、とにかくイスラエルを愛し選んでくださったまことの神さまと断絶した状態の表現であることがうかがえ、
また、宮きよめについても、あの常に穏やかなイエスさまが神殿から商人を追い出し腰掛けをひっくり返す=神さまによる実力行使=裁き ということが連想される。
とすると、
いちじくが枯れました、とイエスさまに報告をするペトロの言葉を受けて展開していくこの箇所は、「信じて祈れば与えられる」という事を教えるために山が動くということを単純に「例えに引いた」だけの教えではないように思えるのです。
 
新共同訳聖書の訳によってイメージが破壊される前にも実は

また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

この箇所について、どうして「ここで」こんなことをイエスさまは言われるんだろうとずーっと思っておりました。「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」で終わりにすれば良いじゃないですか。しかし「いかにも」という感じに付け加えられている言葉。
ひねくれ者の私は、「祈った結果として自分ばかりがスゴイ物もらっちゃってばかりでは申し訳ないから、とりあえず、もらった分のお返しとして誰かを赦せってことなんだろうか」とか、
「強い信仰=祈りを聞いてもらえる条件 として、人を赦せってことなんだろうか」
そんなふうに思いもしました。でも何だか不自然で。
 
でも、もしもこの箇所が、単なる「信じて祈れば与えられる」ということを教えた箇所ではなく、いちじくが枯れた話に続く「さばき」を視野に入れた話であったならば、
 
マタイによる福音書16章19節

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

を併せて考えることにより
「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。」
というみことばは恐ろしいまでに重い責任のある、ここに不可欠なみことばとなる気がするのです。
 
すると

だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。

このみことばは
 
信じる者はだれでも、わたし(イエスさま)が行ったようにいちじくを枯らす=さばくこと=山を海に飛び込ませること が出来るんだよ。
でも、わたし(イエスさま)はさばかない。
なぜなら、わたし(イエスさま)は十字架にかかり、苦しみ、罪を背負ってわたし(イエスさま)を信じる者にいのちを得させるために来たのだから。
だからあなたがた(クリスチャン)もさばかず赦しなさい。あなたがたも今は信ずるものに変えられたかもしれないが、罪を赦されてその立場をいただいたのだからね。だから、だれかを恨んでいるようなことがあるならば、その人を呪うのではなく。むしろ、とりなして、救いを求めてやりなさい。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるのだから。
 
こんなふうにも聞こえてくるのでした。